監督・脚本は『カリフォルニエ』のアレッサンドロ・カッシゴリとケイシー・カウフマン。2人の作品は日本では最初の劇場公開とのこと。
ヴェネツィア国際映画祭で最優秀イタリア映画賞を受賞した。
物語
ジャスミンは、夫と3人の息子たちに囲まれ、オーナーを務めるヘアサロンは大繁盛と、満ち足りた日々を送っていた。しかし40歳を迎えた頃、父の死をきっかけに異変が起きる。金髪の少女を父から託される夢を繰り返し見るようになり、自分の人生には「娘」が必要だという想いに囚われるようになる。ジャスミンは養子縁組で娘を迎え入れることを決意するが、それは幸せだった家族に大きな波乱を巻き起こすのだった。
イタリア国内での養子縁組はハードルが高く、それをクリアしたとしても性別を選ぶことは許されていない。家庭内が疲弊していく中、夫から「あきらめるんだ。家族のために」と諭されたジャスミンは一度は断念したものの、どうしてもあきらめきれず国際養子縁組という手段を選ぶ。そうして一家が下した、大きな決断とは――。
(公式サイトより抜粋)
当事者が演じる物語
養子という制度を題材にした作品だ。本作が似たような題材を扱った作品とちょっと異なっているのは、主人公には子どもは3人もいるけれどみんな男の子ばかりで、どうしても女の子が欲しいという設定だろうか。しかしながらこの設定は実話に基づくもので、しかもその当事者がそれを劇中で演じている。
主人公のジャスミンを演じているのはマリレーナ・アマートという女性だが、彼女は劇中のジャスミンと同じく美容師だ。監督を務めるアレッサンドロ・カッシゴリとケイシー・カウフマンは、前作の撮影中にマリレーナ・アマートと知り合い、彼女から養子縁組の話を聞いたらしい。それが本作製作のきっかけになったのだ。
『ヴィットリア 抱きしめて』の劇中でジャスミンとその家族を演じるのは、マリレーナ・アマートとその本当の家族たちだ。マリレーナ・アマートが養子縁組をした経験を映画化するのにあたり、それをその当事者が演じ、家族もまた自分の役を演じているということになる。というのも養子縁組によって新たな家族を迎えるということは、マリレーナ・アマートだけの問題ではなくて家族全体の問題でもあるからだろう。
本作はその当事者たちが自分自身を演じることになっているわけで、まるでドキュメンタリーのようなとてもリアリティのある話になっている。それもそのはずで当事者だけにその気持ちは痛いほどよくわかるのだ。

©2024 Zoe Films, Sacher Film, Scarabeo Entertainment, Ladoc
様々な障壁を乗り越えて
ジャスミンが女の子を養子に欲しいと考え出したのには、夢が関わっている。亡くなった父親が彼女に金髪の女の子を託すという夢を見たというのだ。ただ、ジャスミン自身もその考えをなかなか家族に言い出せなかったのは、自分でも突飛な考えだと感じていたのかもしれない。
旦那のリーノ(ジェンナーロ・スカーリカ)は「すべてを持っているのに」と困惑する。実際にジャスミンは傍目にはそう見えるだろう。5人家族でリーノは自分の事業を拡大しようとしているし、ジャスミンの経営する美容室も繁盛している。さらには長男もその跡継ぎとして美容師の道を歩んでいるわけで、一家には何の問題もないのだ。そこになぜもうひとりの家族が必要なのかということだろう。
それでもジャスミンにとっては切実な問題らしく、様々な障壁にぶち当たってもどうしても諦めることができず、何とかそれを乗り越えようとする。
養子を迎えるためには色々と審査が必要になる。親戚縁者からの同意が必要になったり、社会福祉士との面談があったりする。そうした審査に合格しても別の問題が生じる。イタリア国内の養子縁組では性別を選ぶことができないのだ。ジャスミンは女の子が欲しかったわけで、それでは意味がないことになってしまう。そのために彼女は国際養子縁組という制度を活用することになる。
しかしそうした外部の問題ばかりではない。新しい家族を迎えるジャスミンの家族内部の問題もある。今の家族にトラブルが生じている時、それを差し置いて新しい家族を迎えるわけにはいかないだろう。さらには経済的な問題もある。成員が増えるとなれば当然出費も増える。ある程度の余裕がなければ、養子を迎えることはできないのだ。

