監督・脚本は『ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』などのトッド・フィリップス。
主演は『ナポレオン』などのホアキン・フェニックス。
原題は「Joker: Folie a Deux」。「フォリ・ア・ドゥ」というのは、フランス語で「二人狂い」を意味するとのこと。
物語
「生まれて初めて、俺は1人じゃないと思った」。
理不尽な世の中の代弁者として時代の寵児となったジョーカー。
彼の前に突然現れた謎の女リーとともに、狂乱が世界へと伝播していく。
孤独で心優しかった男の暴走の行方とは?
誰もが一夜にして祭り上げられるこの世界――
彼は悪のカリスマなのか、ただの人間なのか?
(公式サイトより抜粋)
期待外れの続編?
前作『ジョーカー』で主人公のアーサーは、たまたまやったことで「理不尽な世の中の代弁者」として祭り上げられることになった。実際には、アーサーがやったことはそんな意味はなかったはずだ。
自分の人生が喜劇だと思い知り、やけっぱちでやったことに世間が勝手に別のものを読み込んだだけだ。不満を抱えた貧困層のアイコン=ジョーカーとして持ち上げることになったアーサーは時代の寵児となる。それでもラストでは、一連の出来事がもしかするとアーサーの妄想だという可能性を匂わせてもいた。
それを受けての続編『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』では、アーサー(ホアキン・フェニックス)は5人を殺害した罪に問われることになる。アーサーの妄想の部分もあったけれど、大方は事実だったという扱いになっていて、続編ではその裁判の行方が追われていくことになる。
この続編への世間的な評価が賛否両論ということになっているのは、続編が前作そのものを否定してしまうような内容になっているからだろう。
ジョーカーというのはバットマンの敵役として“稀代の悪”ということになっているわけで、前作が「ジョーカー・ビギニング」だとすれば、続編ではさらにジョーカーが大暴れしてくれることを期待している観客も多かったのだろう。ところが続編はそんな観客の期待を裏切ることになるのだ。

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ジョーカーが歌いまくる
前作と大きく異なるのは、続編がミュージカル仕立てになっているところだろう。前作は観る人をかなり疲れさせるところがあったから、続編では楽しませようということだろうか。
続編には“リー”と呼ばれるハーリーン・クインゼルという新しいキャラクターが登場する。このリーを演じるのがシンガーソングライターのレディ・ガガで、アーサー役のホアキンとガガがミュージカルナンバーを歌いまくることになるのだ。
リーの役割はジョーカー・ファンの代表みたいなことになるだろうか。アーサーはすでに刑務所の中で、世間と断絶された生活を送っている。前作でジョーカーとなってテレビの生放送で殺人を犯すというとんでもない事件を起こしたアーサーは、今ではすっかり大人しくなっている。ブレンダン・グリーソン演じる看守には「今日のジョークは?」と訊ねられても、それに対するアーサーの返答はない。
そんな鬱のような状態のアーサーを再び活性化させるのがリーだ。リーは嘘の同情話でアーサーの気を引き、色仕掛けでアーサーを支配してしまうことになる。妄想の中の恋愛はあっても実際には女性との付き合いなどなかった童貞のアーサーは、そんなリーの手口にハマり恋に落ちることになってしまう。そして、続編は二人のラブストーリーになっていくのだ。
二人が歌う曲はクラシックなミュージカルナンバーも多く、ガガの歌唱力もあってなかなか楽しめるのだが、果たして前作のファンはそんなものを求めていたのかということになる。ジョーカーの大暴れを期待していたとすれば肩透かしということになるだろうし、そもそもアーサーのラブストーリーを観たい人がいるのかということもあるだろう。
一番印象的だったのは「Close to you / 遥かなる影」を歌い上げる場面だ。歌詞としては以下のようなものになる(サントラを発売しているUniversal Musicがyou tubeにアップしている動画から引用)。
鳥達が突然、姿を見せるのはなぜ?
あなたがそばにいるといつも
皆、私と同じように、思い焦がれている
あなたに近づきたいと
星々が空から降ってくるのはなぜ?
