『嵐が丘』 名作をどう読むか?

外国映画

原作はエミリー・ブロンテの同名小説。

監督・脚本は『プロミシング・ヤング・ウーマン』エメラルド・フェネル

主演は『バビロン』のマーゴット・ロビー。

原題は「Wuthering Heights」。

物語

「あなたは私のすべて。君は僕のすべて。」――物語の舞台はイギリス・ヨークシャーにある広大な高台<嵐が丘(Wuthering Heights)>。
この“嵐が丘”に佇む、アーンショウ家の屋敷に住む美しい令嬢キャサリン(マーゴット・ロビー)と、屋敷に引き取られた孤児ヒースクリフ(ジェイコブ・エロルディ)の身分の違うふたりは、幼少のころより心を通い合わせる。やがて大人になった二人は、互いを求め激しく惹かれ愛し合う。だが永遠を誓った愛は、身分の違い、周囲の境遇、そして時代の渦に飲み込まれ、予期せぬ道をたどる。“嵐が丘”を舞台に、心赴くままに愛し合う二人を待ち受ける衝撃の運命とは・・・?

(公式サイトより抜粋)

名作をどう読むか?

『嵐が丘』の原作は「世界三大悲劇」の一つとされたりするらしい。ちなみにほかの二つは『リア王』『白鯨』だ。

『リア王』が悲劇なのはわかりやすいけれど、『白鯨』が悲劇という括りになるのはちょっと謎な気もするけれど、『嵐が丘』に関しては“恋愛もの”といった勝手なイメージがあって、まだ読んだことはない。

そんなわけで原作を読んでいないため、本作がどれほど原作に忠実なのかはわからない。それでも海外の評判などを見ると、原作を読んでいる人から批判を受けているところがあるようだ。とはいうものの、『嵐が丘』の映画化は結構たくさんあるけれど、ほとんどが原作を忠実に映画化したものにはなっていないようだ。

というのも、原作はかなり長大な小説だかららしい。Wikipediaであらすじを読んでみたけれど、あらすじの分量とは思えないほど長い文章になっており、それだけ複雑に入り組んだ話になっているようだ。

原作はヒースクリフとキャサリン(キャシー)という二人の主人公がいるわけだが、半分くらいのところで片方は亡くなってしまう。ほとんどの映画化では、その前半部分だけを取り出した形になっている。しかしながら原作では二人の後の世代の話が続くことになり、それによって物語が完結するらしい。とはいえ、それを2時間という枠に収めるのは到底無理ということになる。

そんなわけで、本作のエメラルド・フェネル監督も原作の完全な映画化は無理と考えているようで、英語版のタイトルは「“Wuthering Heights”」という表記になっているとか。カッコに括られているのは、彼女にとっての「“嵐が丘”」という意味らしい。

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女性の欲望

冒頭、暗闇の中から音が聞こえてくる。ギシギシと何かが軋む音と、苦し気な喘ぎ声で、明らかに性的なものを思わせる。ところが実際にその光景が映ると、それは縛り首の様子であると判明する。その観客の中には幼いキャシーもいるのだが、キャシーもその見世物としての縛り首を存分に楽しんでいるのだ。エメラルド・フェネル監督はこんなことをインタビューで語っている。

ゴシック文学全般において“快楽と苦痛”、そしてある意味“性と死”への強い執着があると思う。それはゴシックの根源と言えるもの。だから、彼らが生きている世界──私は当時のありのままの世界を描いているだけなのだけど──つまり、絞首刑を見に行くことが一種のレクリエーションや楽しみであったという背景を最初から提示することが重要だった

ゴシック文学の根源に“性と死”があるということで、とにかくそういうものを狙っているということらしい。劇中では結婚式の白いドレスと、葬式での黒いドレスの両方が登場する。これも“性(生)と死”ということなのだろう。ただ、本作で印象に残るのは“死”よりも“性”のほうばかりだった気もする。

