『ブレスレス』 奇跡のような瞬間?

外国映画

監督・脚本は『2人だけの世界』ユッカペッカ・ヴァルケアパー

本作はユッシ賞(フィンランド・アカデミー賞)で主演男優賞他、撮影賞、編集賞など6部門を受賞した。

昨年12月に劇場公開され、今年7月21日にソフトが発売となった。

物語

外科医師のユハは夏の休日を、家族とともに湖畔の別荘で過ごしている。この日も、釣りを楽しみ、妻、娘と優雅でのどかな一日を過ごすはずだった…。うたた寝をしていたある日の午後、妻が湖の底に沈んでいた網に足をとられ、水死してしまう。不慮の事故により突然訪れた失意の日々。以来、ユハは、妻を救えなかったという自責の念から、毎日を無気力で死んだように過ごしていた。そんな父を心配する娘のエリ。十数年後、エリがピアスの穴をあけるために訪れた店に同行したユハは、隣接するSMクラブに迷い込んでしまう。そこには、ボンデージ衣裳に身を包んだドミナトリクスのモナがいた。客と間違えられたユハは、そこで思いもかけない体験をする。首を締め付けられ、苦しい息遣いの中で、目の前に現れた映像は妻の死の直前の湖の中だった。この先に妻がいる。僅かながらも生きる糧を見つけたユハは、その日を境にモナの元に通いはじめる。

(公式サイトより抜粋)

亡くなった妻に会うために

ユハ(ペッカ・ストラング)は妻を亡くした後の10年以上どんなふうに過ごしてきたのだろうか。成長したエリ(イローナ・ウフタ)が音楽教師をしきりに紹介しようとするのは、ユハが亡くなった妻に執着していて、娘としても心配だったからなのだろう。ユハは亡くなった妻の服と香水で、その想い出に浸るように自慰に耽ったりもしている。未だに妻の死の悲しみから抜け出せないでいるのだ。

しかし、それがある日を境に変わることになる。ユハはたまたま迷い込んだSMクラブで、モナ(クリスタ・コソネン)という女性と出逢ったからだ。ユハは客と間違えられて突然首を絞められ、その息苦しさの中でかつて妻が溺れ死んだ湖の幻を見る。それからユハは毎日のようにモナのところへと通うほど彼女に入れ込むことになる。

ユハはモナに首を絞めてもらうことを切望する。そうすることでユハはかつての湖の中へと潜り、そこを漂っている妻の幻を見ることが可能となるからだ。これは低酸素状態が引き起こしている幻影なのだが、ユハは娘のエリに「ママに会った。幻覚じゃない」と語っているから、本人からすればその幻影はひどく現実的なものに感じられているのだ。

(C)Helsinki-filmi Oy 2019

「犬はパンツをはかない」

モナはユハを犬扱いする。本作の原題はフィンランド語で「Hundar har inte byxor」。これは英語だと「Dogs Don’t Wear Pants」となる。「犬はパンツをはかない」という意味だ。プレー中はユハは犬となり、言葉を交わすことも禁じられ、裸にされ首輪を付けられ、四つん這いで歩くことになる。

そして、プレーの最後にはビニール袋を被せられ窒息させられることになる。この行為は危険だから安全を保つために片手にはガラス玉のようなものを握らされている。意識が遠のきガラス玉が手から零れ落ちたら危険信号ということになるのだ。

大島渚の映画『愛のコリーダ』で描かれた阿部定事件も、窒息プレイによって相手を殺してしまったことが発端となっていたように、こうした事故はSMプレーではまれに起きることらしい。本作のユハもプレー中に誤って死にかけることになる。

妻の幻影が現われるのはガラス玉が手から零れ落ちて大きな音を立てるまでのほんの一瞬だ。その瞬間にユハは妻と会うことになるのだが、それを続けることは限りなく死に近づくことにもなる。そうなると最後は悲劇に終わるほかないようにも思えたのだが、本作には意外なラストが待っている。

(C)Helsinki-filmi Oy 2019

すれ違い?

痛いのはイヤだというのは自然のことだと思うし、それなりに真っ当に育ってきたとしたら他人を痛めつけて快感を得るなんてこともあまり普通とは思えない。だからSMの世界に関してはまったく不案内なのだが、以前『毛皮のヴィーナス』のレビューを書いた時に参考にした本『マゾッホとサド』にはこんなことが書かれていた。

知らない人はついつい「SM」などと、サディズムとマゾヒズムを一緒くたにしてしまうのだがそれは間違いで、サディストは鞭打たれたい人を打とうとはしないし、マゾヒストはサディストを拷問者に選ぶわけではないのだと。

そうなるとサディストとマゾヒストは決して出逢うことはなく、常にすれ違ってしまうのかもしれない。サディストは鞭打たれたくない誰かを探し、マゾヒストは嗜虐性とは無縁の人をサディストとして養成していくことになるからだ。『ブレスレス』のふたりも最後まですれ違っているように見える。

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奇跡のような瞬間?

モナは昼間はリハビリ施設(?)で働いているらしく、夜の仕事は個人的な趣味によるものらしい。金を稼ぐためにビジネスでサディストを演じているわけではないのだ。モナは真正のサディストであり、その欲望を多少なりとも満たすためにドミナトリクス(女性支配者を意味する言葉で、いわゆる女王様を指すらしい)をやっているのだろう。

仏頂面のモナが本作で満面の笑みを浮かべる場面が一度だけあり、それは「最後にもう一度」とストーカーのように追いすがってきたユハの歯をペンチで引っこ抜いた時のことだ。余程の嗜虐性を持った人でない限り、そんな行為をすることは無理なわけで、モナは真正のサディストということになるだろう。

SMクラブにやってくるほかの客は、当然ながら女王様であるモナにいたぶられることを望んでやってくるわけで、先ほど記した「サディストは鞭打たれたい人を打とうとはしない」という言葉からは逸脱する。サディストであるモナを本当に満足させるのは、いたぶられたくない人をいたぶることであり、ユハはまさにそれに適った存在と言えるだろう。

(C)Helsinki-filmi Oy 2019

ユハは窒息プレーによって妻と再会することが目的であり、痛みや苦しさを求めているマゾヒストというわけではない。そして窒息プレーのような危険なことを頼める人はほかにはいない(音楽教師とも試してみたが、笑い上戸でプレーにならない)。だからどんな嗜虐的な行為も受ける代わりに、モナに窒息プレーを懇願することになるのだ。

しかしモナとしては嗜虐性を満たすことは求めたとしても殺人者になりたいわけではないから、自殺志願の変態に手を貸すようなことはしたくはない。そんなふうにふたりはすれ違ってしまうのだ。

マルキ・ド・サドが描いたサディストは何でもありで、殺人も厭わないような人種だったが、これは小説の中のことだ。それに対してモナは現実を生きているわけで、その中で厄介な自分の性癖を満足させることは限りなく難しいことなのだろう。だからラストのSM愛好家たちの巣窟で、ふたりが互いのことをパートナーとして認め合った瞬間は奇跡のような瞬間とも思えて感動的だった。

ユハがマゾヒストとして目覚めたのかは不明だが、自慰に使っていた妻の服を捨てているところからすると、執着の対象(つまりは愛する人ということ?)はモナに移ったということなのだろう。モナから与えられたボンデージの衣装を身にまとい笑顔を見せるユハは、その歯が抜けていることもあってかなり間が抜けているのだが、かつての憂鬱な表情はどこにもない。新たな恋愛が傷を癒すのはありふれているが、ユハがたどってきた道のりはかなり屈折しているから、そんなありふれた話も意外なものに感じられた。

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