『雨の中の慾情』 アレは必然か?

日本映画

原作は『ねじ式』などのつげ義春の短編漫画。

監督・脚本は『さがす』などの片山慎三

主演は『くれなずめ』などの成田凌

物語

貧しい北町に住む売れない漫画家の義男は、アパート経営のほかに怪しい商売をしている大家の尾弥次から、自称小説家の伊守とともに引っ越しの手伝いに駆り出される。そこで離婚したばかりの福子と出会った義男は艶めかしい魅力をたたえた彼女にひかれるが、彼女にはすでに恋人がいる様子。伊守は自作の小説を掲載するため、裕福な南町で流行っているPR誌を真似て北町のPR誌を企画し、義男がその広告営業を手伝うことに。やがて福子と伊守が義男の家に転がり込んできて、3人の奇妙な共同生活が始まる。

『映画.com』より抜粋)

つげ義春の短編漫画から

本作は『無能の人』(本作にも出演している竹中直人監督作)や『ゲンセンカン主人』など、90年代に話題となった映画の原作者としても知られているつげ義春の短編漫画を原作としている。私自身は原作漫画を読んでいるわけではないのだが、いくつかの短編作品のエピソードをまとめあげる形で長編映画にしているということらしい。

冒頭で描かれるエピソードは、「雨の中の慾情」という短編をそのまま映像化したものということになるらしい。

ここでは雨の中のバス停で雨宿りをしている女と男がいる。どしゃ降りの雨だけではなく稲光が周囲を襲い、女は男から「金属の物は捨てたほうがいい」と言われ、二人は次々と服を脱いでいく。下着姿になってもブラジャーのホックが危険などと言われ、女はそれも外すことになる。最終的には二人は素っ裸で田んぼの中で情事に及ぶ。事も終わって雨も上がり、二人は汚れた身体を滝の水で洗っていると、そこには虹が浮かび上がっている。

このエピソードは主人公・義男(成田凌)の夢だったということになる。夢オチだが観客を映画の世界に引き込むには十分すぎる強烈さだった。

原作者・つげ義春を思わせる義男という男も漫画家で、彼はその夢を漫画の原稿として描き上げることになる。その漫画のタイトルが「雨の中の慾情」なのだ。

『雨の中の慾情』は、義男という夢見がちな主人公の現実世界と、夢の世界が混じり合う形で展開していく。義男の現実世界は漫画家として活動している世界で、そこには特別な女性として福子(中村映里子)という女が登場する。

福子は義男の前に裸で登場する。裸で寝ている福子の後ろ姿に慾情した義男は、それに触れようとするのではなく、漫画家らしくその後ろ姿を描くことになり、そのことを目を覚ました福子にからかわれることになる。

福子は小説家志望の伊守(森田剛)という男と付き合っており、伊守は義男が福子に慾情していることを見抜いている。そして、あるトラブルもあって伊守と福子が義男の家に転がり込んできて、奇妙な共同生活が始まることになる。

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©2024 「雨の中の慾情」製作委員会

現実と夢のあわい

本作では、福子がいる世界が現実世界であり、そこにいくつかの夢の出来事が混じり合う形で展開していく。車に轢かれた女に慾情する夢とか、夜の町を見知らぬ女を追いかける夢もあったりする。

夜のシーンでは、虹の色合いともよく似た赤と緑の照明がとても印象的で、淫靡な世界を生み出している。石井隆のロマンポルノ作品の画づくりを思わせるような世界なのだ。

ただ、現実世界も奇妙な世界だ。その町は北と南に分断されていて、両方を行き来することは普通は難しい。義男たちのいる北町は貧しい地域で、南町は裕福らしい。伊守は実は南町の出身で、城のような家に住んでいることが後半明らかになる。

この城のような豪邸のシーンは舞台そのものがシュールなのだが、これは台湾ロケで見つけた場所ということなのかもしれない。それから南町では海沿いの風景が登場するのだが、そこは『1秒先の彼女』『熱帯魚』の台湾の監督チェン・ユーシュンが好んで描く海岸を思わせる風景だった。

謎だったのは「つむじ風」と呼ばれるもので、義男の大家である尾弥次(竹中直人)と呼ばれる人物は、子どもたちを驚かせてその頭皮から何らかの液体を採取している。それが南町ではとても高く売れるのだという。古臭い昭和風の世界に見えていて、実は日常からちょっとズレた不思議な世界になっているのだ。

※以下、ネタバレあり! ほかの作品のネタバレもあるので要注意!!

©2024 「雨の中の慾情」製作委員会

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アレは必然的なもの?

先ほど私は福子がいる世界が現実世界だと記したけれど、それがあやしくなってくるのが中盤以降だ。というのは唐突に戦争のシーンが混じり込んでくるからだ。とはいえ、それは予告されてもいた。伊守が南へと帰っていく場面は、なぜか伊守が兵隊の姿になっていたからだ。

中盤以降はこの戦争の場面が大きな割合を占めていく。かなりの長回しで撮ったと思しき戦場のシーンはなかなかインパクトがあったけれど、なぜ戦争が導入されてこなければならないのかはよくわからなかった。

この戦争は日本が中国で行った戦争のことが想定されているのだろう。ここでは義男も兵士のひとりで、伊守はその同僚ということになっている。しかも義男が通っていた娼館には中国人の福子がいる。

そうなると福子がいた世界が現実であると記したことは間違いだったということになる。中国の娼館で親密になった福子を、幻想として思い描いていたのが前半部ということになるのだ。

ただ、その事実が明らかになってからも映画は続き、北町での福子との生活や戦場で酷いケガをするエピソードなどが描かれ、それが何度もしつこく繰り返されることになり、正直に言えば何を観ているのかよくわからなくなっていく。

©2024 「雨の中の慾情」製作委員会

片山慎三監督が本作の参照先として挙げているのが、エイドリアン・ライン監督の『ジェイコブス・ラダー』だ。

『ジェイコブス・ラダー』は、ベトナム帰還兵の主人公が戦争のトラウマに苦しむ話として進んでいく。ところがそれは最後に一変する。実はベトナムで生死の境を彷徨っていた主人公が、一種の走馬灯として見たものが、前半部分で描かれていたニューヨークでの日常生活だったのだ。長い長い走馬灯があり、主人公はベトナムで死ぬことになるのだ。

『雨の中の慾情』もそれを意識しているということらしい。それでも『ジェイコブス・ラダー』のほうはベトナム戦争が描かれるのは必然的だし、走馬灯が主人公にもたらすものにも重要な意味がある。

それに対して本作の場合は、戦争が描かれる必然性があまり感じられなかった。つげ義春は戦争に行っていたわけではなさそうだし、原作にも戦争のエピソードはないようだ。短編作品をひとつにまとめるための枠物語として、戦争が用意されただけのようにも感じてしまったのだ。

もちろん開巻劈頭に用意されたサルの交尾や核実験映像のモンタージュにもあるように、人間の慾情が性的なものとして顔を出すこともあるし、戦争のような暴力という形になることもあるのかもしれないけれど……。

冒頭の短編「雨の中の慾情」はとてもよかったし、現実と夢が曖昧になっていき、義男と福子が日の光の下で情事に耽るシュールなシーンなど見どころも多いのだけれど、後半がしつこかったのがマイナスになっている気がした。

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