『ワン・セカンド 永遠の24フレーム』 フィルムに対する執着はなぜか?

外国映画

監督・脚本は『紅いコーリャン』『HERO』などのチャン・イーモウ

ベルリン国際映画祭でも上映予定だったが、「技術的問題」によって上映中止になってしまったことでも話題になったのだとか……。

物語

文化大革命まっただなかの1969年、中国。造反派に歯向い、強制労働所送りになった男(チャン・イー)は、妻と離婚し、最愛の娘とも疎遠になってしまう。
数年後、22号というニュース映画に娘の姿が1秒間映っているという話を聞いた男は、娘を一目見たいがために危険を冒して強制労働所を脱出。逃亡者となりながらも砂漠の中を映画が上映される予定の村を目指して進んでいく。しかし、逃亡者は村へ向かう途中、大事なフィルムを盗み逃げ出す孤児のリウ(リウ・ハオツン)の姿を目撃する。
村までたどり着いた逃亡者は、すぐにリウを見つけ出し締め上げ、盗んだフィルムを映写技師のファン(ファン・ウェイ)に返すのだった。だがそんな時、村では大騒動が勃発!フィルムの運搬係の不手際で膨大な量のフィルムがむき出しで地面にばらまかれ、ドロドロに汚れたフィルムは上映不可能な状態に…。しかもその中には逃亡者が血眼で探していた、22号のニュース映画の缶があった。
果たして逃亡者は愛しい娘の姿を見られるだろうか?そして、追われ続ける彼の運命は―?

(公式サイトより抜粋)

映画についての映画

時代は1969年。この頃、中国の田舎において映画を見ることは、正月みたいなお祭り騒ぎの出来事だったようだ。『ワン・セカンド 永遠の24フレーム』で描かれる映画上映は、そんな賑やかな体験となっている。

当時の中国の田舎では、映画は情報を伝えるメディアとして最先端だったのだろうし、何よりも娯楽というものが少なかった中で、映画は誰もが楽しめるものだったのだろう。今のように誰もが好き勝手に、好きな場所で、好きな映画を見るという楽しみ方とはまったく違うものがあったようだ。

劇中で描かれる村では、老若男女を問わずみんなが同じ映画を見ることになる。しかも多くの人が何度か見ている映画を繰り返し上映したらしい。そして、劇中の主題歌に合わせてみんなが歌い出し劇場が一体になるという、今で言えば「応援上映」みたいな楽しみ方だったようだ。この時代の映画を見るということは特別な体験だったのだ。

こうした体験は監督・脚本のチャン・イーモウ自身のものだという。チャン・イーモウはこうした体験によって映画に夢中になり、映画監督を志すようになったということだろう。本作はチャン・イーモウ版の『ニュー・シネマ・パラダイス』のような「映画を見る」ということについての映画になっているのだ。

(C)Huanxi Media Group Limited

フィルムを巡る闘い

名前が付けられていない主人公(チャン・イー)は、砂漠を歩いてわざわざ映画を見にやってきたらしい。目当ての映画の中(正確には前座ともいうべき「ニュース映画」)に、娘が一瞬だけ映っているからだという。

ところがその大事なフィルムを盗んだ不届き者が登場する。主人公は娘の映画が見られなくなってしまうことを恐れ、その不届き者からフィルムを奪い返すことになる。しかし、その時、すでにフィルムを乗せたバイクは走り去った後だった。こんなふうにして主人公とその不届き者とのフィルムを巡る闘争が繰り広げられることになる。

後半でわかることだが、主人公は強制労働所送りにされた悪質分子で、もう一方の不届き者は小汚い浮浪者のような風貌だが、実は少女だったのだ。この少女には名前はなく、父親がリウだから“リウの娘”(リウ・ハオツン)と呼ばれている。

リウの娘がなぜフィルムを欲しかったのかというと、フィルムの切れ端を使って「電灯の傘」を作ろうとしていたのだ。リウには弟がいて、その弟の勉強のために電灯を借りたものの、間違ってその傘を焼いてしまい困っていたからだ。理由は異なるとはいえ、どちらもフィルムというものに執着しているのだ。

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見せ場は映画の上映?

本作の見せ場となるのは、村での映画上映だ。そもそも映画は数カ月に一度の楽しみとなっていたわけだが、今回はトラブルもあってさらに大騒ぎになる。フィルムの一部が砂まみれになり、とても上映できないような状態になってしまったからだ。

ここで活躍するのが村唯一の上映技師である“ファン電影”(ファン・ウェイ)だ。フィルムの扱いに習熟している彼は、村人たちに的確に指示を出し、フィルムの汚れを落とし、蒸留水でキレイに洗浄し、乾燥させるなどしてフィルムを瀕死の状態から回復させることになる。それが主人公が見たがっていたニュース映画だったのだ。すったもんだの挙げ句に主人公はようやく一瞬だけ娘の姿を見ることができることになるのだが、彼のこれほどのフィルムに対する執着は何だったのか?

