『蛇の道』 主人公は狂ってるの?

外国映画

黒沢清監督の1998年の同名作品のセルフリメイク。

主演は『天間荘の三姉妹』などの柴咲コウ。共演には『レ・ミゼラブル』ダミアン・ボナール

物語

8歳の愛娘を何者かに惨殺された父親アルベール・バシュレは、偶然知り合った精神科医・新島小夜子の助けを借りながら、犯人を突き止めて復讐を果たすべく殺意を燃やしていた。やがて2人はとある財団の関係者たちを拉致し、次第に真相が明らかになっていくが……。

『映画.com』より抜粋)

黒沢清のセルフリメイク

リメイクのきっかけは、フランス側からのオファーだったようだ。黒沢清監督はたとえば『岸辺の旅』がカンヌ国際映画祭・「ある視点」部門の監督賞を獲得するなど国際的な評価も高いし、すでに『ダゲレオタイプの女』でフランスでの映画制作を経験していたことも影響しているのかもしれない。

フランスからのオファーに対してすぐに思い浮かんだのが1998年の『蛇の道』だったとのこと。『蛇の道』は実際には劇場公開された作品らしいのだが、Vシネマ風なタイトルでVHS化されたらしい。黒沢清としてはそんな扱いではもったいないと感じ、リメイクするとしたら『蛇の道』と考えたものらしい

というのも、高橋洋が書いた脚本が『ハムレット』『モンテ・クリスト伯』につながるような普遍的な物語を持っているから。そんなふうに黒沢清は『蛇の道』を評価しているようだ。復讐の物語は数多いけれど、どれもそれを成し遂げてスッキリとする話にはなっていない。いつまでも飲み込めない“何か”が残ってしまったかのような感覚になり、すべてが終わった感じにならない。リメイク版の本作はそうした点に焦点を合わせている。

©2024 CINEFRANCE STUDIOS – KADOKAWA CORPORATION – TARANTULA

蛇が意味するものとは?

タイトルは「蛇の道」だが、これは「蛇の道は蛇(じゃのみちはへび)」という言葉から採られたものだろう。この言葉の意味は「同類のすることは、その方面の者にはすぐわかるというたとえ」ということだ。

これはある男の復讐に手を貸すことになる人物、前作では哀川翔が演じ、リメイク版で柴咲コウが演じた新島ということになるわけだが、その謎めいた人物の過去にも関わるタイトルになっている。

前作では哀川翔と香川照之が車でターゲットを拉致に向かう際の、曲がりくねった狭隘な道がとても印象的だった。この道こそまさに「蛇の道」といった感じで、うねうねと曲がりながら延々と続いていくのをカメラが捉えていくことになり、タイトルそのものを映像で見せてくれたようなシーンとなっていたのだ。

リメイク版では冒頭で新島小夜子が真っ直ぐに延びる道路を意味あり気に見つめているのだが、パリの道だからかきちんと整備されているし、とても「蛇の道」とは言い難いものになっている。フランスというあまり知らない場所で、前作と同じような道を見つけるのはなかなか難しかったということなのかもしれない。

それでもリメイク版ではその代わりになるものが用意されている。リメイク版で“蛇”というものを印象付ける役割を果たしているのは、小夜子を演じた柴咲コウの冷ややかな眼だ。前作で哀川翔に対してそれほど接近して捉える瞬間はなかったはずだが、リメイク版では柴咲コウのその眼にクローズアップで迫っているのだ。

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オリジナルとの比較

物語はほぼ同じだ。愛娘を殺されたアルベール(ダミアン・ボナール)は復讐を誓い、ターゲットを拉致し娘の映像を見せつつ、彼らがやった悪魔のような所業の詳細を聞かせることになる。ビデオで娘の在りし日の姿を見せるというシーンはどちらも共通していて、後半ではナムジュン・パイクのビデオアートのようにいくつものテレビを並べて同じ映像を流すシーンもそっくりな形でリメイクされている。

