『ふたごのユーとミー 忘れられない夏』 なぜわたしじゃないの?

外国映画

脚本・監督はホンウィワット姉妹。ふたりは本作の主人公と同様にふたごの姉妹で、これまでドラマやミュージックビデオの監督として活躍してきた人たちらしい。

プロデューサーには『女神の継承』バンジョン・ピサンタナクーンが名前を連ねている。

原題は「You & Me & Me」。

物語

中学生のユーとミー。ふたりは一卵性双生児の姉妹。生まれた時からずっと、どんなことでも一緒。隠し事ひとつなく、なんでもシェアしてきた。食べ放題のレストランだって、話題の恋愛映画だって、一人分の料金で二人分楽しんじゃう。ユーが苦手な数学の追試も、得意なミーが代わりに受けても誰も気づかない。ふたりに違いがあるとすれば、ミーの頬に小さなほくろがあることくらい。

そんな絶対的信頼関係のふたりに、いつもとは何かが違う時間が流れはじめる。ハーフで色白、肩幅が広くて笑うと八重歯がのぞく素敵な男の子、同級生のマークが彼女たちの前に現れたからだ。1999年、世の中はY2K問題で世界が終わると大騒ぎしていた年。シェアすることのできない“初恋”という感情に揺れるユーとミー。二人の忘れられない夏が、まもなく終わりを告げようとしていた…。

(公式サイトより抜粋)

ふたごの青春物語

『ふたごのユーとミー 忘れられない夏』のふたごの姉妹ユーとミーは一卵性のふたごで、実は監督のワンウェーウ・ホンウィワットウェーウワン・ホンウィワットも、同じように一卵性のふたごらしい。つまりは本作はホンウィワット姉妹自身をモデルにした作品ということになるのだろう。

背景となっているのは1999年という時代だ。「ノストラダムスの大予言」はタイでも人気だったようで、世界が終わるかもしれないということが囁かれたりしていた時代だ。折しも「Y2K問題」も言われ出したりして、もしかしたら本当に何かが起こるかもしれないという雰囲気があった時代とも言えるのかもしれない。

当時、そんな噂をどこまで信じていたかはともかく、世紀末を迎えるということ自体には特別な感覚があり、そのことは私自身も何となく覚えている。多分、ホンウィワット姉妹もユーとミーと同じように、1999年に中学生だったということなのだろう。世界が終わるかもしれないという宙ぶらりんの感覚と、中学生という大人と子供の間の曖昧な感覚、それが一緒くたになってホンウィワット姉妹に記憶されていて本作に結びついたというわけだ。

ユーとミーは生まれた時からいつも一緒で、ふたり一緒にいることがごく自然なことになっている。自分とほとんど同じような存在が隣にいるということは普通の人からすれば不思議なことのように思えるけれど、ふたごにとってはそれが当たり前で、他人が自分たちを見分けられないことをうまく利用したりもする。

食べ放題の店では一人分の料金で注文し、途中でトイレに立って相棒と入れ替わる。半分の料金でふたりとも満腹になれるというお得な作戦だ。また、映画館でも係員に顔を覚えさせておいて、チケットなしでもうまく劇場に潜り込んでしまう。ふたりにとってはそんな他愛ない遊びが楽しくて仕方ないし、一緒にそんなことができる相棒がいることが嬉しくて堪らないのだ。

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嫉妬と寂しさ

しかしながら、黄金時代はいつまでも続かないものなのかもしれない。ふたりはいつまでもふたり一緒で楽しく暮らせればよかったのかもしれないけれど、実際にはそうはいかないようだ。

そこには恋愛というものが絡んでくる。きっかけはユーに成り済ましたミーが、ファラン(タイ語で欧米人のことを指すらしい)と呼ばれていたハーフの男の子マーク(アントニー・ブィサレー)と出会ったことだ。この出会いはそれ以上先には進まないのだが、しばらく経った夏休みに今度は田舎でユーがマークと出会うことになる。

マークはミーと顔がそっくりのユーのことを追試で出会った女の子と勘違いしてしまう。ユーはマークが自分をミーと勘違いしていることを知りつつも、マークに惹かれていくことになる。ユーはマークとふたりきりでいたいと願うことになり、そうなるとミーはいつも一緒だったユーと離ればなれになってしまうことになる。

ユーとミーがふたごであることはすぐにマークにバレてしまうことになり、ミーが三人で一緒に遊びたいと願ったこともあり、そうなると三人はマークを中心とした三角関係のようになっていく。マークには自分のことだけを見て欲しいというユーの気持ちと、いつも一緒だった相棒と離ればなれになってしまうというミーの気持ち。本作はそんな複雑な感情を描いていくことになる。

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なぜわたしじゃないの?