©2024 Zoe Films, Sacher Film, Scarabeo Entertainment, Ladoc
親になるということの責任
それでもジャスミンはそうした障壁を乗り越えて、ようやく養子候補のヴィットリア(ニーナ・ロレンツァ・チャーノ)に会うことになる。ところがそこにもまた大きな障壁が待っている。ジャスミンは国際養子縁組で海外に渡りヴィットリアに会うことになるのだが、実際に会ってみると聞いていたこととは違うこともある。ヴィットリアには「言葉の遅れがある」と聞かされていたのだが、認知機能に障害がある可能性があるのだという。
ヴィットリアは自分の名前を訊かれても答えられない。それが極度の人見知りによるものなのか、あるいは認知の機能に問題があるのかがわからない。そうなるとジャスミンの決意も揺らぐことになり、彼女は「責任が重すぎる」と漏らすのだ。
この時のジャスミンが何を思ったのか。子どもを育てるのにはもちろん手がかかる。障害を持つ子どもだとすればなおさらだろう。彼女は仕事も抱えているわけで、自分のわがままで家族に迷惑をかけることを恐れたのかもしれない。ジャスミンは、そういう状況になってみて初めて養子を迎えることの責任に気づいたのだ。

©2024 Zoe Films, Sacher Film, Scarabeo Entertainment, Ladoc
誰のために?
ジャスミンは自分の願望の実現のために躍起になっていて、ともすれば養子として迎えられる側のヴィットリアの気持ちを疎かにしている節がある。認知機能のテストとして、ヴィットリアに円を描かせてみようとしたりするのも、迎い入れる側のことばかりを考えているからだろう。
また、施設の職員もヴィットリアにそのテストをやらせようと必死だ。施設の子どもたちは里親が見つからなければいつまでもその施設を出ることもできないわけで、ヴィットリアのために職員も必死になってしまうのだ。
それでもヴィットリアは周囲の状況をあまり理解していないようだ。周囲が彼女に何かをさせようとしているのに対し、ただただ困惑している。そんな状況の中でただひとり冷静に事態を把握していたのは、ジャスミンの夫のリーノだ。彼はそんな下らないテストなどを無視して、ヴィットリアをただ抱き上げるのだ。
親になるということはそういうことなのだろう。産まれてくる子どもを親が選ぶことなどできないのだ。障害があろうがなかろうが、まるごと受け入れるしかないのだ。そんなリーノに後押しされる形でようやくジャスミンもヴィットリアを抱きしめることになる。
日本の特別養子縁組について描いた『朝が来る』では、その制度に関してこんなふうに説明していた。特別養子縁組は親が子どもを見つける制度ではなく、何らかの要因で親と一緒に暮らせない子どものほうが親を見つけるための制度だというのだ。
ジャスミンは自分の願望ばかりに固執していたけれど、そもそも養子縁組という制度は子どものためにあるということなのだろう。ジャスミンはリーノの後押しでそれにようやく気づいたのだ。涙を誘う感動的な場面だったと思う。
本作は事実をもとにしたフィクションだが、エンドロールではジャスミン役のマリレーナ・アマートとその家族の写真が登場する。そこにはすでに13歳となった本当のヴィットリアの姿もある(劇中のヴィットリアは別人)。その姿を見ると、ヴィットリアはいい家庭に迎えられたと誰もが思うんじゃないだろうか。
マリレーナ・アマートは自分がすでに経験したことを、演技することでもう一度追体験する形になった。そこには家族とのトラブルなど辛い部分もあったはずだ。それでもこの作品に出ることになったのは、彼女がインタビューで語っているように「養子は、計り知れない幸せを運んできてくれ」るからであり、それを多くの人に知ってもらいたかったということなのだろう。



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