監督・脚本は『母の残像』や『テルマ』などのヨアキム・トリアー。
共同脚本にはエスキル・フォクト。
アカデミー賞では脚本賞と国際長編映画賞にノミネートされ、カンヌ国際映画祭では女優賞(レナーテ・レインスヴェ)を獲得したノルウェー映画。
物語
学生時代は成績優秀で、アート系の才能や文才もあるのに、「これしかない!」という決定的な道が見つからず、いまだ人生の脇役のような気分のユリヤ。そんな彼女にグラフィックノベル作家として成功した年上の恋人アクセルは、妻や母といったポジションをすすめてくる。ある夜、招待されていないパーティに紛れ込んだユリヤは、若くて魅力的なアイヴィンに出会う。新たな恋の勢いに乗って、ユリヤは今度こそ自分の人生の主役の座をつかもうとするのだが──。
(公式サイトより抜粋)
“自分探し”の旅
『わたしは最悪。』はプロローグとエピローグ、さらにそれらに挟まれた12章からなる。最初にそんなことが説明される。プロローグがなかなか慌ただしい。まだ学生の頃のユリヤ(レナーテ・レインスヴェ)が登場するのだが、ユリヤは“自分探し”の真っ最中といった感じで、次々と自分の進むべき方向性を試している。
最初は成績が優秀だからというだけの理由で医学を志すものの、外科の仕事は大工仕事みたいで興味が持てずに放り出してしまう。自分の知りたいのは人の心だと気づいたユリヤは、次に心理学を学ぶものの、それもどうやらしっくり来ない。さらには写真家を目指すことになるのだが、とにかくユリヤは進むべき道が見つからないのだ。
それから時間が経過し、30歳を目前にしたユリヤはグラフィックノベル作家のアクセル(アンデルシュ・ダニエルセン・リー)と出会う。ふたりはすぐに意気投合してつき合うようになるのだが、アクセルは歳の差を理由に別れを切り出そうとする。なぜかそれがユリヤのツボに入ったのか、ユリヤはアクセルと同棲生活を始めることになる。ここまでがプロローグだ。
これは浮気じゃない
そこから第1章が始まるわけだが、伴侶を得たユリヤが精神的に安定するというわけではない。アクセルはすでに仕事での成功はある程度収めている。そうなると私生活のほうに目が向くことになるのか、ユリヤに結婚ということを意識させるようになってくるし、さらには子供が欲しいと言い出す。アクセルは40代で先のことを見据えているのだ。
ここでアクセルも心配していたように歳の差が問題となってくる。ユリヤは未だ人生について模索中だからだ。アクセルもそのことに気づいていて、「君はいったい何を待っているの」とユリヤに訊ねている。ユリアは未だにその「何か」が未だ見つかっていないわけで、それにも関わらずアクセルからの“妻”とか“母”といった役割を押し付けられても困ってしまうのだ。自分のことすらわかっていないのに、その先に進むことなどできないというのがユリヤの正直な気持ちだったのかもしれない。
だから第2章においてユリヤがパーティーでアイヴィン(ハーバート・ノードラム)という男性と親しくなるのは必然だっただろう。アイヴィンは同世代であり、アクセルが求めてくるような役割を押し付けることもない。ユリヤにとってはアイヴィンといるほうが気楽なのだ。そして、ふたりはパーティーで「これは浮気じゃない」と言いつつ、かなり危なっかしい戯れを演じることになるものの、結局は名前を聞いただけで別れるのだが……。
探しものは何ですか?
