原作は安部公房の同名小説。
監督・脚本は『シャニダールの花』などの石井岳龍。
主演は『ちょっと思い出しただけ』などの永瀬正敏。
物語
完全な孤立、完全な孤独を得て、社会の螺旋から外れた「本物」の存在。ダンボールを頭からすっぽりと被り、街中に存在し、一方的に世界を覗き見る『箱男』。カメラマンである“わたし”(永瀬正敏)は、偶然目にした箱男に心を奪われ、自らもダンボールをかぶり、遂に箱男としての一歩を踏み出すことに。しかし、本物の『箱男』になる道は険しく、数々の試練と危険が襲いかかる。存在を乗っ取ろうとするニセ箱男(浅野忠信)、完全犯罪に利用しようと企む軍医(佐藤浩市)、 “わたし”を誘惑する謎の女・葉子(白本彩奈)……。果たして“わたし”は本物の『箱男』になれるのか。そして、犯罪を目論むニセモノたちとの戦いの行方は―!?
(公式サイトより抜粋)
「箱男」とは何か?
ダンボール箱を頭から被って生活している男。それが箱男ということになるのだが、「だから一体何なのか?」と思う人だっているだろう。劇中の箱男曰く、箱の中に閉じこもることで「完全な匿名性」というものを得ることになる。ただ、箱には覗き穴というものがあり、その穴から外の世界を覗いているのが箱男なのだ。
『箱男』は、安部公房の同名小説の映画化だが、いきなり映画から入ったとしたら一体何のことなのかさっぱりわからないかもしれない。とはいえ、原作小説を読んだとしても、こちらもかなり特異な小説であまりわかった気にはならないかもしれない。
その原作は断片的で要約しようにも困難なもので、箱男の手記の形を採りながらも、その書き手は次々と変わっていく。箱男とは一体誰なのかも曖昧な形になっていくわけで、様々な解釈が可能となる小説となっている。
それでも本作は観念的で非現実的とも言える箱男を実写版で再現してみせたという点だけでも興味を引かれるものがある。原作者の安部公房は石井岳龍監督に「娯楽にしてくれ」と言っていたらしい。
予告編でも使われている横倒しになったダンボールがピョコンと立ち上がるあたりのアクションなんかを見ていると、原作者も予想もしなかったような変なものが撮られているような気がする。箱男(永瀬正敏)がワッペン乞食(渋川清彦)に襲われて人混みの中をクルクルと回りながら逃げていくシーンなども、何を観ているのかわからなくなってくるけれど、目が離せないものがあったと思う。
箱男とは引きこもり?
原作小説は安部公房が失踪三部作(『砂の女』、『他人の顔』、『燃えつきた地図』)と呼ばれる代表作を書き上げた後、5年もの月日を掛けて書いたものとされ、決定稿の原稿用紙300枚に対し、実際には3000枚程度書いていたものらしい。
それだけに色々な要素が混じり合っているし、細かなエピソードも数々ある。さすがに2時間の映画ではそこまでは追えないわけで、箱男以下4人の登場人物に絞り込んでいる。それでも様々な解釈が成り立つ映画となっているんじゃないだろうか。
以下は私の見方ということに過ぎないわけだが、私には箱男が一種の「引きこもり」のようにも思えた。引きこもりというのは自分の部屋などに閉じこもって外部との接触を絶つことになるわけだが、この行為は端的に言って退屈だろう。
だから引きこもりは自分の部屋に閉じこもりつつ、テレビやPCなどの外部を覗くことができる装置で一方的に外の世界を覗くことになる。そして、それは現代のスマホ依存の社会ともつながってくることになる。原作小説が書かれたのは1973年だというから、そんな早くから現代社会の姿を予見していたかのようにも見えてくるというわけだ。
『箱男』は1997年に一度映画化しかけて頓挫したとのことだが、製作する時代によって意味するものも変化していくのかもしれない。本作の冒頭はモノクロで、昔のATGみたいな雰囲気となっているのだが、そこから先はいつの時代とも言えないような情景が続くことになる。しかしながら、その中身はしっかりと現代に通じるものがあった気がする。
「本物」と「偽物」
本作には「本物」と「偽物」という主題もある。永瀬正敏が演じる箱男に対し、その地位をあやしくするのがニセ箱男(浅野忠信)ということになる。ちなみにニセ箱男はニセ医者でもある。彼は軍医(佐藤浩市)と呼ばれている本物の医者の代わりをしているだけの、免許を持たないニセ医者なのだ。
そんなニセ箱男と箱男とが争うことになるのだが、どちらが本物なのだろうか? これはそもそもよくわからない。自分が正しいということを主張することで、相手を否定しているだけなのかもしれない。そして、相手が正しいことになれば、自分が間違っていることになる。
