監督・脚本は『ロスト・ドーター』のマギー・ギレンホール。
主演は『ロスト・ドーター』や『MEN 同じ顔の男たち』のジェシー・バックリー。
原題は「The Bride!」。
物語
1930年代シカゴ。永い孤独に耐えかねたフランケンシュタインから伴侶がほしいと頼まれたユーフォロニウス博士は、墓から掘り起こした女性の遺体を彼の花嫁《ブライド》としてよみがえらせる。とある事件をきっかけに二人は追われる身となるが、不条理で腐った世界への怒りをぶち撒けるブライドの姿はやがて、抑圧された人々を奮い立たせ、社会全体を揺るがしていく。果たして、愛と破壊の限りを尽くす逃避行《ハネムーン》の先に二人を待ち受ける運命とは――。
(公式サイトより抜粋)
フランケンシュタインの花嫁
本作はいわゆる「フランケンシュタインの花嫁」を描いた作品だ。「いわゆる」というのは、正確には科学者フランケンシュタインが創造した怪物の花嫁というべきだからだが、まどっろこしいからそういう言い方になるというわけだ。
「フランケンシュタインの花嫁」を描いた作品としては、タイトルもそのままに『フランケンシュタインの花嫁』という作品がある。これはボリス・カーロフが怪物役を演じた『フランケンシュタイン』の続編として製作されたものだ。ところがこの作品では「フランケンシュタインの花嫁」は最後にちょっとだけしか登場しない。
監督・脚本のマギー・ギレンホールとしては、それだけではもったいないと感じたということなのか、新たに「フランケンシュタインの花嫁」を生き直させてみようと考えたということらしい。それが『ザ・ブライド!』という作品なのだ。
本作の構成はなかなか複雑で、劇中には原作者であるメアリー・シェリーが登場する。そのメアリーは1850年代に亡くなっているのだが、この世に未練を残しているようで1930年代のアイダという女性に憑りつくことになる。このアイダが亡くなり、のちに「フランケンシュタインの花嫁」となる。
一方で1930年代のシカゴにフランケンシュタインと名乗る怪物が現れる。彼は自分の創造主であるフランケンシュタインの名前を名乗り、フランク(クリスチャン・ベール)と呼ばれることになる。彼がシカゴに現れたのは、ユーフォロニウス博士(アネット・ベニング)に会うためだ。マッド・サイエンティストであるユーフォロニウス博士なら自分の求める花嫁を作ることができるとフランクは考えたというわけだ。そんなふうにしてブライドと呼ばれる「フランケンシュタインの花嫁」が誕生することになるのだ。

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身体を借りて声を届ける
メアリーが憑依することになるアイダ。そしてアイダは蘇ってブライドとなるわけだが、この3人は全部ジェシー・バックリーが演じることになる。劇中ではアイダは「一つの身体に二つの魂」と言われていたけれど、ブライドは「一つの身体に三つの魂」が存在しているような状態ということになる。
メアリーがアイダに憑りついたのには、アイダがもともとメアリーと同じような怒りを抱えていたからなのだろう。アイダはマフィアのボスが女たちを黙らせることを快く思っていなかった。
このボスは黙らせたい女性の舌を本当に抜いていたのだ。これはこの時代の女性たちが声を奪われていたということを示している。アイダがそんな男性優位の社会に怒りを抱いていたからこそ、メアリーはそれに憑りつくことになり、さらにはブライドにも憑依して自分の声を届けることになっていく。
メアリーがアイダ=ブライドの身体を借りて自分の声を届ける。この構図は『ザ・ブライド!』という作品自体の構図とも重なってくる。本作は監督であるマギー・ギレンホールが、メアリー・シェリーというキャラを借りて自分の声を観客に届けるという構図になっているからだ。
メアリー・シェリーという人がどんな人物だったのかについては『メアリーの総て』という映画にも描かれていた。この作品ではメアリーは女性が置かれている立場に怒りを感じている女性として描かれていた。恐らく実際のメアリーもそんな人物だったのだろう。ちなみにメアリーの母親はフェミニズムの創始者とも呼ばれる人物でもあったのだ。
そして、そんなメアリーを作中に呼び出してくるマギー・ギレンホールはすでに『ロスト・ドーター』という作品で女性の生き方というものに疑問を呈していた。この作品の主人公は女性は「好きに生きるべき」と言いながらも、そんな自分の言葉に迷いも感じている。
メアリー・シェリーもマギー・ギレンホールも女性がどんなふうに生きるべきかという点に興味を抱いていたという点で、ふたりには共通しているものがあるのだ。