あなたが通り過ぎるといつも
皆、私と同じように思い焦がれている
あなたに近づきたいと
この曲は色々な人が歌っているが、一番有名なのはカーペンターズが歌ったバージョンだろう。ボーカルのカレン・カーペンターは女性だし、歌詞としても素敵な男性に恋焦がれている女性の気持ちが描かれている。「星々が空から降ってくるのはなぜ?」といった感覚も、この歌の視点が女性にあることを示しているわけで、映画でも視点は女性であるリーのほうに移行しているということなのかもしれない。アーサーはいつの間にかに主役の座を奪われていたのだ。
前作でも大衆が勝手にジョーカーという存在を祭り上げることになっていった。続編ではその役割をリーが担っている。タイトルは「二人狂い」という意味らしいけれど、どこかで「二人羽織」みたいにも感じられた。裁判ではジョーカーの扮装をしたアーサーの後ろに、同じようなピエロメイクのリーが控えている。アーサーを後ろで操っているのがリーということなのだ。

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賛否両論は決まっていた?
前作の後の展開、つまりは続編の内容は冒頭のアニメでも予告されている。アニメではアーサーの影であるジョーカーが、本体であるアーサーの意志とは別に動き出し、そのことでアーサーのほうが酷い目に遭わされることになる。
不満を抱えた貧困層のアイコンとなったジョーカーにはそれを持ち上げるファンがいて、それを代表する形のリーがアーサーを再びジョーカーにさせようと画策する。しかしながらジョーカーの誕生はたった一度限りのものだったのだろう。
裁判ではアーサーはジョーカーの扮装をして周囲とリーの期待に応えようとする。裁判所に向かう際のアーサーはジョーカーのフリを懸命に練習しているけれど、かつてのような「笑い」も生まれてはこないのだ。そして、アーサーは衆人環視の中で「ジョーカーなどいない」と告白してしまうことになる。
前作でアーサーからジョーカーに変身する時には劇的なものがあったし、「Rock and Roll Part 2」にのって踊りながら階段を降りてくる場面など演出としても気分が高揚する瞬間もあった。それに対して続編では、アーサーが告白する場面は意外と呆気ない。意図的にカタルシスを避けるような演出になっているのだ(予告編にあるアーサーとリーが裁判所前で踊りまくるというシーンもない)。
リーをはじめとするファンたちは静かに去っていくことになり、熱狂は一気に冷めていくことになる。前作でジョーカー誕生に心躍らせたファンに対して冷や水を浴びせかけるのがこの続編なのだ。
このレビューの最初に「続編が観客の期待を裏切るような内容になっている」と記したけれど、それは作品内部のジョーカーとそのファンの関係と同じだ。ジョーカーがファンの期待には応えられないことを明らかにするように、続編そのものも観客の期待には応えられないことは最初から決まっていたということなのだろう。続編が賛否両論というよりは“否”のほうが目立つことになるのも当然なのかもしれない。
日本でもジョーカーの扮装で事件を起こした輩がいたけれど(実際には『ダークナイト』版のジョーカーだった)、前作を観て勘違いしてしまうようなヤバい人間が出てこないとも限らないわけで、それに対して続編で落とし前をつけるような形になっているというわけだ。製作陣はとても誠実なのかもしれないけれど、前作そのものを否定するような続編というのは観客としてはなかなか複雑な気持ちにもなる。
ちなみにジョーカーの本名というのは作品によって様々なのだという。ティム・バートン版の『バットマン』に出てきたジョーカーの本名はジャック・ネイピアで、『ダークナイト』におけるジョーカーには本名というものが与えられていなかったらしい。トッド・フィリップス版の『ジョーカー』と『ジョーカー2』におけるジョーカーの本名はアーサー・フレックということになる。これはどんな作品でもバットマン=ブルース・ウェインという等式が崩れることがないのとは異なるわけで、誰にでもジョーカーになる可能性があるということなのかもしれない。
ラストでは、アーサーではない別の人物がジョーカーになるかもしれないことが仄めかされているからだ。結局は理不尽な世の中だけは変わらないままというわけで、次のジョーカーが出てくる可能性はあるのかも。けれども、さらなる続編はなさそうな気がする。
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