『落下音』 亡霊が見守る家

外国映画

監督はマーシャ・シリンスキ。長編としては第2作とのこと。

カンヌ国際映画祭コンペティション部門に選出され、審査員賞を受賞した。

原題は「In die Sonne schauen」で、「太陽を見つめる」といった意味。英語版のタイトルは「Sound of Falling」。

物語

1910年代、アルマは同じ村で、自分と同じ名を持つ幼くして死んだ少女の気配に気づく。1940年代、戦争の傷跡が残る中、エリカは片脚を失った叔父への抑えきれない欲望に気づき、自らの得体のしれない影に戸惑う。1980年代、アンゲリカは常に肌にまとわりつく“何か”の視線に怯えていた。そして現代、家族と共に移り住んだレンカは、自分の存在が消えてしまいそうな孤独感に蝕まれていく。
百年の時を経て響き合う彼女たちの<不安>が、この北ドイツの農場を静かに覆いつくしていく——

(公式サイトより抜粋)

カンヌっぽい難解作

いかにもカンヌ映画祭っぽいといった印象の作品だった。高尚な感じはするけれど、何だかよくわからない映画ということだ。映像は素晴らしいし、不穏な音を響かせるサウンドデザインもいい。映像による叙事詩ということになるのだろうが、描かれている出来事はわかっても、なぜそうなったかということを語るつもりはないようで、唐突にその出来事が描かれていくために、一度観ただけでは迷子になってしまう人も多いんじゃないかと思う(もちろん私もそうだ)。

4つの時代の4人の女性が主人公ということになっているけれど、その時代の区別がはっきりしない。というのは風景がほぼ変わらないからだ。最後の2020年代にはスマホなんかも出てくるけれど、それ以外に時代を示すものはほとんどないと言ってもよく、次々と出てくる人は変わるものの、それがいつのことなのかはよくわからないまま展開していくのだ。

終わってみれば、北ドイツの農場というひとつの場所を舞台にした作品で、そこに住む家族の100年に渡る時の流れみたいなものを描いているということになる。

ひとつの場所を舞台にしているという点では『HERE 時を越えて』と似ているところがある。時間軸があちこちにシャッフルされる点でも同じだ。とはいえ、誰が観てもわかるように作られている『HERE 時を越えて』と比べて、本作は難解だ。

そんな難解さも含めてどことなくガルシア=マルケスの小説『百年の孤独』を思わせなくもない(ラストの不思議な浮遊現象はマジック・リアリズムだろうか)。ちなみに『百年の孤独』には、主人公一家の家系図がついているバージョンもあるらしい。あったほうが断然読者の理解の助けになるだろう(私の手元にあるバージョンにはついていない)。

本作の場合も、公式サイトにある「キャラクター相関図」を頭に入れてから観たほうがよかったのかもしれない。なぜか公式サイトではネタバレを恐れて「鑑賞後に」と謳っているのだけれど、ネタバレして興をそがれるような作品とは違うんじゃないかとも思う。

©Fabian Gamper – Studio Zentral

亡霊が見守る家

1910年代のアルマ(ハンナ・ヘクト)はまだ幼い少女で、写真の中に自分と同じ名前の女の子がいるのを知る。そして、その写真の中の女の子はすでにこの世にはいないのだ。アルマは時にカメラを覗き込むような視線を向けるのだが、この視線はカメラのこちら側を見ているというよりは、普通の人には見えないものを見ているもののように思えてくる。アルマが亡霊を見てしまったかのような視線に見えてくるのだ。

そんな視線を受けることになる観客は、アルマと目が合ってしまった亡霊になったように感じるかもしれない。観客はその家に取り憑いた亡霊のように、その家に住む人を覗き見していくことになるのだ。日本でも田舎の家の鴨居には代々の先祖の写真が飾られたりしているけれど、そんなふうに先祖が見守っているイメージなのかもしれない。

本作のビジュアルはフランチェスカ・ウッドマンという写真家の作品からインスピレーションを得ている部分があるようだ。シャッターが押された瞬間に被写体が動いてしまって、まるでお化けのようになってしまっている写真がいくつも登場する(モーションブラーと言うらしい)。そうしたちょっと不気味なそうした写真も、その家に死者の魂みたいなものが漂っているという雰囲気を醸し出していくことになるのだ。

