監督・脚本はアンヌ=ソフィー・バイイ。去年、日本でも公開された『犬の裁判』では、共同脚本を担当していた人で、本作が初の長編監督作品。
主演は『悪なき殺人』のロール・カラミー。
原題は「Mon inséparable」。
物語
パリ郊外の小さなアパートに暮らすシングルマザーのモナは、発達に遅れのある30歳過ぎの息子ジョエルを女手ひとつで育ててきた。モナはショッピングモールのビューティ・サロンで、ジョエルは障がい者のための職業作業所で働いている。
互いを支え合い、いたわりながら暮らしてきた二人。ところがある日、モナは、ジョエルと同じ施設で働くオセアンが彼の子を妊娠したと聞かされる。二人の関係を何も知らなかったモナは動揺し、母子の絆も揺らぎはじめる――
(公式サイトより抜粋)
障害者の息子とその母
障害を持つ息子とその母親の話。冒頭のプールのシーンなんかを見ていると、母親モナ(ロール・カラミー)と息子のジョエル(シャルル・ペッシア・ガレット)はとても仲睦まじい。二人で妙にはしゃいだりして、恋人同士に見えなくもないのだ。そんなわけでモナにとってはジョエルこそが「私のすべて」ということなのだろう。
本作の邦題は英語版のタイトル「My Everything」から採られたもののようだが、フランス語の原題は「Mon inséparable」というものだ。これを日本語に直訳すれば、「私の切り離せないもの」ということになる。母親と息子の切り離せない関係性を示しているということなのだろう。
『私のすべて』は、モナのひとり息子であるジョエルが、職業作業所で知り合ったオセアン(ジュリー・フロジェ)という女性のことを妊娠させてしまったことに端を発する。こういうことは当事者が大人であれば、普通は親が口出しすることではない。しかしながら、それが障害を持つ人の場合は事情が違ってくるだろう。
モナは職業作業所に呼び出される形で、オセアンの両親たちとも面会することになるのだが、どちらの家族も困惑している。妊娠ということが予想外の出来事だったからだ。オセアンの母親はジョエルのことを聞いていたようだが、その関係は子どもがじゃれ合うようなものだと思っていたらしい。ところが実際には二人は親が思っていた以上に大人だったということになる。
ジョエルもオセアンも障害を持っている。そんな二人が子どもを産み育てることができるのかどうか。親たちが心配するのはそういうことだろう。しかしながら、二人はすでに大人であり、本人たちが共に子どもを育てることを望んだということもあり、そういう方向で話は進むことになる。
このことだけでも様々な問題を含んでいるとも感じられるけれど、本作の主人公はあくまでもモナだ。障害を持つ子どもの母親が、どんなふうにそうした出来事と向き合っていくのかが描かれることになるのだ。

©2024 L.F.P.-LES FILMS PELLÉAS/FRANCE 3 CINEMA
母親の役割
本作では障害を持つ登場人物を、障害の当事者が演じることになる。それによって本作の物語はリアリティを獲得することになっているわけで、その点で日本の『37セカンズ』とも共通しているところがある。
『私のすべて』のモナも、『37セカンズ』の主人公の母親も、どうしても障害を持つ子どもに対して過保護にならざるを得ない。これまで自分がその子どもを世話してきたという経験がそうさせるのだ。ところがそうした意識は子どもを束縛することにもなるし、母親自身の子離れを妨げることになってしまう。この点では、どちらの作品も共通しているところがある。しかしながら、ある点では対照的でもある。
アンヌ=ソフィー・バイイ監督はインタビューの中で、「古典の作品の中での女性像はほぼ3つにわけられています。処女か母親か娼婦です。大袈裟かもしれませんが、ほぼ3つに分けられる」と語っている。
『37セカンズ』の母親の場合、この役柄はあくまでも脇役ということもあって、最初から最後まで母親という役割を逸脱することがない。この母親は自分の娘を束縛していたけれど、それ以上に自分自身のことを縛っていたのだ。
それに対して、『私のすべて』のモナの場合は、もっと自由というか、自分の感情に素直なところがある。モナはジョエルの前では母親だけれど、その役割を捨てて自由になるところがある。男性の前では、娼婦とは言わずともひとりの女になってしまうのだ。その点が本作がユニークなところでもあり、観客の共感を得にくいところにもなっているのかもしれない。