一方で前作とは違うアプローチをしている場面もある。前作では、上記したうねうねと続く「蛇の道」を往くシーンでは、同時に車の内部のふたりを映してもいた。このシーンは黒沢清作品によく登場するスクリーン・プロセスを使ったシーンだろう。車窓の外は白く煙ったようになっていて、どこを走っているのかわからない不思議なシーンになっていたのだ。それに対してリメイク版では、車に乗るふたりの姿を併走する車から捉えたシーンはあったけれど、車内のふたりを映すシーンはなかった。

黒沢清はフランスのスタッフに対し、「前作を観るな」と申し伝えていたらしい。前作を観てしまうと影響されてしまうということでもあるのだろう。もちろん黒沢清としては前作をどう撮ったのかは理解しているわけで、同じ脚本を映像化してもスタッフが異なると別のものが生まれてくるということの実験でもあったようだ。車のシーンの差異もスタッフの違いによって生まれたシーンだったのかもしれない。

※ 以下、ネタバレもあり! ラストにも触れているので要注意!!

©2024 CINEFRANCE STUDIOS – KADOKAWA CORPORATION – TARANTULA

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復讐というシステム

リメイク版にしかない印象的なシーンが、新島小夜子の部屋をロボット掃除機がいつまでも行き来しているシーンだ。黒沢清はこのシーンに「復讐というシステム」だけが延々と続くというイメージを重ねている。

『蛇の道』を見ていると、娘は殺されたわけだけれど、その真犯人が誰なのかはよくわからぬまま、次々とターゲットが変わっていく(新島の狙いでもあるのかもしれない)。抽象的ですらあるというのが黒沢清の評価で、だからこそ普遍的なものになり得るということになる。リメイク版ではそうした復讐が延々と続いていくことがより強調されている。

前作の哀川翔はなぜ復讐を手助けしているのかが最後まで謎だったけれど、柴咲コウのキャラのほうが何を望んでいるのかは理解しやすい。柴咲コウ演じる小夜子は途中ですでにターゲットの男に対しての強い恨みを明らかにしている。アルベールが殺した男に対して追い打ちをかけるように鋭いナイフを突き刺したりしているからだ。小夜子のこうした行動は恨み以上に、小夜子が狂っていることを示していたのかもしれない。

小夜子の仕事は心療内科医となっている。それがきっかけで娘を殺されたアルベールに出会ったということになる。リメイク版で脇役として登場するのは西島秀俊演じる吉村だ。吉村はフランスという言葉の通じない場所で精神的に参っていて、最後は自殺してしまうのだが、その吉村は小夜子がフランスでひとりで生活しているのを心配していた。もしかすると小夜子が狂っていたことを吉村はわかっていたのかもしれない。

ラストはすべてが終わった後に、テレビ電話で小夜子が夫の宗一郎(青木崇高)とやり取りする場面だ。小夜子は唐突に「娘を売ったのはあなたでしょう」などと言い出す。これが本当のことなのか、小夜子の妄想なのかはわからない。本当ならば復讐はまだ終わっていないことになるし、小夜子が狂っていたとすればいつまでも復讐する相手を探し続けていくことになるわけだ。この怖いラストは『メメント』のあの主人公の姿とも重なって見えた。

リメイク版で一番足りなかったのは、やはり香川照之がいなかったことだったんじゃないだろうか。復讐が楽しくて笑い出したりするシーンなど、余程の芸達者な人がやらなければおもしろくならないのかもしれない。

リメイク版にはターゲットとされるマチュー・アマルリックが漏らしそうになって思わぬ声が出てしまうシーンなど色々と見どころはあるけれど、個人的にはやはりオリジナルのほうがよかったと思う(哀川翔がぶらりと歩いていって始まる最後の銃撃戦など、とてもいい瞬間があったのだ)。柴咲コウは身体のデカいフランス人男性相手に格闘したりして奮闘しているが、如何せんオシャレすぎてママチャリすらカッコよく見えてしまう。冷ややかな眼はよかったのだけれど……。

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