箱男は冒頭近くで、自分が正しくて、世界のほうが間違っていると語っていた。彼にとっては自分の箱の中だけが真正の世界となり、それ以外のすべてが偽物ということになる。彼からすれば彼は箱の内側に閉じこもっているのではなくて、自分以外のすべてが逆にダンボールの箱の中に閉じ込められているということになる。だから箱男はダンボール箱の中に宇宙まで見出すことになる。
この箱男の考えがうまく伝わるだろうか? 彼にとっては箱の内と外はひっくり返っているということになるのだ。これは考え方次第で何とでも言える屁理屈ではあるけれど、箱男は自分のほうが正しくて、自分以外のすべては間違っていると考えているということになる。
「見る」と「見られる」
それから本作の主題のひとつとして挙げられるのは、「見る」と「見られる」という関係があるだろう。箱男は箱の中に閉じこもり「完全な匿名性」を獲得し、一方的に覗き穴から外の世界を覗き続ける。
通常ならば、「見る」ことは相手から「見られる」ことを意味することになるけれど、箱の中で匿名性を得ている箱男の場合はそうではないということになる。この一方的な覗きが箱男の強みとも言えるわけだ。ちなみに原作小説にはこんなふうに書かれている。
「覗き」という行為が、一般に侮りの眼をもって見られるのも、自分が覗かれる側にまわりたくないからだろう。やむを得ず覗かせる場合には、それに見合った代償を要求するのが常識だ。現に、芝居や映画でも、ふつう見る方が金を払い、見られる方が金を受け取ることになっている。誰だって、見られるよりは、見たいのだ。
劇中の箱男は一方的にお前たちを覗くと宣言しているけれど、その箱男は結局のところは映画の中の登場人物に過ぎないとも言えるわけで、箱男は観客から見られてしまう側になってしまうことになる。これは小説とは異なる映画版ならではの箱男の弱点と言えるかもしれない。
観客はそんな箱男の姿を見てこっそりと笑っているかもしれないわけだが、ラストではスクリーンの向こう側から箱男がこちらを見つめ「箱男とはあなただ」と告げることになる。あなたたちはわたしを笑っているかもしれないけれど、そのわたしとあなた自身は同類だと言うわけだ。これは「見られる」側に堕ちた箱男によるヤケクソ気味の反撃だったように思えた。
ラストシーン近くでは箱男の覗き窓がスクリーンと重なってくることになり、その向こう側に薄っすらと劇場の観客席のようなものが映っていたように見えたのは気のせいだろうか? もしかすると『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』のラストを想い出してただけなのかもしれないけれど……。
増殖する箱男たち
私には箱男が「引きこもり」のように見えたと書いたけれど、引きこもりである箱男は自ら望んで箱男になったはずだが、同時にその状態を脱したいとも感じている。外の世界を覗くという行為は、そこにやはり未練があるわけで、その機会を探っているということでもあるだろう。
劇中ではそのきっかけが葉子(白本彩奈)という女性ということになる。箱男は葉子のことを「出口」だと言っていることも、どこかで引きこもりからの脱出を願っていることの証左だろう。
ただ、箱男はそこからの脱出に失敗する。一度は箱から抜け出して葉子と二人で過ごすことになるものの、箱男はその住処である病院をダンボールで覆い、二人用の巨大な箱にしてしまうからだ。小さな箱から出て、大きな箱に移っただけなのだ。
とはいえ、引きこもりの場合は、自分が間違っているということだけは理解していたかもしれないけれど、スマホ依存に陥っている人はそんな意識もないのかもしれない。自分の中に閉じこもり、スマホから覗く他人の姿を嘲笑ったり批判することで満足してしまっており、そこに何の危機感もないというわけで、最後の箱男の増殖はそんな世の中の姿だったのかもしれない。
とにかく箱男とニセ箱男の闘いのシュールさが最高だった。日本を代表すると言ってもいい役者二人が、ダンボールを被ってぶつかり合うというバカバカしさ。色々と小難しい理屈も述べるけれど、最終的には子供ケンカみたいだというのが笑えたのだ。また、完全犯罪を目論むとか言いつつ、結局は葉子との変態行為を楽しんでいるだけに見える佐藤浩市も良かったし、大真面目な永瀬箱男とは対照的な浅野箱男のいい加減な感じの台詞回しがツボだった。新人の白本彩奈はサービスカットのようなクローズアップも多く、その整った顔立ちもあって単純に眼福だった。
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