『マイスモールランド』 自分は何人だと思いますか?

日本映画

是枝裕和率いるの映像制作者集団「分福」の若手監督・川和田恵真にとっての商業デビュー作。

物語

17歳のサーリャは、生活していた地を逃れて来日した家族とともに、幼い頃から日本で育ったクルド人。
現在は、埼玉の高校に通い、親友と呼べる友達もいる。夢は学校の先生になること。

父・マズルム、妹のアーリン、弟のロビンと4人で暮らし、家ではクルド料理を食べ、食事前には必ずクルド語の祈りを捧げる。 「クルド人としての誇りを失わないように」そんな父の願いに反して、サーリャたちは、日本の同世代の少年少女と同様に“日本人らしく”育っていた。
進学のため家族に内緒ではじめたバイト先で、サーリャは東京の高校に通う聡太と出会う。
聡太は、サーリャが初めて自分の生い立ちを話すことができる少年だった。
ある日、サーリャたち家族に難民申請が不認定となった知らせが入る。

在留資格を失うと、居住区である埼玉から出られず、働くこともできなくなる。
そんな折、父・マズルムが、入管の施設に収容されたと知らせが入る……。

(公式サイトより抜粋)

日本に住むクルド人

冒頭はクルドの結婚式のシーンだ。ここはクルド人だけのシーンで、とても日本とは思えない雰囲気になっているのだが、そこは埼玉県なのだ。日本に住むクルド人はおよそ2000人ほどで、その多くが蕨市や川口市あたりに住んでいるらしい。本作の舞台も川口市あたりとなっているようだ。

日本に住んでいるとあまりクルド人について知ることはないかもしれない。だから主人公のサーリャ(嵐莉菜)は自分のことをドイツ人だと偽っている。ドイツのことをわざわざ説明する必要はないけれど、クルドのことを知る日本人はあまりいないからだろう。

私自身もクルドについてはほとんど何も知らないけれど、以前観た『サイの季節』という映画でクルド人について調べたことがあり、その時のwikipediaには「独自の国家を持たない世界最大の民族」と記載されていた。

劇中では、サーリャの父親マズルム(アラシ・カーフィザデー)が、サーリャのバイト先の同僚である聡太(奥平大兼)に対してクルドについて説明する場面が設けられている。今のトルコやシリアやイランあたりの地域に、クルド人はずっと昔から住んでいた。ところがその場所に後から国境というものができることになった。それによってクルド人はそれぞれの国に分散して生きていくことになった。マズルムはそんなふうに説明する。

ついつい国家というものを自明のものと思ってしまうのだが、実際には国を持たない民族もいる。ユダヤ人もイスラエル建国までは国を持っていなかったのだ。それでもユダヤ人の歴史は長いわけで、国はなくてもユダヤ人は存在したということになる。それに対して、アメリカ合衆国の建国は1776年だが、それまでアメリカ人は存在しなかったはずだが、建国と共にアメリカ人と呼ばれる人たちが誕生したことになる。

我が国の場合も、庶民が日本人という意識を持つことになったのは、それほど大昔のことではないだろう。江戸時代には庶民が日本人という意識を持つことはなかったという話もあるし、これは明治以降に諸外国のことを意識し出すようになってから生まれた比較的新しい概念なのだ。国とか民族というものはそれほど自明のものではないということなのだろう。

(C)2022「マイスモールランド」製作委員会

自分は何人だと思いますか?

私自身は自分を日本人だと思っているし、そのことに何の疑問も感じないのだが、サーリャはそうではない。ちなみにそれは監督の川和田恵真にとっても同様だったようだ。川和田恵真はイギリス人とのいわゆるハーフであり、サーリャと同様の疑問を感じていたようだ。そのことが在日クルド人問題を取り上げることになったきっかけとなっているのだ。

さらに映画の内容から逸脱すると、本作でクルド人・サーリャを演じているのは嵐莉菜というモデルさんだ(ついでに言えば、劇中の家族も彼女の本当の家族が演じている)。彼女は日本、ドイツ、ロシア、イラク、イランの5つの国にルーツを持つらしい。

彼女はオーディションの際に、川和田監督から「自分は何人だと思いますか?」と問われ、「自分のことを日本人だと言っていいのか分からないけれど、私は日本人って答えたい。でも、周りの人はそう思ってくれない」と答えたのだという。劇中では、サーリャが聡太に自分がクルド人であることを告白した時に、これと同じようなことを吐露している。サーリャが感じていたアイデンティティに関する葛藤を、嵐莉菜も共有していたのだ。

以前、『もうひとりの息子』という映画の時に書いたことだが、「民族」とか「国民」とか「人種」などは明確に定義することが実は難しいものなのだそうだ。その意味で本作のキャスト陣は、そんな人種というものについて考えさせることにもつながっているのかもしれない。

『マイスモールランド』では、イラン出身のサヘル・ローズが、サーリャのクルド人仲間のひとりを演じている。インタビューによると、彼女は産みの親のことを知らずに育ったようで、「顔がクルドに似ている」と言われることがあったらしく、もしかしたらイラン系クルド人だったのかと考えることもあったのだという。実際のところはわからないわけだけれど、その可能性もなくはないわけだ。そんな意味合いでも、本作は人種というものが意外に曖昧で、自明のものとは言い難いということを示しているようにも感じられたのだ。

