『アマンダと僕』のミカエル・アース監督の第2作。
昨年『アマンダと僕』と同時期に劇場公開され、今年の1月8日にソフトがリリースされた。
原題は「Ce sentiment de l’ete」。
喪失についての物語
冒頭からサシャという女性の1日が描かれる。同棲生活をしているアパートから歩いて職場であるアートセンターへと向かい、そこで普段の仕事をこなし、同僚とあいさつを交わして家路につく。
そんなありきたりの1日のはずが、サシャは公園のなかで突然倒れ、帰らぬ人となってしまう。サシャと同棲していた主人公のロレンス(アンデルシュ・ダニエルセン・リー)は突然のことに茫然自失という状態に……。
『サマーフィーリング』は、昨年公開されたミカエル・アースの第3作『アマンダと僕』と似たような題材を扱っている。『アマンダと僕』も、突然姉を亡くした主人公と遺されたアマンダという少女の交流を描いた作品だったからだ。
大切な人を喪ったのは?
サシャが死んで悲しむ人は、同棲相手だったロレンスだけではない。当たり前のことだが、サシャには家族が居て、姉を亡くしたゾエ(ジュディット・シュムラ)が本作のもうひとりの主人公と言える。本作はそんなふたりの3度の夏を3つの都市の風景と共に描いていく。
サシャが亡くなったのは夏で、季節が巡ってくるごとに大切な誰かを喪ったという出来事を思い起こすことになる。舞台はベルリンからパリへ、それからニューヨークへと変わっていくのだが、風景の切り取り方がうまいのか、16ミリフィルムの質感がそうさせるのかはわからないけれど、風景描写が素晴らしく、ドラマチックな展開などなくても観ていられる映画になっていたと思う。
特にフランスのアヌシー湖畔でのバカンスの様子は、出不精で日本の観光地すらほとんど行かない人間からしても、ちょっと羨ましいくらいの光景だった。悲しい物語ではあるけれど、観ているだけで癒されるものがある。
悲しみを乗り越える方法
大切な人を喪ったという悲しみはどうしたら乗り越えられるのか。『アマンダと僕』では、若い主人公は自分でも事態を受け止めきれずにいたわけだが、親を亡くした少女アマンダを見守る叔父として、彼女を支えると決断する。そのことが、主人公が立ち直るひとつのきっかけとなっていたように感じられた。
一方の『サマーフィーリング』では、ロレンスはゾエに向かって「乗り越えられそうにない」と弱音を吐く。しかしながらゾエにも特別な秘策があるわけもなく、彼女もどうやって悲しみを乗り越えるのか「わからない」と返すことになる。ただ、大切な人(サシャ)を喪ったという点で共有しているものがあり、その点でふたりはむすびついている。
ふたりが立ち直るきっかけに明確なものがあるわけではない。3度の夏を経ることで、時の流れが少しずつ悲しみを癒したのだろう。そして、同じ悲しみを共有しているふたりは互いを必要としているようにも見える。実際にゾエの息子は、ロレンスのことを母親の新しい彼氏なんじゃないかと推測してもいる。それでもふたりがある程度の距離を保っているのは、近づきすぎるとサシャを喪った悲しみからも離れることができなくなるからなのだろう。
何気ない日常
本作では主人公であるロレンスとゾエの周囲の脇役たちの存在が活きている。脇役のなかにはゾエとサシャの母親のように悲しみのあまり取り乱す者がいる一方で、ロレンスの幼なじみでバーガー店で働いている友人とか、ロレンスの猫の元の飼い主であるジューンなど、他愛のない話ばかりしている友人もいて、そういう人たちとの何気ない付き合いが悲しみを癒していく要因となっているようだった。
ゾエの職場の同僚は最初は女装した姿で登場するのだが、次に登場するときには男の恰好をしている(おそらく同一人物かと)。このキャラも色々と抱えているものはありそうだが、特段深堀りされることもなくあくまでも自然に登場してくる。
人は耐え難い悲しみに遭遇したとしても、いつまでもそれだけに浸っているわけにもいかないし、かといってすべてを忘れてしまうこともできない。友人たちとのバカ騒ぎで一時すべてを忘れてみたり、夏の風景に遭遇してふと想い出して悲しみに襲われたりを繰り返しながら生きていくことになるのだろう。本作は決して声高ではないけれど、そんなことをすんなりと感じさせる小品となっている。静かにアコースティックな音を聴かせる音楽も心地いい。
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