『たしかにあった幻』 愛とは?

日本映画

監督・脚本は『朝が来る』河瀨直美

主演は『ベルイマン島にて』ヴィッキー・クリープス

物語

フランスから来日したコリーは、神戸の臓器移植医療センターで働きながら、小児移植医療の促進に取り組んでいたが、西欧とは異なる日本の死生観や倫理観の壁は思った以上に厚く、医療現場の体制の改善や意識改革は困難でもどかしい思いを抱えていた。そんなコリーの心の支えは、屋久島で運命的に出会った恋人の迅だったが、彼の誕生日でもある7月7日の七夕に突然、姿を消してしまう。一年後、迅が失踪するはるか前に彼の家族からも捜索願が出されていたことを知ったコリーは、迅の実家である岐阜へと向かう。そこで明かされた事実から迅との出逢いが宿命的だったことがわかり愕然とするコリー。一方、心臓疾患を抱えながら入院していた少女・瞳の病状が急変するが・・・。

(公式サイトより抜粋)

2つのテーマ

予告編を観ると、『たしかにあった幻』では2つのことがテーマとなっていることがわかる。ひとつは【失踪】で、もうひとつが【臓器移植】だ。【失踪】については「日本では年間約8万人もの人が行方不明になっている」とされ、【臓器移植】については「日本は先進国の中でドナー数が最下位である」という情報が提示される。すぐには結びつかないこの2つのことが、一体どんなふうにつながってくるのだろうか。そんな疑問が沸くかもしれない。

その疑問に対する答えはすぐには出てこない。本作は河瀨直美監督のいつものやり方で、ドキュメンタリー的な手法を交えて展開していくことになる。どの部分がドキュメンタリー的な手法を用いているのかはあまり見分けがつかない。河瀨監督のこれまで培ってきた手腕もあって、フィクション部分とドキュメンタリー的な手法を用いている部分はうまくつながっているからだ。

恐らく、臓器移植の手術場面や、会議でのやり取りなどにはドキュメンタリー的な手法が取り入れられているのだろう。そして、臓器移植のレピシエント側(臓器を受け取る側)とドナー側(臓器提供者)の個々の事情に触れる場面や、コリーという主人公のプライベートの部分はフィクションとして描かれていくことになる。

©CINÉFRANCE STUDIOS – KUMIE INC – TARANTULA – VIKTORIA PRODUCTIONS – PIO&CO – PROD LAB – MARIGNAN FILMS – 2025

日本における臓器提供

コリー(ヴィッキー・クリープス)はフランスからやって来て、神戸の臓器移植医療センターで働いている。コリーがなぜ日本にやってきたのかはわからないけれど、文化的な差異に戸惑いながら働いている。

予告編にもあったように、日本のドナー数は先進国の中では最下位で極端に少ない。そのため臓器を待つレピシエントは、待機状態のまま狭い病室に留め置かれることになる。本作では特に子どもたちがレピシエントになっているため、それに付き添うことになる家族の負担も大変だ。ゴールがどこにあるのかもわからぬまま、延々と待ち続け、そのまま亡くなってしまう子どももいるのだ。

日本で臓器提供が進まないのは、それに対する理解が進んでいないからだとされる。日本では、脳死は限定的にしか「死」として認められない。臓器提供する場合に限って、脳死という「死」が認められるけれど、それ以外は「死の三徴候」により医師が死亡を診断することになる。脳死が「死」として認められている国とは、そういうところからして異なっているのだ。

「人の臓器を奪ってまで生きたいのか」といった世間の声もあったりするからか、臓器を提供される側はどうしても罪悪感みたいなものを抱いてしまうことにもなる。そこには日本の文化的な特性というものもあるのかもしれない。

コリーは臓器提供が盛んなスペインでそれを学んできたということもあり、「彼我の差」に戸惑うことになる。脳死というのは不可逆的なもので、その状態ではおよそ10日もすれば心停止に到るとされる。どうやってもそこからの回復は不可能とされるわけで、それならばその臓器を必要とされる人に提供してもいいんじゃないか。臓器提供というのはそうした合理的な考えに基づいているのだろう。しかし日本ではまだそうした考えが根付いていないのだ。