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抵抗する女性
ブライドはアイダであった頃の記憶を失っている。フランクはそこにつけ込んだ形で、アイダが事故に遭って記憶を失ったけれど、自分の花嫁になるはずだったと信じ込ませることになる。
ただ、ブライドという女性はそう簡単に人に操られるような存在ではないようで、パンクな彼女にフランクが振り回される形になっていく。ブライドは自ら「抵抗する女」だと称していたけれど、世間が押し付けてくるようなものをぶち壊すような生き方をしていくことになる。
本作は最終的にはフランクとブライドが『俺たちに明日はない』的な逃避行へと行きつくことになっていくけれど、それはフランクが望んだものというよりはブライドが積極的に選び取ったものということになっている。もともとはフランクが花嫁を望んだわけだけれど、それは一度は御破算になり、新たにブライドが主導権を握っていくことになるのだ。
パンクなブライドが暴れ回る。それが声を奪われていた女性たちの偶像(アイドル)となっていくというあたりは『ジョーカー』のそれを思わせる。女性たちに対して「奮起しろ」といったメッセージを贈るというのが本作の意図ということなのだろう。
それは悪くはない気もするのだが、本作には結構いびつなところがあったと思う。あまり評判がよくないミュージカルシーンについては、個人的には何だか意味不明で楽しめた。踊り始めるのも唐突なのだが、なぜそれに周囲が呼応しているのかもわからぬままに、まるでブライドに操られているみたいに踊り出すところが奇妙だったのだ。
こんなふうにわけのわからない力技で押し切ろうというところがあるかと思えば、本作ではメアリーの声が突如して侵入してきて小難しいことを言い出したりする。そのあたりがアンバランスだった気もするのだ。

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拒否の姿勢
メアリーが憑依すると饒舌になりすぎて何を言っているのかがよくわからないところもある。メアリーの頭の良さみたいなのが玉に瑕とも言え、時に頭でっかちになっているのだ。
ブライドはフランクもその語彙力に驚嘆するほどで、何だかわからないけれど韻を踏みながらわけのわからないことを言って煙に巻くみたいなところがある。そんな頭でっかちなところがよく表れているのが、「そうしないほうが好ましい」という言い方だろう。
これに関しては劇中でもメルヴィルという名前が挙げられていたけれど、「バートルビー」という短編小説に出てくるフレーズとして有名なものだ。英語で記すと「I would prefer not to」で、劇中の英語の台詞がそんな発音になっていたかはわからないけれど、わざわざメルヴィルの名前を出しているわけだから、「バートルビー」を意識していることは確かだろう。
このフレーズは「拒否の姿勢」を示したものとされる。この「バートルビー」という短編では、バートルビーはそう言って仕事を拒否し続けるだけとも言える。そんなふうにわけがわからない作品ではあるのだけれど、この小説を巡っては有名な現代思想家たちがこぞって考察を繰り広げるような作品になっているのだ。
ブライドはフランクの伴侶が欲しいという欲望によって誕生させられたわけだ。それでもそうしたフランクの目論見に従うような従順さはブライドにはない。その「拒否の姿勢」を「そうしないほうが好ましい」という不思議な言い方で示していたというわけだ。
ただ、バートルビーは書写の仕事をしている寡黙で生気に欠けた男という設定で、だからこそ「そうしないほうが好ましい」といった言い方になっているわけだけれど、パンクなブライドがそんな言い方をするのが相応しいのかと言えば疑問に感じなくもない。小難しい現代思想家の考察へと結び付けたかったのかもしれないけれど、ハチャメチャなブライドとの相性がよくなくてチグハグな感じになってしまっているようにも感じた。
それから女性の奮起というテーマからすれば、ペネロペ・クルスが演じた女性警部の存在はわからなくもないけれど、ジェイク・ギレンホールが演じたロニーというキャラは必要だったのだろうか。一応はフランクの永い孤独の時間を支えたのがロニーということになっているし、ミュージカルシーンを導くために必要だったのかもしれないけれど、ブライドという主人公の側からすると寄り道みたいなものにもなっていて全体的なまとまりに欠ける気もした。監督のマギー・ギレンホールとしては、弟のジェイクと一緒に仕事をしたかったという想いもあるのだろうけれど……。



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