『プラットフォーム』 “奇跡”は必要か?

外国映画

ガルダー・ガステル=ウルティアというスペインの監督の長編デビュー作。

原題「El Hoyo」で、スペイン語で「穴」という意味。

シッチェス・カタロニア映画祭で最優秀作品賞、トロント国際映画祭の「ミッドナイトマッドネス部門」では観客賞などを受賞した作品。

物語と3つのルール

ある日、ゴレン(イバン・マサゲ)は目を覚ますと知らない場所にいた。「48」と記されたその部屋の中央には大きく穴が空いており、その穴は上と下に延々と続いている。そこには同居人トリマガシ(ソリオン・エギレオール)がいて、ゴレンは彼からその場所でのルールを聞くことになる。

中央部の穴にはある時間になると“プラットフォーム”と呼ばれる台が降りてくる。そこには上の階層にいる者たちが食べ散らかした残飯の山が乗っている。その場所で生きていくためには、残飯を食べて生きていくしかないのだというのだが……。

3つのルール

ルール1:1ケ月ごとに階層が入れ替わる

ルール2:何でも1つだけ建物内に持ち込める

ルール3:食事が摂れるのはプラットフォームが自分の階層にある間だけ

(C)BASQUE FILMS, MR MIYAGI FILMS, PLATAFORMA LA PELICULA AIE

おぞましい世界

『CUBE』のようなシチュエーション・ホラーというジャンルなのだが、『プラットフォーム』は「怖い」というより「おぞましい」世界が描かれていく。多くの人にとって嫌悪感をもよおすであろう要素がてんこ盛りだからだ。

そもそも残飯を漁って生きていかなければならないという時点ですでに眉を顰める人だって多いはずだし、その後に展開される極限状態の中でのあさましい人間の姿は嫌悪感を禁じ得ない。殺人や自殺から始まって、カニバリズムに脱糞にレイプなど、これでもかというくらいのエピソードが詰め込まれているからだ。飛び散る血の描写も鮮烈だったし、人の肉を喰らうシーンでは日本版だけの自主規制なのかボカシまで入っているのだ。

それでも本作が他のシチュエーション・ホラーと異なるのは、社会風刺が効いているところだろう。ゴレンが最初に配置されたのは48階層だが、その階層ではまだ食べ残しとはいえ食糧らしきものは残っている。だから汚い残飯だということは我慢すれば生きていけないことはない。

しかし、トリマガシが語ることによると、月が変わってさらにもっと下に降りることになると、食べ物は一切残っていない。となるとどうなるのかと言えば、座して餓死を待つのか、絶望して自殺するか、はたまた自分以外の同居人を食べるかという究極の選択を迫られることになる。

そのためか「ルール2」に設定されているように、その場所には自由に持ち込める物がつだけあって、トリマガシはナイフを持ち込んでいる(ちなみにゴレンの持ち込んだ物は『ドン・キホーテ』)。それで人の肉を削ぎ落すことを念頭に置いているのだ。

また、「ルール1」にあるように、1ケ月が経つと階層はランダムに入れ替わるのだが、同居人は死ぬまで変わることがない。つまりは48階層ではふたりは残飯を喰らいつつ共に生きていけるが、もっと下の階層になった時にはトリマガシはゴレンを喰うつもりなのだ。

(C)BASQUE FILMS, MR MIYAGI FILMS, PLATAFORMA LA PELICULA AIE

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格差社会を風刺する

『プラットフォーム』の設定が現実の格差社会を風刺していることは明らかだろう。去年のアカデミー賞作品賞受賞作『パラサイト 半地下の家族』でも階級社会がテーマとなっていて、そこでは経済学のトリクルダウン理論を思わせるような演出がなされていた。これは「富裕層が富むことで、そのおこぼれが下に落ちていく」というものだ。『パラサイト』ではそのおこぼれを巡って貧しい者同士が争うことになることになり、さらに実際にはその理論が間違っていて、下に落ちてくる物は汚物ばかりということが示されていた。

『プラットフォーム』はまさにそれを映像化していて、最上階の0階層では美しく整然と並べられていたご馳走は、下に行くにつれてほとんど汚物と化していく。誰もが自分の都合しか考えず、好き放題に食べ散らかした結果がその状態なのだ。

しかし、1ケ月ごとに階層がシャッフルされるわけで、来月は誰もが最下層になる可能性もあることになる。だとしたら下の階層のことを考えたとしても不思議ではない。用意された料理を各階層において生きていくのに十分なだけを取り分け、下に続く階層の人間を思い遣ることができるとするならば、この問題は解決するはずだ。しかし現実的にはそれはあまりに理想論に過ぎるのだ。

劇中でも言及されているように共産主義という理想がそこには反映しているわけだが、現実世界においても共産主義が頓挫したことが明らかとなった今では、そんな理想論を振りかざす者は揶揄の対象となることになる。

(C)BASQUE FILMS, MR MIYAGI FILMS, PLATAFORMA LA PELICULA AIE

“奇跡”は必要か?