©CINÉFRANCE STUDIOS – KUMIE INC – TARANTULA – VIKTORIA PRODUCTIONS – PIO&CO – PROD LAB – MARIGNAN FILMS – 2025

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家族の決断という共通点

上記の【臓器提供】に関するエピソードは、コリーの仕事の側面を描きつつ日本における臓器提供の問題を整理しているわけだが、一方でコリーにはプライベートな生活もある。【失踪】についてのエピソードは、そのプライベートな部分に関わってくる。

コリーは3年ほど前に、屋久島で不思議な男性と出会う。その男性が迅(寛一郎)だ。二人は屋久島で出会い、それから迅が神戸のコリーのところへ転がり込んできて同棲生活が始まる。1年ほどはそうした生活が続くものの、迅はある日突然姿を消してしまうことになるのだ。

この【臓器提供】と【失踪】は、まったく関係がないエピソードだ。一方はコリーの仕事の話で、もう一方はコリーのプライベートな部分であり、特段のつながりはないのだ。とはいえ、脚本も書いている河瀨監督としては、そこにつながりを見出しているということになる。

実は【臓器提供】と【失踪】は、どちらも家族の決断というものが必要になる場面があるのだ。

【臓器提供】の場合、ドナーとなる人は脳死状態ですでに意識がないわけで、その家族が臓器提供に反対すれば、臓器提供はできないことになる。家族はある時点で決断を迫られることになるのだ。自分たちの家族の死を認め、臓器を摘出すること許可するという決断だ。

もう一方の【失踪】の場合はどうか。この場合は、積極的にどこかから決断を求められることはないかもしれない。しかし状況によってはそれが必要になる場合もある。

迅の場合はそういうケースだ。迅はコリーの前から失踪したけれど、それ以前に家族のもとから失踪していたことが明らかになる。迅には複雑な経緯があり、その家の養子だったのだ。ところがその事実を知ってしまった迅は、それから失踪したらしい。家族は必死になって迅のことを捜したものの、結局見つからず、その後、次男が家を継ぐ形になり、孫も産まれた。

そうなると迅の存在は厄介なことになってしまう。迅はもちろん今さらそこに戻るつもりはなくとも、次男たち家族のことを思えば、迅に対しては失踪宣告をし、死亡とみなしたほうが安心できるということになったのだ。

【臓器提供】の場合も、【失踪】の場合も、どちらも家族がその一員の死を自分たちで決めなければならないというわけで、その点でこの2つのテーマは結びつくのだ。

とは言うものの、かなり遠回りな気がするし、自分の家族を本当に死に追いやることになる臓器提供と、手続き上の死でしかない失踪宣告が同じなのかと言うと、疑問を感じざるを得ないだろう。本作を観ていても、結局2つのテーマがうまく結びついているように感じられず、そこが最後まで違和感として残ったのだ。

©CINÉFRANCE STUDIOS – KUMIE INC – TARANTULA – VIKTORIA PRODUCTIONS – PIO&CO – PROD LAB – MARIGNAN FILMS – 2025

愛とは個の喪失である

そもそも『たしかにあった幻』は失踪のエピソードが先にあったようだが、2つのテーマを据えたせいで、どっちも中途半端になってしまったような気もする。

河瀨作品の中にはたとえば『2つ目の窓』のように、“生命の連鎖”みたいなものを感じさせる作品がある。臓器提供はそうしたものとつながってくるだろう。ドナーは死を迎えることになるけれど、臓器というものがレピシエントの生をつなぎとめることになるからだ。もっと臓器提供の話を拡大したほうがよかったのかもしれない。

本作では日本における臓器提供の問題をコンパクトに整理している。とはいえ、日本の特殊性に同情的なのか、もっと先進国並みに臓器提供を進めたいのかという点では、どちらに肩入れするとも言えないようなニュートラルな立場にも思えた。

“生命の連鎖”という点からすれば、「もっと臓器提供を積極的に」という方向に展開してもよかったのかもしれないけれど、そこまでは踏み込んではいなかった気がするし、日本の文化的な事情を分析するわけでもないように見えた。

ごくごく個人的な感想を言えば、人のためとはいえ臓器提供をするということ自体に抵抗というものを感じてしまう。死んだら何も感じないとはいえ、自分の身体を切り刻まれること自体がイヤだし、家族がそうされるのも気持ちいいものではない。これは儒教的な「身体髪膚これを父母に受く」といった考えが染みついているからなのだろうか(中国のドナー数もあまり多くはないらしい)。だからこそ、本作は冒頭に「愛とは個の喪失である」などという博愛精神を思わせる言葉が刻まれているのかもしれないけれど……。

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