監督・脚本はサム・H・フリーマンとン・チュンピンの二人。本作は2021年に英国アカデミー賞にノミネートされた同名の短編を基にした長編作品。
主演は『キャンディマン』のネイサン・スチュアート=ジャレットと、『1917 命をかけた伝令』のジョージ・マッケイ。
物語
ナイトクラブのステージで観客を魅了するドラァグクイーン、ジュールズ。ある夜、ステージを終えた彼は、タトゥーだらけの男プレストンと出会う。だが、その出会いは突然、憎悪に満ちた暴力へと変わり、ジュールズの心と体には深い傷が刻まれる。舞台を降り、孤独な日々を送りながら、彼は痛みと向き合い続けていた。
数ヶ月後、偶然立ち寄ったゲイサウナでジュールズはプレストンと再会する。ドラァグ姿ではない彼を、プレストンは気づかぬまま誘う。かつて憎悪に駆られジュールズを襲った男が、実は自身のセクシュアリティを隠していたことを知ったジュールズ。彼はその矛盾を暴き、復讐を果たすため、密会の様子を記録しようと計画する。
ところが、密会を重ねるたび、プレストンの暴力的な仮面の奥にある脆さと葛藤が浮かび上がる。プレストンの本質に触れるたび、ジュールズの心にもまた説明のつかない感情が芽生え始める。待ち受けるのは復讐か、それとも──。
(公式サイトより抜粋)
ヘイトクライムへの復讐?
公式サイトの「ストーリー」欄にほとんどすべてが書かれてしまっているような気もする。かなりネタバレしているようなものなのだが、それでも設定そのものがスリルがあるものになっているからか、ネタはわかってはいてもサスペンスもあって観客の興味を最後まで引っ張っていく。
主人公のジュールズ(ネイサン・スチュアート=ジャレット)はドラァグクイーンとして、ナイトクラブではスターだったのだが、ある夜、タトゥーだらけの男プレストン(ジョージ・マッケイ)と出会い、トラブルになりボコボコにされてしまう。LGBTQに対する偏見がもたらすヘイトクライムということになるだろう。
ジュールズはその出来事にショックを受け、引きこもるような日々を過ごすことになる。ところがある日、いわゆるハッテン場でプレストンと再会する。実はプレストンもゲイだったのだ。プレストンは素顔のジュールズの正体には気づいていない。ジュールズはプレストンに近づき、復讐を果たすことを考え始める。
二人の関係はどちらにとっても危なっかしいものを孕んでいる。ジュールズからすれば一度トラブルになったドラァグクイーンだということがバレたら、復讐という意図に気づかれてしまうことになる。一方でプレストンは周囲には自分がゲイであるということを隠している(いわゆる“クローゼット”と呼ばれる状態)ため、ジュールズとの関係自体を秘密にしておきたいところがある。それでもプレストンは周囲の仲間たちとの関係も密接だから、それもなかなか厄介なことになる。

© British Broadcasting Corporation and Agile Femme Limited 2022
それぞれの仮面
プレストンは仲間内でもヤバいヤツとして通っている。キレさせたら怖いという評判なのだ。しかしジュールズがプレストンに近づき、次第に親密になってくると、別の側面も見えてくる。お気に入りのステーキハウスでのプレストンの態度は、とても親切でいつもの仲間と一緒の時とは別人のようでもある。
要はプレストンが仲間の中でイキがって見せているのは、自分の本当の姿を隠すためだったということだろう。本当はゲイであるにもかかわらず、それを隠すために男らしさの仮面をつけているということになる。このことに関してはそれほど珍しいことではないのかもしれない。
私にとって意外だったのは、ジュールズにとっての仮面のことだ。ジュールズにとっての仮面というのは、ドラァグクイーンとしての顔ということになる。
このあたりはLGBTQ当事者の人にとってはもしかしたら当たり前のことなのかもしれないけれど、当事者ではない者にとっては意外なものと感じられるということなのかもしれない。
本作の公式サイトには「インタビュー映像」として、監督二人がそのあたりについても解説してくれてもいて、当事者ではない人にも理解しやすくなっている。
プレストンは自分のセクシュアリティを隠すために男らしさの仮面をつけることになったけれど、一方でジュールズは自分のそれを積極的に主張するため、ドラァグクイーンという仮面が必要だったということになる。方向性は正反対でも、どちらも仮面を必要としているという点では同じだったのだ。
ドラァグクイーンという存在がなぜあんな奇妙に誇張された姿をしているのかということを考えたこともなかったけれど、一種の戦闘服のようなものだったのかもしれない。だからドラァグクイーンの仮面を剝がされたジュールズは妙に弱々しくなってしまったようにも見えるのだ。