©2024 L.F.P.-LES FILMS PELLÉAS/FRANCE 3 CINEMA
モナの意外な行動
意外だったのは、モナのジョエルとの向き合い方だろうか。ジョエルとオセアンの関係が明らかになり、双方の親が呼び出された夜、ジョエルは母親と話し合いをしようと家で待ち構えていたようだ。ところが母親のモナは、そのジョエルを無視して飲みに出かけてしまう。
これはジョエルとしても予想外だっただろうし、観客としても意外な行動とも思えた。しかもモナは、バーで出会ったフランク(ヘールト・ヴァン・ランペルベルフ)という男性を家に連れ込んで、久しぶりのセックスを楽しむことになるのだ。
このモナの行動を意外なものと感じるのは、本作が「障害を持つ息子とその母親の話」ということで、その母親のセックスシーンなど予想もしてなかったという観る側の思い込みもあるだろう。障害者の母親に対する私自身の勝手な思い込みだ。
冒頭の場面では、モナとジョエルが「恋人同士みたい」だと記したけれど、このモナの予想外の行動は、二人の関係性によるものだろう。モナとしてはジョエルは「私のすべて」であり、いつまでも保護すべき対象だったはずだ。ところが、そのジョエルがほかの女性を愛しているということが判明したわけで、そこには何かしらの嫉妬のようなものがあったのだろう。そして、その対抗意識みたいなものが、モナをそんな行動へと走らせたというふうに、私には見えた。
障害を持つ子どもの親は、すべてを犠牲にしなければならない。もしかすると私自身はそんなふうに思い込んでいたのかもしれないし、『37セカンズ』の母親の場合は、そんな世間の想像する典型的な母親像を描いていたとも言えるのかもしれない。

©2024 L.F.P.-LES FILMS PELLÉAS/FRANCE 3 CINEMA
思い切った台詞
監督のアンヌ=ソフィー・バイイという人はまだ若い女性だが、公式サイトの記載によれば、「医療従事者の家庭で育ち、ケアする人とされる人の美しくも葛藤のある関係を間近で見つめてきた」とのことで、本作の脚本を書くにあたっても多くの当事者から取材をしたものと思われる。そうでなければ書けないような思い切った言葉を台詞にしているからだ。
劇中のある場面では、ジョエルが行方不明となり、モナは警察にそれを届け出ることになるのだが、その後のモナはなぜかフランクを呼び出してセックスを楽しむことになる(突然、湖に飛び込んでみたりもする)。後になって事情を知ったフランクがそれを非難すると、モナはブチ切れて反論する。部外者の人間に何がわかるのかというのだ。ジョエルのことで苦労してきたのが自分であると自負しているからこそ、部外者に非難される謂われはないというわけだ。
まさに部外者には当事者の気持ちを推し量ることは難しい。だからこそなのだが、モナの次の発言は思い切った台詞だろう。モナはジョエルを「特殊な子」だとして、「普通の子だったら」などと漏らしてしまうのだ。こんな台詞は当事者でなければ書けない台詞だろう。それこそ「部外者が勝手なことを」と、当事者に思われないとも限らないわけだから。
それでもあえてそんな台詞を言葉にしているというのは、そんなふうに感じている当事者もいるということを取材で感じ取ったということなのだろう。そんな意味では当事者の正直な気持ちを描いているということなのかもしれないけれど、観る側としては困惑してしまうところもあったのだ。
本作のモナはちょっと情緒不安定にも見えた。ところが、正直な気持ちを吐露した後にはスッキリしたということなのか、収まるところへおさまったという終わり方でもあった。そういう境地にたどり着く前には、何かしらの発散が必要だったということなのかもしれない。そのあたりは部外者としては納得するほかないのかもしれないけれど、未だにうまく理解が追いつかないような気もしている。



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