(C)2022「マイスモールランド」製作委員会

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厳しい日本の現実

日本では難民の受け入れは進んでいない。諸外国と比べるとその認定率の低さは圧倒的で、未だに鎖国しているかのようにすら映る。本作におけるマズルムの難民申請も却下されることになり、サーリャ一家はビザを取り消されることになってしまう。

そうなるとマズルムは働くことが禁止され、一家の誰もが埼玉県から出ることもできなくなってしまう。この状況を「仮放免」と言うらしいのだが、これは「一時的に身体の拘束を解く」ということらしい。つまりは不法に滞在しているわけだから、本来は拘留しておくほうが当然だと日本政府は言いたいらしい。

しかしながら働かずに食べていける経済力があるわけもないわけで、マズルムはこっそりとやっていた肉体労働がバレ、結局は入国管理局に収監されることになってしまう。つまりは日本政府がマズルムたちに求めていることは、弁護士(平泉成)が言うように「働かないで生きていけ」という無理難題なわけだ。かといって、ほかに救済措置があるわけではないわけで、日本政府としては厄介払いをしたいということなのだろう。

マズルムは国に帰れば逮捕される。しかし、日本に残ることも楽ではない。入国管理局での収監はいつまで続くかわからず、しかもそこでの「おもてなし」は酷いものだからだ。そして、大黒柱を失ったサーリャたちは、自分たちで家賃を払わなければならないことになってしまう。

(C)2022「マイスモールランド」製作委員会

あっち側とこっち側の間

サーリャたちは「クルド人であること」と、「日本に住んでいる」という事実に引き裂かれるような状況にある。どっちつかずの場所にいるとも言える。それはサーリャが東京と埼玉の県境を行ったりきたりすることや、川にかかる大きな道路と道路の間で佇んでいることにも表現されているだろう。

マズルムは息子のロビンが学校であまりしゃべることもなく、自分の出自について悩んでいることを知ると、国は心の中にあるんだと語る。これはクルド人は国を持たない民族だとしても、クルド人であることの誇りを失わないということなのだろう。だからマズルムは今でもクルドの食事を作り、その食事の前にはクルド語の祈りの言葉を捧げる。ただ、それはサーリャのように日本人の中で生きようと意識する者にとっては足枷になっているところもある。

マズルムからクルドの文化を強要されるとサーリャが反発を感じるのは、彼女が父であるマズルムの事情で勝手に日本に連れて来られたからだし、今ではクルド人であることよりも日本で生きていくことを望んでいるからだ。冒頭に登場するクルドの衣装を身にまとったサーリャはとても大人びて見える。それが高校の制服と髪をヘアアイロンで真っ直ぐ整えたサーリャの姿がちょっと幼くも見えるのは、日本人の女子高生に溶け込もうとしているからなのだ。

クルド人コミュニティの中ではサーリャの将来の夫と言われる男性もいる。彼はマズルムが気に入った男性なのかもしれないのだが、サーリャはバイト先のコンビニで出会った聡太のことが気になっている。このこともサーリャが日本で生きていくことを望んでいることを示しているのだろう。

(C)2022「マイスモールランド」製作委員会

小さな夢の国

在日クルド人にとって、日本の現実は厳しい。サーリャは家賃のために「パパ活」に手を染め、危ない目に遭ったりもする。そして、マズルムは故郷へ戻る決断をすることになる。これは親が難民申請を諦めることで、残された子供たちにビザが支給される可能性があるからだとされる。日本政府にそのつもりはなくとも、親子を引き離すような政策になっているのはいただけないだろう。

本作はこうした在日クルド人が置かれる残酷な状況を示すものの、それに対して解決策や何かしらの希望を抱かせるようなことはない。本作のタイトル「マイスモールランド」とは、末弟ロビンが自宅のリビングに作り上げた箱庭の世界のことだろう。ロビンが体験している現実世界では、彼らは埼玉県から出ることすらできないわけだが、その小さな夢の国では東京へと自由に行くことができる世界となっているのだ。小さな子供がそんなことを夢見なくてはならない世界というのは、何とも残酷な世界なんじゃないだろうか。

ラストではサーリャはいつもように洗面台で顔を洗うのだが、その仕草がいつの間にかマズルムがやっていたクルドの祈りの仕草になっていく。サーリャが否定していたクルドの祈りにもすがらなければならないほど、彼女は追い詰められているということなのだ。

本作は川和田監督にとっては商業デビュー作らしいが、社会問題を扱いながらそれを自分の関心にも引き寄せつつ、若いふたりの淡い恋愛を絡めたフィクションとして成立させているところが良かったと思う。

主演の嵐莉菜は見目麗しいし、クルドの衣装がとても似合っていた。家族と一緒のシーンは素の部分が垣間見れたようにも感じられ、ラーメンはすするべきか否かという論争はとても微笑ましかった。

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