とりあえず言えることは、エメラルド・フェネル版の『嵐が丘』では、女性の欲望というものが前面に押し出されていることだろう。幼いキャシーが縛り首を楽しんだのもその表れなのだろうし、成長したキャシーは使用人たちのセックスを覗き見て欲情し、自慰行為に耽ったりするところまで描かれている。さらには後半ではヒースクリフとの情事が繰り返されることになり、“性”の描写に多くの時間が割かれているのだ。

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禁じられた関係

原作を読んでみる時間もなかったので、一応予習として1939年のウィリアム・ワイラー版だけは観てから臨んだのだが、ワイラー版と比較すると違いがよくわかる。

ヒースクリフとキャシーは幼い頃から一緒に育つことになるけれど、キャシーは貧しい生活に耐えかねてということなのか、裕福なリントン家に嫁いでいくことになる。実はキャシーはヒースクリフのことを愛している。というよりも、魂の片割れだと感じている。ヒースクリフはそのことを知らずに、二人はすれ違うことになり、一度は消えて裕福になって戻ってきたヒースクリフはキャシーに対して復讐心を抱いているのだ。

ワイラー版のヒースクリフは、キャシーに対する愛情と同時に憎しみも強い。だから彼は邪悪な存在にも見える。一方でエメラルド・フェネル版のヒースクリフ(ジェイコブ・エロルディ)は、そのあたりが曖昧に見えるし、澄ましていてもキャシー(マーゴット・ロビー)が自分になびいてきたらすぐに陥落してしまう。

禁欲的だったワイラー版に対して、エメラルド・フェネル版は肉欲に溺れてばかりなのだ。一応は復讐という意識はあるわけで、それもなされることになるのだが、それは逢瀬を存分に楽しんだ後というわけで、どこか中途半端な気がしたのだ。

結局、本作の二人は、不倫という禁断の関係だからこそ盛り上がったということなのかもしれない。二人はキャシーの旦那の目を盗んで何度も情事に耽ることになる。葬式において黒装束を着ながらも、こっそり手を握っているあたりも、禁じられているからこそ欲情しているようにすら見える。とはいえ、こうした関係は酷く安っぽいものに思えなくもないわけで、昼ドラと何が違うのだろうか(もちろん衣装やセットは豪華で予算は違うけれど)。

もしかするともっと深い何かを読み取れていないだけなのかもしれないけれど、エメラルド・フェネルが原作から読み取っていたことが単にエロい話だったのかとも思えてくる。彼女にとっての「“嵐が丘”」とは、そういうものだったのだろうか。魚のジュレとか、そばかす色の部屋とか、イザベラがキャシーに贈った本とか、ほかにも性的なほのめかしに溢れている本作は、ちょっと高尚に見えなくもないエロ作品として楽しめばいいのだろうか。

まあ、それを主導しているのが欲望に満ちたキャシーのほうであって、意志薄弱とも思えるヒースクリフは彼女に従うばかりというのは、今の時代の『嵐が丘』ということなのかもしれない。

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ワイラー版を観ていて印象的だったのは、『嵐が丘』が幽霊の話だということだ。ところが本作はそれが一切抜けている。ラスト近くの台詞として、どちらの作品でも「命なしでは生きられない、魂なしでは死にもできない」というヒースクリフの言葉が使われていた。しかしながら、この台詞は幽霊話だからこその台詞であって、その要素が抜け落ちた本作ではよくわからない台詞になっているようにも思えた。

個人的にはイチャついてばかりの主人公の二人よりも、イザベラ(アリソン・オリバー)とヒースクリフのやり取りに惹かれた。完全にサドマゾで、イザベラが首輪を付けられて犬の鳴き真似まで披露するところは妙に逸脱しているような気もして、監督の趣味なのかとも思えたけれど、どうなんだろうか? 監督曰く、原作のほうがもっとサドマゾ的だとか……。とりあえず一度くらいは原作を読んでみたくなった。

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