ふたごにとって片割れの存在は誰よりも信頼できる相棒だろう。一卵性の場合、遺伝子的にはまったく同じものを持っているし、いつも一緒に暮らしてきたわけで、誰よりも自分のことを理解してくれる頼もしい存在だ。それでもやはりふたごは別人であり、ふたごという“ペア”の存在ではなくて、唯一の存在として認めてほしいという気持ちにもなる。

それが一番よく表れるのが恋愛ということになる。ユーはマークのことが好きで、マークからも好かれたい。こればかりはミーと共有することはできない感情ということになる。大好きな中華まんは“半分こ”にして共有することができるけれど、恋人だけはどうしてもそうするわけにはいかないというわけだ。

ユーはマークにミーではなく自分を選んでほしい。けれども最初にマークに出会い、彼の気を惹いたのはミーだったことを知っている。ユーにはいつも選ばれるのはミーなのだという嫉妬があるのだ。

同じことが家族の問題でも生じる。離婚を協議している両親は、ユーとミーのふたりのどちらを引き取るかということで揉めていて、母親は父親のところへ行くことになるのはユーになるだろうと語る(つまりは母親はミーを選んだわけだ)。このこと自体は、母親なりにふたごそれぞれの特性を知った上で決断したことだったわけだけれど、それをたまたま知ってしまったユーとしては、選ばれるのはわたしではなくミーなのだと感じることになるのだ。

ユーとミーは遺伝子的には何も変わらない。ほくろの差があるだけで見た目もほぼ同じだ。それなのになぜミーが選ばれるのかということになる。これは一卵性のふたごならではの感覚ということになるだろう。

人にはそれぞれ違いがある。そんな考えは現在では「多様性」という言葉で示される。才能がある人もいれば、そうではない人もいる。魅力的な人もいれば、そうとは言えない人もいる。たとえばメジャーリーガーの大谷翔平がとんでもない金を稼ぐとしても、それは彼が持っている能力があればこそであり、それについては羨みつつも多くの人が納得するほかないだろう。持っているものがまったく異なるわけだから。

ところがふたごの場合はそうではない。ユーとミーはほぼ同じなのだ。それでもなぜかいつもミーが選ばれる。ユーにとってはこれはなかなか解決できない問題ということになる。結末にはちょっとほろ苦い部分もあるけれど、やはりいつまでも子供のままではいられないということだったのだろう。

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タイの風景が見どころ

本作を鑑賞後に驚いたのは、ユーとミーを演じていたのが実はひとりの女の子だったということだ。てっきり一卵性のふたごの女の子がふたりを演じていたのだとばかり思っていたのだが、主演のティティヤー・ジラポーンシンとが一人で二役を演じていたらしい。

実際の撮影はボディ・ダブルを使って行われたということなのだろう。公式サイトをよく見ると、ボディ・ダブルと思しき女の子の姿も映っている。それをCGでうまく加工したということなのだろう。ふたりでノリノリに踊る場面とか、ふたりが向き合って演じる場面など、加工が難しそうな場面もあったけれど、とても自然な形になっていて一人二役だとはまったく思えなかった。

ユーとミーは当然顔は同じなのだが、ほくろ以外にも微妙な違いがある。髪型でもふたりに差異を設けていたのは、観客にふたりを見分けさせるためでもあったのだろうし、一卵性のふたごとはいえ別の存在だということを示すためだったのだろう。

そして、『ふたごのユーとミー』が魅力的な青春映画になっていたのは、主演のティティヤー・ジラポーンシンがとても表情豊かにふたりを演じていたからだろう。ちょっと幼さを感じさせる無垢な笑顔がとても魅力的だったし、悩みを抱えた表情もごく自然に演じていた。時代設定は世紀末という古臭い時代でありながら、ふたりがダンスする場面などはどこか今風のそれにも見え、うまく具合に古いものと新しい感覚がミックスされていたんじゃないだろうか。

それから本作はタイの風景をあちこち垣間見ることができ、それだけでも心地よいものがあった。ユーとミーが夏休みを過ごすのはナコーンパノムという場所だ。これはタイを舞台にした日本映画『バンコク・ナイツ』の舞台にもなっていたイサーン地方と呼ばれる田舎だ。

ユーがマークからピン(タイ式マンドリン)を教わるシーンでは、そのすぐ近くを牛がのんびりと放牧し、ハイビスカスみたいな花が咲いているという南国の風景を見せてくれる。さらには「赤い蓮の海」と呼ばれる湖があって、本当に美しい蓮の赤い花が咲き誇る風景も滅多に見られないようなものになっていたと思う。

ナコーンパノムという田舎では、ユーとミーはバンコクから来た都会っ子というイメージらしい。これはティティヤー・ジラポーンシンが中華系のタイ人で色白だったからなのかもしれない。地元の子供たちはそんなお姉さんに夢中で、弾き語りの曲を歌いながら告白するのだが、そんな子供たちの姿も微笑ましかった。

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