©Fabian Gamper – Studio Zentral

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無意識の繰り返し

『落下音』では、1910年代、1940年代、1980年代、2020年代という4つの時代が描かれる。大雑把にまとめればそれぞれで描かれるのは、その家に住む人たちの生(性)と死ということかもしれない。

1910年代には戦争の影が見られ、1940年代には登場人物は一気に少なくなる。1910年代では一家の長男フリッツが片足を失う。これは親が息子を戦争に行かせたくなかったからだ。そのためにケガをしたことにして「労災」を装ったのだ。1980年代と2020年代は平和で、死よりも性のほうが前面に出ているのだが、それでも死はひっそりと忍び寄っている。

本作は「落下音」というタイトルだが、劇中で落下した人は3人いたと思う。最初はフリッツだ。フリッツは「労災」を装うために親から襲われそうになって納屋の2階に逃げ、誤って下に落下して足を折ることになってしまう。それによってフリッツは片足になるのだ。

次は1940年代のリアだ。リアは、働けないフリッツの影響もあってか、ほかの農家に売られるような形になったらしい。そうなると彼女を待っているのは、自分たちの家にいた女中たちと同じような受難ということになる。それを嫌ったリアは高いところから落ちて死ぬことになる。

そして最後は2020年代のネリーだ。ネリーはどこかで孤独を感じていて、なぜかネリーもフリッツが落ちた場所と同じところから飛び降り自殺をすることになる。

時代は違っても人のやることはたいして変わらないということなのだろう。本作にはたびたび繰り返しが描かれる。知らず知らずのうちに同じことを繰り返しているというわけだ。

何かに触れて「温かい」と漏らす場面も、誰かのヘソに触れる場面も、時代を越え、人を変えて、二度繰り返される。これらのシーンは何かしらの性的関心を抱いているということを示唆しているわけだが、そういう性(生)に対する欲望がなければ次の世代は誕生しないわけで、これは当然と言えば当然だ。しかし同時に死の匂いも漂っている。

1980年代のアンゲリカ(レーナ・ウルツェンドフスキー)が農作業の最中に自死を妄想するように、彼女は性への関心と同時に死にも魅入られている。1910年代のアルマはまだ幼くて性に対する関心はないけれど、自分と同じ名を持つ少女に興味を持つ。その女の子はすでに亡くなっているけれど、写真の中には存在している。アルマはその女の子の真似をしているのは、彼女も死に魅入られている部分があるということなのかもしれない。幼くてもそうした感受性はあるからこそ、最後にネリーは飛び降りることになったということなのだろう。

©Fabian Gamper – Studio Zentral

写真と映画

不思議なのは、本作がとても古臭い映画にも思えることだ。本作は1910年代から2020年代までを描いている。2020年代というのは現代だが、なぜかそれすら過去のものにも思えてくる。1910年代が過去なのは当然だけれど、なぜか2020年代すらも現在進行形というよりは過去の出来事にも思えてくるのだ。

これは先ほどもちょっと触れたけれど、本作がある写真家の作品にインスピレーションを得ているからだろうか。本作は映画だけれど、どこかで写真に近い部分があるのかもしれない。監督のマーシャ・シリンスキは物語を語ることよりも、いくつかのを撮りたかったのだろう。

ちなみに写真と映画の違いについて、『阿賀に生きる』などのドキュメンタリーを撮った佐藤真はこんなことを書いている。

ロラン・バルトの『明るい部屋』を持ち出すまでもなく、写真は本源的に〈それはかつてあった〉という過去の記憶へさかのぼる志向をもっている。それに比べると、映画は、〈現在ここにある〉といった現在性へ踏みとどまろうとする志向をもっている。

(『ドキュメンタリーの修辞学』より)

ここでは映画は現在性へと踏みとどまろうとすると言われている。一方で写真は〈それはかつてあった〉という過去の記憶へさかのぼる志向をもっているとされる。

本作が現在進行形の物語と思えなかったのは、〈それはかつてあった〉というものを描こうとしているからなのかもしれない。それはまさに写真において見出される志向性なのだ。だから本作は現代を描いても過去が描かれているようにも感じられるのだろう。そんな意味では、「写真のような映画」というのが本作を形容するのに一番適しているのかもしれない。

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