原作は『美しい夏キリシマ』の松田正隆による同名戯曲。
監督・脚本は『そばかす』の玉田真也。
主演は『ゆれる』などのオダギリジョーで、共同プロデューサーも担っている。
物語
雨が一滴も降らない、からからに乾いた夏の長崎。幼い息子を亡くした喪失感から、幽霊のように坂の多い街を漂う小浦治(オダギリジョー)。
妻の恵子(松たか子)とは、別居中だ。この狭い町では、元同僚の陣野(森山直太朗)と恵子の関係に気づかないふりをするのも難しい。働いていた造船所が潰れてから、新しい職に就く気にもならずふらふらしている治の前に、妹・阿佐子(満島ひかり)が、17歳の娘・優子(髙石あかり)を連れて訪ねてくる。おいしい儲け話にのせられた阿佐子は、1人で博多の男の元へ行くためしばらく優子を預かってくれという。こうして突然、治と姪の優子との同居生活がはじまることに……。
(公式サイトより抜粋)
長崎の暑い夏
「長崎の夏は暑い」、そんなふうに劇中で言われている。ちなみに本作の原作戯曲は1999年に読売文学賞を受賞したのだそうで、20年以上も前の作品だ。もしかするとその頃は長崎は東京なんかよりもずっと暑かったのかもしれない。
ところが今では長崎じゃなくても、日本中どこでも暑いのだろう。そして、雨が降り出せば土砂降りになる。そんな熱帯雨林気候みたいに日本もなりつつあるようだ。
本作の冒頭でも雨が激しく降っている。坂の多い長崎の街だから、雨水は滝のように坂を流れていく。濁流の様子は『パラサイト 半地下の家族』みたいだった。実は、かつてこの豪雨が主人公である小浦治に大きな悲劇をもたらすことになったらしい。治の息子はその濁流に飲み込まれて亡くなったのだ。
最初に登場する治は、息子が流されることになった水路の上に佇みながらタバコを吸っている。水路には山ほどのタバコが投げ捨てられたままで、そこにほとんど水はない。その夏は、カラカラに乾いた夏なのだ。
原作戯曲はすでに何度も舞台劇にはなっているようで、それがどんなものだったのかはわからないけれど、舞台劇だけに恐らく治の家の茶の間を舞台にした会話劇といったものなのだろう。一方の映画化された『夏の砂の上』は、長崎という街の風景と夏の暑さを強く意識させる作品になっている。
タバコを買って坂を上ってくるオダギリジョーの服には汗染みが跡をつくっているし、その家に居候することになる髙石あかりの首元あたりにも西日を浴びて汗が光って見える。
そんな長崎の夏の空気感が如実に感じられるところは良かったけれど、余白が多い物語はわかる人にはわかるといった作品でもあったという気もする。それを文学的と評すればいいのかどうかはわからないけれど、エンタメとは違う刺さる人には刺さるという作品なんのだろう。私自身はあまりわかった気にはなれないけれど、出演陣もなかなか豪華だし退屈はしなかった。

©2025映画「夏の砂の上」製作委員会
治と優子の間にあるもの
治(オダギリジョー)は息子のアキオを亡くしている。それが彼を腑抜けのようにしてしまったのだろう。さらに追い打ちをかけるように造船所をクビになり、周囲の心配もよそにブラブラしている。そのせいで奥様の恵子(松たか子)からは愛想を尽かされ、彼女は別居中で坂の下のほうに居るらしい。
そんなところへ治の妹(満島ひかり)が娘を連れてやってくる。彼女は儲け話があるから、一時的に娘の優子(髙石あかり)を預かってほしいというのだ。そんなふうに治と優子の奇妙な共同生活が始まる。
治の立場はある程度わからなくはない。息子を亡くして茫然としている状態が続いているのだろう。そんな旦那の不甲斐なさに見切りをつける恵子の立場もわかる。しかし、そこに闖入した形の優子のことは、いまひとつわからない。
優子の過去に何があったのかはよくわからないからだ。優子の母親は優子のことを、まるで犬か猫かのように放り出して消えてしまう。母親の言うように優子は「手のかからない子」なのだが、それは優子が何も求めていないからなのかもしれない。
優子は母親が決めたスーパーでバイトを始める。バイト先の大学生・立山(高橋文哉)は盛んに優子にアプローチしてくるのだが、優子はあまり興味がなさそうだ。ちょっとは付き合ってみたりもするのだが、どうでもいい感じで「心ここにあらず」という様子なのだ。
優子は立山とじゃれ合いつつも、「白く白く光って消えてしまうといい」などとつぶやいている。この場面では、外の日差しも急に強くなり、優子のはだけたお腹の肌の白さを際立たせるのだが、舞台が長崎だけに、原爆のことを思わせなくもないわけで、優子の自暴自棄気味な気持ちが垣間見えるだろう。
そんな優子は、どこか治に対して共感めいたものを感じているところがあるようだ。それがどんな種類のものなのかはよくわからないけれど、それも観客の想像に委ねられているということなのかもしれない。

