監督・脚本は『グレート・ビューティー/追憶のローマ』、『LORO 欲望のイタリア』などのパオロ・ソレンティーノ。
主演は本作が映画デビュー作となるセレステ・ダッラ・ポルタ。
カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品。
物語
1950年、南イタリア・ナポリで生まれた赤ん坊は、人魚の名でナポリの街を意味する“パルテノペ”と名付けられた。美しく聡明なパルテノペは、兄・ライモンドと深い絆で結ばれていた。年齢と出会いを重ねるにつれ、美しく変貌を遂げてゆくパルテノペ。だが彼女の輝きが増すほど、対照的に兄の孤独は暴かれていく。そしてあの夏、兄は自ら死を選んだ…。彼女に幸せをもたらしていた<美>が、愛する人々に悲劇を招く刃と変わる。それでも人生を歩み続けるパルテノペが果てなき愛と自由の探求の先に辿り着いたのは――。
(公式サイトより抜粋)
「パルテノペ」とは何か?
予告編には『オデュッセイア』の一挿話が引用されている。通常、セイレーンと呼ばれる人魚たちは、船乗りを惑わして海に沈めるという。しかし、恋をしてしまった人魚“パルテノペ”は、悲しみのあまり身を投げた。その亡骸がナポリの街になったのだという。ナポリの街の由来として、古代から神話として語り継がれてきたエピソードということになる。つまりはパルテノペというのはナポリそのものなのだ。
パオロ・ソレンティーノ監督は、前作の『The Hand of God』でもナポリの街について描いている。前作は自伝的な作品とも言われていて、彼の故郷であるナポリが描かれるのは当然ということなのだろう。そして、『パルテノペ ナポリの宝石』も前作に引き続いてナポリの街が舞台となっていて、ある意味ではナポリという街が主人公とも言えるのだ。
公式サイトの「Director’s Note」には、本作の誕生秘話が書かれている。
ある日、「あなたにとって神聖なものとは?」という難問に答えなければならず、本能的にこのように答えた。「神聖なものとは、人生で忘れられないものである」と。
つまりはナポリという街こそが、ソレンティーノにとって神聖であり、人生で忘れられないものということなのだろう。
1950年に主人公であるパルテノペは誕生する。彼女は海の中で生まれたとされ、それを見ていた兄のライモンドは、「ヴィーナスの誕生」の絵に出てくる神のように、パルテノペに向って息を吹きかけている。
それから時間は飛んで、パルテノペ(セレステ・ダッラ・ポルタ)が18歳になり大人の女性として登場する。この時のパルテノペもまた、海から誕生したかのように、水着を着て海の中から上がってくるのだが、輝くような見事な肢体を見せてくれることになる。
それから多くの人がパルテノペを女神として崇めることになるわけだが、「さもありなん」というくらいセレステ・ダッラ・ポルタが魅力的に撮られている。ソレンティーノにとっては女性の美というものが、神聖であり、人生で忘れられないものということなのかもしれない。

©2024 The Apartment Srl – Numero 10 Srl – Pathe Films – Piperfilm Srl
時の流れと見られる存在
『パルテノペ ナポリの宝石』は時の流れを順に追っていくことになるのだが、ソレンティーノの作品だけにエピソードは断片的でいつも通り脈絡はない。1968年から1975年くらいまで(つまりはパルテノペが18歳から25歳くらいまで)が丁寧に描かれることになり、そこから一気に2023年の73歳になったパルテノペ(ステファニア・サンドレッリ)の話へと飛ぶことになる。
これは現代から逆算した結果ということなのだろう。現代に人生の終盤を迎える歳になったパルテノペ。彼女は人類学の教授としての仕事を終え、久しぶりにナポリに戻ってくる。彼女は笑顔がとても魅力的な人だけれど、さすがに若かりし頃のパルテノペとは違う。かつてのように街を歩けば誰もが振り返るような存在ではなくなっているのだ(その分、自由になっているようにも見える)。
本作が18歳から20代半ばまでを丁寧に描き、そこから一気に73歳まで飛ぶのは、女性が「見られる存在」であるということを示すためだろう。