本作ではキリスト教に対する言及がいくつも含まれている。たとえばゴレンはその場所のシステムを変えようと奮闘することになるのだが、その行動は周囲から「救世主なら食べ物を増やせ」と罵倒されることになる。

これは福音書のエピソードに基づいている。パン五つと魚二匹を増やして、五千人もの人に食べさせたとされる出来事だ。このエピソードはイエスが救世主であることを示すために行った“奇跡”ということになっているわけだが、その解釈には様々なものがあるようだ。

社会学者の大澤真幸がどこか(『〈世界史〉の哲学』だったか?)で書いていたと記憶しているのだが、その解釈によればそれは“奇跡”ではないことになる。

というのは、イエスの説教を求めて遠くから駆け付けた人々が、何も持たずにやってきたとは考えられないからだ。しかし、自分が持っている食糧をほかの人に分け与えるほどのお人好しばかりでもない。そんな時にイエスが聴衆に呼び掛け、自分の隠し持っていた食糧をほかの人に分け与えたとしたらどうだろうか。それぞれが食糧を出し合い、周囲に分け与えたら、全員に行き渡ることになるのではないか。つまり“奇跡”など起きなくとも、人々の心がけ次第で解決できることなのかもしれないわけだ。

イエスの“奇跡”のエピソードはそんなふうにも解釈できるのだ。ちなみにネット検索してみると、ある教会のサイトにも同様の解釈が記載されていたから、突拍子もない解釈ではないということらしい。

そもそも『プラットフォーム』に登場するシステムは、原始共産制とでも言ったらいいのか、ある物をみんなで分け合って生きていくという精神を涵養するための実験的な施設であることが語られる。もちろんこの説はゴレンの二番目の同居人であるイモギリ(アントニア・サン・フアン)の独自の説なのかもしれないのだが、実際にそのシステムの中で起きていることは、上の者がすべてを奪い、下の者のことなど考えもしないという醜い争いだったということになる。

理想と現実

上の者に呼びかけてそのシステムを変えていこうというゴレンは理想主義者だろう。一方で、すべてのことを知り尽くしているかのように「明らかだ」と断言するトリマガシは現実主義者だ。そのトリマガシが語るように、上の者は下の者の言うことに聞く耳を持たないから、ゴレンの訴えは無視されることになる。

逆に下の者は上の者から脅迫されるということがある。大事な食糧をクソまみれにしてやるぞと脅されれば、下の者は逆らいようがないからだ。ゴレンが言うように「上に向けてクソをすることはできない」わけで、やはり上にいる者が優位なのは揺るがないというわけだ。

ゴレンはその後にトリマガシの肉を喰うことになった。喰われたのはトリマガシだが、ゴレンの理想主義はトリマガシの現実主義に敗北したとも言えるだろう。また、ゴレンの次の同居人である運営局にいたイモギリも、その次に同居人となるバハラット(エミリオ・ブワレ)も理想主義者だと言えるが、ふたりのように他人の善意をあてにする方法は必ず失敗することになる。

結局ゴレンがそのシステムを変革するためにバハラットと起こした行動は、プラットフォームに乗って暴力でもって強制的に食糧を分配するというものだった。これは共産主義が暴力革命を必要としていたこととも一致している。

(C)BASQUE FILMS, MR MIYAGI FILMS, PLATAFORMA LA PELICULA AIE

メッセージは届いたのか?

ゴレンは最下層まで辿り着き、0階層にいるであろう人たちにあるメッセージを送ることになるのだが、それによってシステムが変革されることになるのかはわからぬままエンディングを迎えることになる。

何となく希望を残した形で終わっているようにも見えるわけだが、ゴレンが持ち込んでいたのはセルバンテス『ドン・キホーテ』だったことを考えると疑問も浮かぶ。ドン・キホーテは騎士道物語を読み過ぎてそれを現実化しようとした狂人であり、風車を巨人と勘違いして闘いを挑むのだが、それはドン・キホーテの妄想でしかなかったのだ。

妄想を抱きがちなドン・キホーテの傍にいたのは、サンチョ・パンサという現実的な従者だったわけで、ラストでゴレンと一緒に去っていくトリマガシの亡霊は、ドン・キホーテとサンチョ・パンサのコンビにも見える。

だとするとゴレン=ドン・キホーテの闘いは、狂人が理想主義的な妄想を抱いているだけの独りよがりのものだったということなんだろうか。とはいえ、トリマガシ=サンチョはゴレンのことが好きになったとも語っていたわけで、その行動が無茶苦茶だったとしても、ゴレンの高潔さを認めていたようにも思えなくもない。

とにかく色々な解釈が出来そうな作品であることは確かだろう。本作の設定は現実社会の縮図となっているわけだが、それには当てはまらないような要素もある。各階層を移動しながら自分の子供を探しているというミハル(アレクサンドラ・マサンカイ)という女性は何者だったのだろうか。また、最後の階層にいた子供は、そのシステムのルールから外れている存在だが、その子供が意味するものは何なのだろうか。様々な謎は残ったままなのだが、そこから意外な解釈が生まれたりするのだろうし、謎の意味をあれこれと考えて妄想に浸るのもこうした映画の楽しみ方なのかもしれない。

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