シェイクスピアの四大悲劇の一つ『マクベス』の映画化。
監督はコーエン兄弟の兄ジョエル・コーエン。今回は単独での監督ということになる。
原題は「The Tragedy of Macbeth」。
Apple TV+で2022年1月14日から配信予定。一部劇場でも公開された。
エンタメは抑え芸術的?
コーエン兄弟の前作の『バスターのバラード』はNetflixオリジナル作品として製作され配信された。今回の『マクベス』はApple TV+で配信予定とのこと。どちらも配信サービスの力を借りて製作しているというのは、監督にとって魅力的なところがあるということなのだろう。
『バスターのバラード』の西部劇オムニバスも、『マクベス』という古典劇の映画化も、劇場に多くの客を呼び込める題材とはあまり思えない。実際『マクベス』を上映した劇場は都内の大きなキャパの劇場だったけれど、夜中近くに終映という回ということもあって観客はまばらな状態だった。それでも配信サービスと提携した製作では、監督がかなり自由にやれるような状況が整っていて、チャレンジングなことができるということなのかもしれない。
というのも、本作はコーエン兄弟のこれまでの作品とは異なり、エンターテインメント性を抑えた撮り方になっているからだ。
魔女が誘う異世界
スタイルとしてはスタンダードサイズのアスペクト比でモノクロという、クラシカルな風格すら漂う映画になっている。台詞もほとんど原作戯曲のそれをそのまま使っていて幾分堅苦しい感じもするけれど、それでいて冒頭の魔女の異様さに一気に物語に惹き込まれることになるだろう。
『マクベス』は有名な「きれいは汚い。汚いはきれい。」という不思議な台詞から始まる。その魔女が発した予言がマクベス(デンゼル・ワシントン)を狂わせていく。起点となる魔女をキャスリン・ハンターが演じている。この魔女の異様さを言い表すのは難しいのだが、身体の動きが人間らしからぬ不気味なものを感じさせ、たちまち観客を別世界へと誘うような役割を担っている。
映像は表現主義的な凝ったものになっている。ほとんどがセットでの撮影となっていて、舞台的な印象でもある。舞台劇の映画化作品が「舞台的」というのは当たり前なのかもしれないけれど、書割めいたセットを背景にし陰翳を強調する照明効果もあって、独特な異世界を作り出しているのだ。
なぜ王を殺したのか?
シェイクスピアの戯曲の中では『マクベス』は『ハムレット』と比較して論じることが多いようだが、この二つを並べると『マクベス』は不思議な話にも感じられる。『ハムレット』では、ハムレットは父王の幽霊の言葉に動かされることになるが、これは父王が殺されたわけでハムレットがその王座を取り戻そうという気持ちは理解できる。
一方の『マクベス』は魔女の予言に動かされる。「王になる」と予言されたマクベスは、王であるダンカン(ブレンダン・グリーソン)を殺すことを考えるわけだが、それまでマクベスは特別に野心家というわけではない。それなのに予言の言葉がマクベスを狂わせていく。まるでダンカンを殺すことが義務であるかのように、意に反してそれを行わなければならないと考えているようにすら見える。マクベスはそれを何度も躊躇することになるわけだが、マクベス夫人(フランシス・マクドーマンド)はマクベスにその予言を成就させるべく夫の尻を叩き励ましていくことになる。
本作ではマクベスがダンカンを殺すために寝室に迫っていく場面を印象的に捉えている。幻の剣がマクベスを導くわけだが、それは寝室の扉の取っ手に過ぎない。マクベスにはそれが「ダンカンを殺せ」と促す剣の幻影として映る。それに導かれるようにゆっくりと寝室に近づいていくマクベスは、誰かに操られているようにすら見えるのだ。ところが事をなした後には我に返る。というよりも、自分たちがやったことにマクベス夫妻は共に押し潰されるように狂気に陥っていく。
マクベスと一緒に魔女の予言を聞いたバンクォー(バーティ・カーベル)は、彼が代々の王の父となるとされる。つまりは魔女の予言を信じたとすれば、マクベスは一代限りの栄光ということになる。というのはマクベスと夫人の間には子供がなかったからで、王座を継承する者がいないことは当然ながらわかっていたはずなのだ。
にも関わらず、マクベスは王座がバンクォーの子孫に受け継がれると知ると、自分がやったこと(ダンカンの殺害)がバンクォーのためだったのかと怒り狂う。はじめからわかっていたはずのことなのに、やってしまった後にそれに気づいたかのようにすら感じられるのだ。ここが不思議に感じられる部分だ。
柄谷行人は、連合赤軍事件に衝撃を受けて書かれたとされる「マクベス論」(『意味という病』所収)において、「観念がひとをくいつぶす」と論じていたわけだが、それはこういうことだったのだろう。今回改めてそんなことを感じた。
運命かあるいは……
原作戯曲と違う点を挙げておけば、ロス(アレックス・ハッセル)という登場人物の役割が大きくなっているところだろう。本作ではロスは裏でマクベスのことを操っているかのようにも見えなくもない。ロスが魔女と同じようにカラスのようになって飛んでいくシーンもあり、ロスも魔女と似たような存在なのかもしれない。ロスの着ている衣装は肩から黒い布が垂れ下がっていて、これはカラスの羽に見えなくもないのだ。
ラストでは、ロスはマクベスの遣わした刺客から逃げ出したバンクォーの息子を保護していたことが明らかになる。ロスは魔女の予言を成就させるかのように暗躍しているのだ。マクベスが魔女の予言だけに翻弄されるとするならば、それは「運命」などという言葉が似つかわしい物語となるのかもしれないが、ロスの暗躍が加わると、マクベスは政治的な陰謀によって葬られた哀れな男という感じがしてくるような気もする。そうなると次の有名な台詞が余計に際立つ感じもした。
人生は歩く影法師、哀れな役者だ。束の間の舞台の上で、身振りよろしく動き廻ってはみるものの、出場が終れば、跡形もない。白痴の語るお話だ、何やらわめき立ててはいるものの、何の意味もありはしない。
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