原作は長尾和宏による同名小説。
監督は『夜明けまでバス停で』の高橋伴明。
脚本は『野獣死すべし』の丸山昇一。
主演は『猫は逃げた』の毎熊克哉。
物語
もしも日本で「安楽死法案」が可決されたら――。国会で「安楽死法案」が可決され、国家戦略特区として「ヒトリシズカ」と名づけられた施設が誕生。安楽死を希望する者が入居し、ケアを受けられるこの施設は、倫理と政治の最前線で物議を醸す存在となっていた。
回復の見込みがない難病を患うラッパー・酒匂章太郎(毎熊克哉)は、進行する病に苦しみながらも、ヒップホップに救いを見出し、言葉を紡ぎ続けていた。共に暮らすのは、チベットで出会ったジャーナリスト・藤岡歩(大西礼芳)。二人は、章太郎が余命半年を宣告された今も、安楽死に反対で、特区の実態を内部から告発することを目的に、「ヒトリシズカ」に入居する。
施設には、末期がんに苦しむ池田(平田満)とその妻の玉美(筒井真理子)、認知症を抱え、完全に呆けないうちに死なせて欲しいと願う元漫才師の真矢(余貴美子)など、それぞれに事情を抱えた入居者たちが暮らしていた。
章太郎の身体は急速に衰え、言葉さえままならなくなり、章太郎は歩に相談もなく、「安楽死を望みます」と考えを一変。歩は、池田の主治医の鳥居(奥田瑛二)の他、章太郎の主治医の尾形(加藤雅也)、三浦(板谷由夏)ら特命医それぞれの想いにも触れ、命と死に真摯に向き合うことを迫られる。
(公式サイトより抜粋)
もしも日本で安楽死が……
日本での安楽死を題材にした映画としては、2022年の『PLAN 75』があった。とはいえ、『PLAN 75』は、国が高齢者に対して安楽死を推奨しているという設定で、一種の「姥捨て」みたい状態であり、非現実的な話だったとも言えるかもしれない。それに対して本作の場合は、望む人だけが特区に入ることが許されるという形になっていて、もっと現実的な話となっている。
劇中の日本でなぜ安楽死の特区が成立したのかは触れられないけれど、現実世界でも限られた場所でしか実施されていない安楽死を求め、わざわざその国へ赴いてまでそれを実現しようとする人がいることも確かなわけで、「日本でも安楽死を可能にしろ」という声が上がったとしても不思議ではないのだろう。
劇中に登場する安楽死を望む人たちは、それぞれに死にたい理由を抱えている。池田(平田満)は末期がんの苦痛から死を望み、元漫才師の真矢(余貴美子)は認知症になり亡くなった息子の記憶を忘れる前に死にたいと感じている。
ただ、『安楽死特区』の主人公とも言えるラッパー・酒匂章太郎(毎熊克哉)の場合は、事情が複雑だ。章太郎は若い頃からパーキンソン病を患い、それが次第に進行し身体の自由が利かなくなりつつある。だから国家戦略特区「ヒトリシズカ」への入所が許可されたわけだが、彼は安楽死には反対なのだ。章太郎はパートナーでジャーナリストの藤岡歩(大西礼芳)と一緒に、施設内部へ入り、それを内側から告発するつもりでそこに入所したのだ。

©「安楽死特区」製作委員会
尊厳死と安楽死
そもそも原作を書いた長尾和宏という人は、在宅医療の第一人者として知られる医者ということ。高橋伴明監督作の『痛くない死に方』の原作者でもあるらしい。長尾和宏は日本尊厳死協会というところの元副理事長だったようで、その人が「安楽死を可能にする特区が日本に成立したら」というフィクションを書いたということになる。
この尊厳死と安楽死の違いについては、以前に安楽死を題材にした『すべてうまくいきますように』について書いた時にも触れたけれど、実際にこの言葉の違いをきちんと理解している人は少ないようだし、日本と欧米ではその言葉の使われ方も異なるらしい。
長尾和宏の書いたエッセイによれば、日本の場合、「安楽死」は「苦痛から患者を解放するために意図的・積極的に死を招く医療的措置を講ずること」であり、「尊厳死」は「自分が不治かつ末期の病態になったとき、自分の意思により、自分にとっての無意味な延命措置を中止し、人間としての尊厳を保ちながら死を迎えること」とされている。
ところが、欧米では「安楽死」も「医師のほう助による自殺」も「Death with dignity(尊厳死)」になってしまう。言葉の使い方が異なるわけで、混乱するのも致し方ないのかもしれない。
ちなみにこのエッセイの一節には「私は安楽死には明確に反対ですが、尊厳死には賛成です」とある。原作者はそんな立場にある人ということになる。実際に原作本を読んでいるわけではないので、その映画版となる本作がどこまで原作に忠実なのかはわからないけれど……。

