原作はつげ義春の短編漫画「海辺の叙景」と「ほんやら洞のべんさん」。
監督は『夜明けのすべて』の三宅唱。
主演は『ブルーアワーにぶっ飛ばす』のシム・ウンギョン。
物語
強い日差しが降り注ぐ夏の海。浜辺にひとりたたずんでいた夏男は、影のある女・渚と出会い、ふたりは何を語るでもなく散策する。翌日、再び浜辺で会った夏男と渚は、台風が接近し大雨が降りしきるなか、海で泳ぐのだった……。とある大学の授業で、つげ義春の漫画を原作に李が脚本を書いた映画を上映している。上映後、質疑応答で学生から映画の感想を問われた李は、自分には才能がないと思ったと答える。冬になり、李はひょんなことから雪に覆われた山奥を訪れ、おんぼろ宿にたどり着く。宿の主人・べん造はやる気がなく、暖房もまともな食事もない。ある夜、べん造は李を夜の雪の原へと連れ出す。
(『映画.com』より抜粋)
つげ義春漫画の映画化
『旅と日々』はつげ義春漫画の映画化だ。つげ義春の漫画には熱狂的なファンがいるらしい。だからこそということなのか、つげ義春作品の映画化は昨年の『雨の中の慾情』に続いてということになる。つげ義春原作というだけでもある程度の集客が認められるということなのかもしれない。
本作は短編の「海辺の叙景」と「ほんやら洞のべんさん」の2つを映画化したものだ。原作漫画を読んでいないのでどこまで原作に沿っているのかはわからないけれど、2つの作品をメタフィクションの形でうまく結びつけている。
本作の主人公・李(シム・ウンギョン)は脚本家だ。李が書いた脚本を映画化した作品として、まずは「海辺の叙景」が劇中劇として登場する。それが本作の第1章ということになる。
そして、その上映後のティーチインに登場した李は、学生から感想を求められて「自分には才能がない」と正直に答えてしまう。そんな李がスランプ打開のために旅に出るところから第2章がスタートすることになるのだ。

©2025「旅と日々」製作委員会
世界と言葉との関係
この第1章と第2章のつながりの部分が恐らく原作にはない部分であり、そこは三宅唱監督が脚本を書いたオリジナルの部分ということなのだろう。ここでは「世界と言葉との関係」について触れられている。
人が最初に世界に対して感じたことはどんなことだったのだろうか? それは「名状しがたい何か」ということだろう。しかし、「名状しがたい」ものをうまく人に伝えることは難しい。それを伝えるために、人は何かしらの言葉を探すことになる。そうやって言葉にすると、世界はよりクリアになっていく。
ちなみに主人公の李は日本で活躍している脚本家だが、もともとは韓国出身という設定だ。これは李を演じているシム・ウンギョンのことでもある。李の母国語は韓国語だから、彼女は脚本をハングルで書いている。李が日本人ではなく、韓国から来た外国人であることが、さらに世界と言葉の関わりを意識させることになっているのだ。
李が最初に日本に来た時には、慣れない場所で言葉の違いもあって戸惑ったようだ。しかし、日本語を覚え、それを話せるようになってくると、そうではなくなってくる。これも先ほど記したように、「名状しがたい」ものをうまく伝えられるようになって、世界がクリアになったことを示すのだろう。
しかしながら、それは言葉に囚われることでもあるのだという(劇中では「言葉の檻の中にいる」という言い方をしている)。そんな言葉のくびきから逃れるためにすることが、旅に出ることになるのだ。
ラストで真っ白な雪の上にタイトルが登場する本作。私は勝手に本作を「旅の日々」と勘違いしていたのだが、実際には「旅と日々」というタイトルだった。
「日々」というのは「日常」のことであり、「旅」というのが「非日常」ということになるだろう。

©2025「旅と日々」製作委員会
言葉を映像にすること
先ほどは世界をクリアにするために言葉を使うと記した。人が世界に対して抱いた感覚を、言葉に置き換えるという作業だ。これに対して、脚本を映像化する時に起きていることは、先ほどとは逆のこととも言えるのかもしれない。
李はノートに「車の後部座席で女が目を覚ます」と記す。そうすると、それを映像化したものがスクリーンに登場することになる。しかしそこには脚本には書かれていないものが多く映し出されることになる。
車が停まっているのは海沿いの場所で、フロントガラスにも車の外の風景が映り込んでいるようにも見える。車の上には煙のようなものが漂ったりもしている。そして、車の中には河合優実が演じる渚という名前の女が存在している。
「車の後部座席で女が目を覚ます」という文章が示すものは、映像化されるもののごくわずかな部分に過ぎないということになる。しかしそんなふうにして脚本の言葉は映像化されていくということになる。
李が自虐的に「自分には才能がない」などと語ったのは、この脚本と映像との関係を意識してのものだったのかもしれない。それから李は旅に出て、ある宿屋でべん造という男に出会うことになるのだ。