それについては後に触れるつもりだが、本作は冒頭の広大な砂漠の中を主人公が歩いてくるシーンなど、かつて『黄色い大地』(監督はチェン・カイコー)を撮った時のチャン・イーモウを思わせる部分もあった。個人的にはチャン・イーモウ作品の中では初期の『紅いコーリャン』『紅夢』(未だにVHS版しか出てないらしい)などの色彩感覚が鮮烈だったのだが、本作はそれほどの驚きはないとは言え、映画愛に満ちた作品として、なかなか楽しかったと思う。

本作は父と娘の関係が中心となる。村で上映される映画は『英雄子女』というもので、これは共産党のプロパガンダとして製作された作品のようだが、これも父と娘の話となっている。主人公がフィルムに執着するのも娘のことが要因となっているし、主人公がフィルム争奪戦を繰り広げたリウの娘のことを気にかけるようになるのも、勘違いで親子と思われたことがあったからだろう。主人公はリウの娘を自分の娘の代わりのようにも感じていたということかもしれない。

ただ、主人公はそんな娘との関係において無力感を抱くことになったかもしれない。主人公はリウの娘をいじめっ子たちから救おうとするものの、多勢に無勢で返り討ちに遭ってしまう。リウの娘がその時「もっと頼りになるかと思った」と不平を漏らすのは、もう亡くなってしまった父親という存在に対して、彼女が過剰な幻想を抱いているからだろう。しかし、現実には主人公の持っている力はたかが知れている。

結局、主人公がリウの娘の求めていた電灯の傘を彼女に与えることができたのは、ファン電影の情けに縋ったからなのだ。さらにはファン電影から分けてもらった娘の姿が写ったフィルムの切れ端も、無慈悲なことに砂漠の砂に埋もれることになってしまうわけで、チャン・イーモウの映画は時として残酷になることがある。

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技術的問題とは何か?

主人公の娘が出てくるのは、約10分ほどのニュース映画の中のほんの一瞬だ。そのために主人公は強制労働所を抜け出し、ファン電影を脅してまで目的を達成しようとする。この異様な執着というものが本作を不思議なものにしているのだが、それには理由がある。

ベルリン国際映画祭での上映が「技術的問題」によって中止となったのは、実は中国当局による検閲が関わっているのではないかと言われている。実際に検閲が行われたのかどうかは不明だ。当局はそんなことを発表しないだろうし、オリンピックの総監督という重要な役割を与えられた中国のお抱え監督みたいな位置に据えられているチャン・イーモウとしても、「検閲された」と語ることは憚られるだろう。だから実際のところはわからないわけだが、主人公の娘は事故で亡くなったという設定だったらしい。つまり主人公の娘はこの世に存在しないわけで、だからこそ主人公は映画の中の娘の姿に執着していたのだ。

しかし、『ワン・セカンド』の完成版ではその部分が存在しない。主人公の娘が亡くなっていることに関してはまったく触れられないために、主人公が一瞬の娘の姿に滂沱の涙を流すシーンの意味合いが今一つ伝わって来ないことになってしまっているのだ。

映像メディアは今この世に存在しない人や物も、そこにまるで存在するかのように見せてくれる。主人公の娘はもうここにはいない。しかし映画が上映されれば、そこに一瞬だけ彼女の姿が現れる。それは主人公にとってはかけがえのない瞬間であり、永遠にその時間が続いて欲しいと願う瞬間だ。

ファン電影は主人公の願いを叶えるために、フィルムを円環状につなぎ、主人公の娘の姿が繰り返し登場するような細工をすることになる。それによって主人公はしばしの間だけ、娘と再会したかのような気持ちになることができたのだ。

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決して会うことができないはずの娘が、まるで生きているかのように動いている。これはやはり涙なしには見ることができない映像ということになるわけだが、娘が生きていて疎遠になっているだけだとすると、単なる親バカみたいにも感じられてくる。このあたりの説得力が検閲のおかげで弱まってしまっているのは、チャン・イーモウとしても無念なことだったんじゃないだろうか。

本作が背景としているのは文化大革命だが、それはあくまでも主人公がぶち当たることになる障害ということに過ぎないだろうし、娘の死の設定も事故だとすれば文化大革命のせいではないようにも感じられるのだが、中国としては今さら触れられたくない過去を掘り返されたくないということなんだろうか。

チャン・イーモウ作品では、もっと直接的に文化大革命を描いている『活きる』『妻への家路』などがある(『活きる』に関しては、本国では上映禁止とされていたらしい)。そっちのほうは検閲されていないのに、今になって当局が急に神経質になっているということなんだろうか?

フィルムの切れ端が砂の中に埋もれていく印象的な場面で終わりでもよかったのかもしれないのだが、そうなると2年後にキレイになったリウの娘の姿を見せることができなくなる。そんな意味で、本作のエピローグ的な部分は、コント風の小汚いいで立ちで頑張ったリウ・ハオツンに対するご褒美みたいなものだったのだろうか。チャン・イーモウが見つけてきた女の子だけにやっぱりとてもかわいらしい。

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