©2024 The Apartment Srl – Numero 10 Srl – Pathe Films – Piperfilm Srl
18歳のパルテノペは自分の美しさが周囲にもたらす反響を知ることになる。劇中の誰かはパルテノペが「望むものはすべて手に入れるだろう」など予言していたし、パルテノペがその美によって男を弄ぶような時もあった。ところがその美がもたらすものは、幸せばかりではなかったのだ。
彼女が出会ったアメリカの作家ジョン・チーヴァー(ゲイリー・オールドマン)は、こんなふうに彼女に指摘していた。「あなたの美しさが招く呪いにお気づきかね?」と。この言葉が的確な表現だったことは、兄のライモンド(ダニエレ・リエンツォ)の自殺によって明らかになる。ライモンドは妹パルテノペのことを慕うがゆえに、その美によって苦しめられていたのだろう。
それからのパルテノペは、自分の美というものをどんなふうに飼い慣らしていくかという意識していたのかもしれない。ある大女優との奇妙なやり取りは、「見られる側」である女優となることの残酷さみたいなものを示していたと言えるのかもしれない。
そんな意味では、パルテノペを「見られる存在」として意識していなかった唯一の例外が、人類学のマロッタ教授(シルビオ・オルランド)だったのかもしれない。パルテノペはそこから方向転換して、人類学という学問の世界で生きていくことになる。

©2024 The Apartment Srl – Numero 10 Srl – Pathe Films – Piperfilm Srl
神秘というものの内実
本作はどんな映画だったのかと訊かれ、それに対して端的に答えようとしても、うまくいかないかもしれない。確かにパルテノペの人生遍歴が描かれることになる。ただ、これらの脈絡のないエピソードのつながりが、一体「何」を示そうとしているのかはよくわからないのだ。
本作はそんな「何」という問いが何度も出てくる。パルテノペは男たちから何度も「何を考えている?」と問われている。それに対してパルテノペが答えを示すことはない。それからパルテノペもマロッタ教授に「人類学とは何か?」という問いを投げかけることになる。それに対しても、明確な答えがあったとは言えないだろう。
「〇〇とは何か?」という問いは、その定義を問うものだろう(ギリシャ哲学では、その「本質」を問うものとされるらしい)。美しいパルテノペは、その中身には何があるのか。男たちはそれを知りたがる。けれどもそれを知ることはできないのだ。
ソレンティーノは「Director’s Note」にこんなふうに書いている。
「愛しすぎているのか、それとも愛し足りないのか? そこに違いがある」と、作中で聖人に扮した悪魔のような人物がパルテノペに尋ねる場面がある。この質問は私たち一人一人に向けられている。パルテノペも、そして私たちも答えを知らない。あらゆる質問がなされたが、答えはすべて不確かで曖昧、矛盾しているからである。自分自身を理解していないからこそ、他人の目には私たちは神秘的に映るのである。
パルテノペは神秘である。
パルテノペは自分自身を理解していない。だから神秘的に映る。本作そのものも同様なのかもしれない。本作では、パルテノペの内面は排除されている。その一方で外面はこれ以上ないほど整っている。女神とまで称される美しい容貌に、サンローランが参加しているだけあってファッションも見事だ。ただ、パルテノペの内面はまったくわからない。というか内面を描かないからこそ、本作も神秘的なものになっているということなのだろう。
個々のエピソードの意味不明さも同じことなのかもしれない。若者のセックスを鑑賞するエピソードは一体何だったのか。マロッタ教授の障害を抱えた息子は、水ぶくれをしたような巨体だったけれど、彼が示すものは何だったのだろうか。それぞれの意味が「何か?」と考えるとさっぱりわからないけれど、われわれはわからないものに神秘を見出してしまうことがある。そういうことなのかもしれない。
意味不明だけれど魅力的という作品はあるわけで、本作もそうした類いの作品ということになる。しかしながら、それを言葉で説明しようとすると何とも厄介なことになる。ただ、パルテノペの美しさと、ナポリの街の美しさには陶然とさせられた。




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