青年期に一種の“自分探し”をするのは当然のことだし、これは誰でも経験のあることだろう。もしかするとアクセルにもそんな時代があったのかもしれない。それでもアクセルは天職のようなものを見つけられたが、そうでない人もいる。というか、見つけられない人がほとんどなんじゃないだろうか。それでもあきらめて世間の流れに身を任せるということなのだろう。しかし、ユリヤのように成績優秀で向上心があったりすると、かえって意地になって“自分探し”をしてしまうことにもなるのかもしれない。
“自分探し”は普遍的なことだろう。森鴎外が書いた小説『青年』の中にこんな文章がある。引用した文章の前には「何の目的の為めに自己を解放するか」などと悩んでいる主人公がいて、何かを製作しようと考えるのだが、それを試みるもののうまくいかないという状況がある。
そんならどうしたら好いか。
生きる。生活する。
答は簡単である。しかしその内容は簡単どころではない。
一体日本人は生きるということを知っているだろうか。小学校の門を潜ってからというものは、一しょう懸命にこの学校時代を駈け抜けようとする。その先きには生活があると思うのである。学校というものを離れて職業にあり附くと、その職業を為し遂げてしまおうとする。その先きには生活があると思うのである。そしてその先には生活はないのである。
現在は過去と未来との間に劃した一線である。この線の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである。
ここで“生活”という言葉で示されているものは、ユリヤが探していた“本当の人生”あるいは“本当の自分の姿”とでも言うべきものなのだろう。しかしそれは単なる理想でしかなく、そんなものは現実にはあり得ないのかもしれない。ユリヤは“自分探し”を続け、その先に“本当の人生”があると考える。それでも、その先に進むとやはりそこには“本当の人生”はないのだ。
「選択の自由」という悩ましさ
鴎外の小説の主人公は男性だが、ユリヤは女性だ。だからといってそれによって状況が大きく異なるというわけでもないだろう。ただ、時代によって変化は生じるのかもしれない。ユリヤはある時エッセイを書いてネットにアップすると、それなりの評判を勝ち得る。しかし、文章を書くことが“本当の人生”とは思えなかったのか、その方向へと進むことはなかったようだ。
その時のエッセイのタイトルが「#MeToo時代のオーラルセックス」で、これは第3章のタイトルでもある。ユリヤとしてはアクセルが家庭に入ることを求めるのにはすんなりとは賛成しかねるけれど、かといって「#MeToo時代」というものにも戸惑いを感じている自分もいるのだろう。
時代は変わっていく。かつてはダメだったことも今では当然のことになる。男女は平等になり、女性が働くことも選べるし、子供を持たないという選択肢だってある。そうしたことは自由な時代になったということでもあるけれど、その反面、選択肢が多すぎて何を選べばいいのかわからなくなるということでもある。
こうした「選択の自由」という悩ましさということについては、『ロニートとエスティ 彼女たちの選択』というレズビアンを描いた作品にも描かれていた。これまで女性は不自由だったからこそ、その悩ましさというものが際立つということなのだろう。
ユリヤはある時アクセルの元を去り、アイヴィンのところへ赴くことになる。この選択を後になって振り返ると「わたしは最悪」と自虐的に感じたということなのかもしれないけれど、こればかりは「後悔先に立たず」というやつじゃないだろうか。また、アイヴィンの子供を授かったというのは勘違いだったのか、あるいは流産したということだったのかはよくわからなかったけれど、それを知った時のユリヤのほっとした表情も印象的だ。このことはユリヤの選択とは言えないわけだし、やはり人生なんてすべてはコントロールできないということだろうか?
時間という概念
監督のヨアキム・トリアーは、本作のテーマのひとつは「時間という概念」だと語っている。時間の流れはそれを体験している当人にとっては一定のものではない。だから本作のプロローグはかなり慌ただしく時が進んでいく一方で、ある時、時間が止まることになる。
それは第5章「バッドタイミング」で、たまたま再会してしまったアイヴィンのところへ赴くことを決めた瞬間だろう。それまでアクセルとの関係で悩んでいたユリヤだが、その瞬間からもうアイヴィンのこと以外は頭の中から消えてしまう。だから、その瞬間に周りの世界は一時停止してしまうことになるのだ(『1秒先の彼女』と似たような設定だ)。そして、誰もが停止しているオスロの街の中をユリヤはアイヴィンのいるところまで走っていくことになる。
このシーンはとてもファンタジックだ。誰もが凍り付いたように停止している中で、ユリヤだけが生き生きとした表情を見せることになる。ただ、そういった瞬間は永遠には続かないわけで、その後は時間はごく普通に流れ出し、すべては日常に帰することになる。
本作はカンヌで女優賞を獲得したレナーテ・レインスヴェの魅力が活かされた作品だった。最初に髪を染めた(?)若いユリヤが登場した時は、予告編で見ていた姿とは全然一致せずに脇役なのかと勘違いしたくらいだった。とにかくシーンごとに印象がころころと変わる人で、様々な表情を見せてくれるところがとても魅力的だった。
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