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五感に訴える映画
劇中で佐野史郎演じる批評家らしき魚沼が「海辺の叙景」に関して語ったことが、本作にもそのまま当てはまるだろう。本作は、頭で考えるというよりも五感に訴えるような映画だということだ。
第1章の「海辺の叙景」は夏の海を舞台にしていて、海のブルーが基調となっている。そこに登場する渚もブルーの服を着ていて、スカートはいつも風になびいている(河合優実のエロスも、観客の五感あるいはそれ以外の何かに働きかけているだろう)。
一方で第2章の「ほんやら洞のべんさん」は雪国が舞台となっている。山深い温泉街で、辺り一帯はすべて雪に覆われていて白が基調になっている。
ちなみに冒頭は恐らく東京のどこかの街なのだと思うのだが、そのビル群が映されている。この冒頭は本作のスクリーンサイズがスタンダードということもあって、妙に窮屈な感じがする。そして、その街のどこかにいる李がいる。李は部屋にこもってノートに向っている。あれこれ頭を悩ませながら言葉をひねり出そうとしているわけだが、脚本家の「日常」というものはそんなものだろう。
しかし旅に出ると、一気にスクリーンが活気づいてくる。「海辺の叙景」は海辺の街にやってきた渚が主人公だ。彼女はその知らない街をそぞろ歩くことになる。ここでは森の木々が風にざわめく様子がとても印象深い。『マクベス』では魔女が「森が動き出さない限りは(マクベスは)安泰だ」などと予言したりするけれど、本作の森はまるで生きているかのように動いているのだ。
そして、渚は夏男(髙田万作)という青年と出会う。二人は何をするでもなく、海を見ながら会話をする。海が見える丘の上での長い会話では、太陽が沈んで夜になっていく時間を体感させてくれることになる。
「ほんやら洞のべんさん」では、雪国の寒さも感じられる。第2章の始まり前にはしばらく暗転するシーンがあり、そこからトンネルを抜けると雪国へと世界が変わる。
べん造(堤真一)の経営する宿屋は、藁ぶき屋根で囲炉裏のある昔ながらの住宅で、とても快適とは言い難い。李はそこで脚本を書こうとしているのだが、窓からは雪が吹き込んできたりするほどで、会話をする度に息が白いからその寒さが伝わってくることになるのだ。

©2025「旅と日々」製作委員会
李は旅で何を得たのか?
物語として劇的なことがあるわけではない。「海辺の叙景」も「ほんやら洞のべんさん」のどちらも、主人公が見知らぬ土地で見知らぬ人に出会うだけとも言える。先ほどは旅は「非日常」と記したけれど、それほど突飛なことが起こるわけではないのだ。
「海辺の叙景」の渚は、台風が接近している海で水着になって泳ぎ出す。それに釣られる形で夏男も海に入るけれど、高波にさらわれるように彼はどこかへ消えていってしまう。
「ほんやら洞のべんさん」の李は、ひょんなことからべん造の盗みの片棒を担ぐことになってしまう。べん造の元妻の家から錦鯉を盗み出したのだ。李はその件で警察に取り調べられたりもするけれど、久しぶりに楽しかったのだという。高値で売るはずの錦鯉は寒さで凍ってしまったけれど……。
李は普段なら会うこともないべん造と出会い、何かしらリフレッシュしたらしく、清々しい顔で旅から「日常」へと戻ることになる。とても呆気ない幕切れだ。体感時間としてもあっという間というイメージだったけれど、実際の上映時間も90分に満たない小品でもある。それでもHi’Specのやさしい音楽と相俟って、とても心地いい時間を過ごせたと思う。
旅の「非日常」というものはそれほど感じなかったけれど、佐野史郎が双子役として登場するエピソードには一体何が起きたのかと目を疑った。死んだ魚沼の遺影の次のカットで、その魚沼とそっくりの双子が登場するというギミックだったわけだけれど、『ゲンセンカン主人』でも主人公を演じていた佐野史郎の存在こそが、観客を「非日常」へと誘うアイテムみたいになっているところが面白い。
私が観ることのできた三宅唱の映画には毎回原作がある。その原作に合わせる形ということなのか、毎回違うことをやっているようにも感じられる。前作の『夜明けのすべて』は物語的にも感情的にもピッタリとくるところがあってとても大好きな作品になったけれど、本作は前作とは違った挑戦をしているようで、これまた別の良さがあったんじゃないだろうか。







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