©「安楽死特区」製作委員会
制度のリアリティ
劇中の日本では特区において安楽死を実施している。これはもちろんフィクションだが、制度として実際に日本で安楽死が行われるとするならば、そんなシステムになるだろうと思わせるようなリアリティがある。恐らく海外のそうした制度を参考に描かれているのだろう。
希望して「ヒトリシズカ」に入所した人は、しばらくそこで生活しながら安楽死を待つことになる。その間に主治医やほかの医師たちと面談を複数回行って、意思を確認される。明確に本人が自由意志で安楽死を望んでいるのかどうかを確認されるのだ。
末期がんの苦痛があり一刻も早い死を望む池田は、そんなやり方に苛立ちを示すことになるけれど、それほど慎重にやらないと本当に本人の意思かどうかが確認できないということなのだろう。ほかの誰かから強制されたりしていないかなどを慎重に確認しなければ、行政の側が「殺し」をしたことになってしまうからだろう。
そして、最終的には本人が薬を飲んで安楽死に到ることになるわけだが、その瞬間はビデオに撮られ、本人の意思に基づいて安楽死が行われた証拠が残されることになる。

©「安楽死特区」製作委員会
呆気に取られるラスト
主人公とも言える章太郎は、内部告発のために「ヒトリシズカ」に入所したものの、自身の病の進行もあって途中から本気で安楽死を考えるようになる。パートナーの歩の想いに反して、安楽死を望むようになるのだ。
劇中では、安楽死が日本でなかなか認められなかったのは、「生きることも死ぬこともその人の考え方が第一だというアイデンティティがまったく根付かなったから」と語られることになるけれど、これは日本の現実そのものを示しているのだろう。本人は安楽死を望んだとしても、家族がそれを望まない場合もあり、そうなると日本では安楽死を実行するのが難しくなるのだ。
安楽死反対論者だった章太郎は、最終的には安楽死賛成へと変化する。これは特区内部で行われていたことが国家による強制などではないということを示しているようでもある。一方で、逆のようなケースも本作には挿入されている。
それがエンドロール後におまけのように挿入されている、高橋伴明監督とある日本人のインタビュー映像だ。この人物はスイスまで安楽死を求めて遠征したものの、最終的な局面で家族の涙によって、それを中止したのだ。安楽死はそんなふうに直前で中止することもできるのだが、その当人は今でも安楽死を望んでいるとも語る(家族のことを考えて一度は中止したけれど、本人は未だにそれを望んでいるのだ)。
先ほどは原作者は安楽死には反対の立場の人だと記したけれど、劇中では安楽死がそれほど危なっかしいものであると強調しているようには見えない。あくまでも安楽死が日本で行われた場合のリアリティを追求したということだろうか。
とはいえ、安楽死を望んだ章太郎のパートナー歩のしたことは問題になるだろう。色々と取り繕っている部分はあるけれど、結局は誰かを殺すことになるという点では変わらないということを改めて示したということだろうか。それでも様々な理由で切実に死を望む人がいることも確かなわけで、やはりなかなか簡単に片付く問題ではなさそうだ。
本作は主人公がラッパーであるということが映画ならではの変更点なのだろう。章太郎は歌うように言葉を紡ぎつつ、医師たちと向き合うことになる場面は、本作の一番の見どころだろう。ただ、ラストは死んだ章太郎のステージと化すことになるわけで、このラストには呆気に取られた。ここまで何度もリアリティがあると記したけれど、ラストは一気にファンタジーとなってしまうのだ。端的にはダサいけれど、ハチャメチャでパワーはある気もするし、エンドロール後のインタビュー映像の挿入など、色々と破格な作品であるとは言えるのかもしれない。



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