監督は『祖谷物語-おくのひと-』の蔦哲一朗。
主演はツァイ・ミンリャン監督作品の常連リー・カンション。
物語
今は昔、急速に変わりゆく時代の中で、⾃然との繋がりを⾒失った狩猟⺠の「私」は、⾃分の分⾝とも⾔える⽜と出会う。「私」は農⺠となって⽜と共に⼤地を耕しながら、⽊、⽔、⾵、霧、⼟、⽕、万物とのつらなりをただ静かに視つめ、刻み、還るー
(公式サイトより抜粋)
「十牛図」とは?
仏教が目指すものは何なのかということを一言で記すと、それは「悟り」というものになるのかもしれない。ただ、この言葉が具体的に何を示すのかは、今ひとつわからないとも言える。
それでも道元禅師は「仏道をならうというは、自己をならうなり」と言っているらしい。つまりは自分を見つめ直し、本来の自分を明らかにするということが仏道であるというのだ。言ってみれば、「自分探し」ということでもあるのだろう。
本作にインスピレーションを与えたとされる「十牛図」は、公式サイトの記載によれば「禅宗の修行過程を象徴的に描いた十枚の絵と、その詩文・解説からなる一連の図像」なのだが、ここで言う牛とは「本来の自分(自己)」のことを指しているとも言われる。
「十牛図」は、牛を探し始めるところから始まる。そして、それを見つけ、飼い慣らすといった段階を経ていくわけだが、これは本来の自分というものを次第に明らかにしていくという、仏教の修行過程をイメージとしてわかりやすく示したものということになる。
最も知られている「十牛図」は廓庵禅師のもので、それらの絵は墨で刷られた木版画と思われる。十枚の図はそれぞれ、①尋牛、 ②見跡、③見牛、④得牛、⑤牧牛、⑥騎牛帰家、⑦忘牛存人、⑧人牛倶忘、⑨返本還源、⑩入纏垂手、と題されている。『黒の牛』はその「十牛図」から着想を得ているのだ。

©NIKO NIKO FILM / MOOLIN FILMS / CINEMA INUTILE / CINERIC CREATIVE / FOURIER FILMS
自然と一体化して生きる
『黒の牛』は「十牛図」と同様に、10章に分かれている。廓庵禅師のそれと同じようにモノクロで、スタンダードサイズのスクリーンに描かれる。物語はあってないようなもので、映像による詩を目指したようなアート作品なのだ。
もともと狩猟民だった主人公の「私」(リー・カンション)は、時代の流れなのか住む場所を失うことになり、仲間たちとも別れることになる。その後、田畑を持っている老婆と知り合い、そこに住むことになり、老婆が亡くなるとその土地と家を譲り受けることになる。
それから黒の牛を見つけ、苦労の末にそれを手懐け、自らの家で飼い始めることになる。主人公が手懐けた黒の牛は、なかなかの働き者で、それを貸し出すとその隣人からも感謝されることになる。ところがその黒の牛はある時、亡くなってしまい……。
主人公は牛を見つけることになるわけだが、この牛は「本来の自分」だった。この「本来の自分」を手懐けるのが大変なのだが、しばらくすると主人公と牛は安定期に入る。主人公と牛は田んぼを耕したりして、自然の中でそれと一体となって生きている。
こうした自然と一体となって生きる人の姿は、蔦哲一朗監督の『祖谷物語-おくのひと-』にも描かれていた(この作品はその年のベスト10にも選んだのだが、一部劇場で本日からリバイバル公開されている)。
『祖谷物語』に登場するお爺(演じるのは『黒の牛』にも顔を出している田中泯)は、ほとんど自然の化身のようなものだった。お爺は山の中で生き、言葉を発することもない。毎日畑を耕し、粗末な食べ物で満足し、自然と一体となって生きている。
これはこれで理想的な姿とも見えるのだが、仏教の修行においてはその先があるのだろう。

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その先は?
ちなみに先ほど取り上げた道元禅師の言葉にも続きがある。「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。」と続くのだ。
わかりやすく現代の言葉にすれば、「本来の自分を明らかにするということは、自己を忘れることである。自己を忘れるとは、自分にとらわれた自分は本来なかったということを覚ることである。自分を完全に忘れると、万法が真実の自分であることがつまり、自他の枠組みの執着がなくなったことが明らかとなる。」という意味になる(下記のサイトから引用しました)。
本作はそうした説明するのが厄介なものを映像化しようとしている。黒の牛が亡くなった後、主人公が瞑想に耽るような場面があり、そこでは主人公の顔にもうひとつの主人公の顔がオーバーラップされることになり、それが次第にひとつに合致していくのだ。
これは迷える状態にあった主人公が、本来の自分を見つけ、それと同一化して一種の悟りを得た瞬間だったとも言えるのかもしれない。
そして、本当の自分を明らかにした後には、その自分すらもなかったことにするというわけで、それが「十牛図」の第八図「人牛倶忘」に描かれている。
この図は映画『まる』にも登場した、いわゆる「円相図」とも言え、円があるだけで中には何も描かれていない。何もない無の境地ということらしい。映画『黒の牛』の中では、強い光を受けてほぼ真っ白な場面がしばらく続くことになる。
本来の自分を明らかにした後には、その自分すらも忘れ、自分の存在すら消えてしまう。それが自他の枠組みの執着がなくなったということであり、自他の区別がない世界ということになる。それが光に溢れた何もない真っ白な映像として示されるのだ。本作では第八図以降は主人公の「私」の姿は見えなくなる。
しかしながら、映画はまだ続く。第九図では、大きな変化がある。映像は唐突にカラーとなり、アスペクト比もシネスコに変化するのだ。しかも、この第九図だけは70ミリフィルムで撮られたらしく、それだけに余計に鮮烈な印象を残すことになるのだ。
ちなみに第九図「返本還源」は「ありのままの世界」が描かれているとされる。ここでは海に浮かぶ島があり、黒の牛にも似た牛が草を食んでいる。そして、広がる海の先には火山があり、それがまさに噴火している様子が描かれる。
蔦監督はフィルムというものに対しての拘りを持っていて、フィルムでしか撮らないと宣言しているほどらしい。しかも70ミリフィルムというのは日本では本作が初めてとのことで、この第九図は一番の見どころになっている。
本作は、悪く言えば小難しいアート系作品だが、仏教や「十牛図」に興味のある方は一度観てみるのもアリかと。
本作は全体的には悟りへ到る超絶的世界を描いているわけだが、「十牛図」もそうだったように、そこに留まることはできないわけで、最終的には世俗の世界へと戻ってくることになる。エンドロール後の第十図の「劇場を出て街へ出よう」的なメッセージは、小難しい作品に向き合った観客へのちょっとした茶目っ気みたいにも感じられた。




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