© British Broadcasting Corporation and Agile Femme Limited 2022
主従関係の変化
プレストンと復讐のために彼に近づいたジュールズの関係は、「悪い男に服従したいんだろう?」という台詞に端的に示されている。プレストンが圧倒的に支配者であって、ジュールズがそれに服従する形になっている。ジュールズは何でもプレストンの言われるがままになっているのだ。
ジュールズの復讐の方法は、いわゆるリベンジポルノというヤツだ。二人がセックスしている動画が世の中に出回れば、クローゼットであるプレストンにとっては身の破滅になる。しかし証拠となる動画を撮るためには、ジュールズはもっとプレストンに近づかなければならない。そのためにジュールズは恐怖を抑えてプレストンに近づいていく。最初のデートの時に、ジュールズがナイフをポケットに忍ばせていたのは、復讐のためというよりは自分の身を守るためだったんじゃないだろうか。
ところが、そうした主従関係が逆転する時がやってくる。それはジュールズがプレストンの仲間たちとの対等な関係を築き上げた時だ。これにテレビゲームが関わってくるのがちょっと面白い。ジュールズは彼らとゲーム『ストリートファイター』に興じ、春麗のキャラでほかの男たちをなぎ倒し、彼らから受け入れられることになるのだ。
プレストンはいかにも粗野な男たちの中である種の地位を確立するために、キレたらヤバい暴力的な男性像を演じているところがあったわけだが、ジュールズは別の方法でそれを成し遂げたことになる。これによってなぜか主従関係が入れ替わる。「悪い男に服従したいんだろう?」という台詞は、まったく逆のパターンで二度繰り返されることになり、二人の関係がひっくり返ったことが示されるのだ。
※ 以下、ネタバレもあり! 結末にも触れているので要注意!!

© British Broadcasting Corporation and Agile Femme Limited 2022
復讐か? 赦しか?
それでは『FEMME フェム』の結末はどうなったのか? 予告編などでもすでに示されているように、「復讐か、赦しか」ということになるだろう。
本作の二人の関係は『パワー・オブ・ザ・ドッグ』を想起させるものがあった。私は本作のプレストンの周囲の男たちのことを「粗野な男たち」と記していたけれど、『パワー・オブ・ザ・ドッグ』に倣えば、彼らは“有害な男らしさ”に染まった集団ということになるのかもしれない。プレストンはそうしたものに絡め取られているのだ。
『パワー・オブ・ザ・ドッグ』では、ある青年が母親のために復讐を果たすことになる。その青年がターゲットの男に近づくために自分をエサとしているあたりも、本作のプレストンとジュールズの関係とよく似ている。ただ、結末は異なっている。
『パワー・オブ・ザ・ドッグ』では青年は復讐をしっかりと成し遂げることになるけれど、『FEMME フェム』の場合はそれは中途半端な形に終わったとも言える。ジュールズはプレストンとの関係が逆転した時に、リベンジポルノのネタとなる動画を撮ることに成功する。しかしそれをネット上にアップロードすることはできなかったのだ。
それでもジュールズはドラァグクイーンとして復活し、ステージ上でプレストンとの出来事をネタにしていた。ドラァグクイーンという仮面をつけることで、かつてのような攻撃的な自分を取り戻すことができたということなのだろう。ただ、そのステージをたまたまプレストンが見ることになってしまい、ラストで二人は再びぶつかり合うことになる。
ジュールズが動画をアップロードしなかったのは、プレストンが「気の毒」に思えたからなのだという(この言葉は酷くプレストンを打ちのめしたように見える)。なぜ「気の毒」なのかと言えば、プレストンは未だにクローゼットとして生きているからだろう。それはプレストンが彼自身にとって不自然なものを抱え込んでいることでもあるのだ。一方でドラァグクイーンの仮面をつけて自分のセクシュアリティについて世間に明らかにしているジュールズからすれば、それは同情すべきような状態だったということなのだろう。
ただ、それだけでもないのかもしれない。というのは、ジュールズはプレストンに復讐をするつもりではあったけれど、そもそもは互いに惹かれ合っているところもあったわけで、単に復讐心しかない『パワー・オブ・ザ・ドッグ』とは関係性が異なっているからだ。ラストのパーカーのエピソードは『ブロークバック・マウンテン』のラストとそっくりな気もして、やはりジュールズとプレストンの関係にも、『ブロークバック・マウンテン』の二人と同様のものがあったということを示しているようでもあった。
最初にも書いたけれど、予告編などでほとんどネタバレしているけれど、それでも二人の関係性だけでハラハラさせ最後まで引っ張っていく魅力があった。そこには主演の二人の好演もあっただろう。どちらも仮面の部分と素顔の差をうまく表現していたんじゃないだろうか。
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