©2025映画「夏の砂の上」製作委員会
渇きと癒やし
本作は冒頭の土砂降り以降、まったく雨の降らない暑い夏が続いている。坂の途中だからか地域は断水になったりもして、水不足で給水車がやってきたりもする。
その点では、本作は“渇き”というものが重要な要素になってくる。そして、ラスト近くで降る雨がその“渇き”を潤すことになるわけだけれど、この“渇き”とは何を示しているのだろうか?
たとえば、オダギリジョーも出演していた日本映画の『渇き。』ではなく、パク・チャヌクの韓国映画『渇き』はわかりやすい。『渇き』という作品は“ヴァンパイアもの”で、主人公は血というものに飢えているからこそ“渇き”を感じている。“渇望”という言葉もあるように、何かしらの欲望があればこそ、“渇き”というものを意識させるのだ。
それに対して本作の優子や治は、そうしたものがあまり感じられない。優子はいつも心ここにあらずといった印象だし、治は自分のもとを去っていこうとしている恵子に対して何も言うことができないのだ。
もちろん暑い夏なわけで、のどの渇きはあるだろう。しかしながら、それ以外に二人が積極的に求めるものは見えてこないような気もしたのだ。もしかすると二人ともが自分では気づいていない、深層心理に眠るような欲望があるということなんだろうか?
ラスト近くで雨水で潤された“渇き”とは何を示しているのか、そのあたりが私にはよくわからないままだった。治と優子の間に生じた何かしらの共感といったものが、二人を癒やすことになったということなのだろうか?

©2025映画「夏の砂の上」製作委員会
息子などいなかった?
玉田真也監督曰く、本作をわかりやすく言えば、主人公の治が「いちばん最後にほんの少しだけ成長しているかもしれないという、すごくシンプルな話」ということになる。
確かに治は最後にちょっと変わったのだろう。奥様の恵子は治と別れて、かつての同僚の陣野(森山直太朗)と一緒にほかの土地へと行くことになる。
治は恵子に離婚届を渡す際に、妙なことを言い出す。「息子なんか本当はいなかったんじゃないだろうか」と。これはどういう意図だったのだろうか?
私にはこの台詞が恵子に対する嫌味のようにも思えた。恵子は新しい生活を始めることに意気揚々としている。治と別れることにも何の心配もなくなったと語る。そんな恵子に対して、治はそんなふうに漏らすのだ。
治は息子が死んだことを受け入れられずにいた。その一方で恵子は、現実的な対応をし前を向こうとしていたのだろう。
治からすれば、恵子は息子が居なくなったことにあまり早く馴染みすぎていたと感じていたのかもしれない。彼女のやっていることは、息子なんかいなかったと、その存在自体を否定することになっていやしないか。そんな感情が治に奇妙な台詞を吐かせたんじゃないだろうか。何も言えなかった時とはちょっと変わり、恵子の去り際に一言そんなことを言えるようにはなったのは前よりはマシになったということだろうか。
もちろん恵子はそれを否定することになるけれど、その去り際に坂の途中で優子に出くわすと、彼女には「おじさんを守る」などと宣言されることになる。とにかく優子は治の味方についたことになり、恵子は非難された形になったということだろう。
坂の下から優子を見上げることになる松たか子の不機嫌そうな表情が秀逸だった。そんなわけでわかった気にはならないけれど、鑑賞後には何かしらの引っかかりみたいなものが残っているような気はしないでもない。







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