原作は『怒り』などの吉田修一。
監督は『怒り』などの李相日。
主演は『ぼくが生きてる、ふたつの世界』の吉沢亮。
物語
後に国の宝となる男は、任侠の一門に生まれた。
この世ならざる美しい顔をもつ喜久雄は、抗争によって父を亡くした後、
上方歌舞伎の名門の当主・花井半二郎に引き取られ、歌舞伎の世界へ飛び込む。
そこで、半二郎の実の息子として、生まれながらに将来を約束された御曹司・俊介と出会う。
正反対の血筋を受け継ぎ、生い立ちも才能も異なる二人。
ライバルとして互いに高め合い、芸に青春をささげていくのだが、多くの出会いと別れが、運命の歯車を大きく狂わせてゆく…。
(公式サイトより抜粋)
3時間の超大作
吉田修一の原作で、李相日監督というコンビは実に3作目。『悪人』、『怒り』ときて、本作『国宝』だ。この組み合わせだけでもそれなりに話題になるわけだけれど、本作は3時間の大作ということで邦画では珍しいかもしれない。
正直、最初はそれほど期待していたわけではない。3時間という長尺はそれだけでちょっと尻込みするところがあるからだ。それでも観始めてしまえば、そんなことはまったくの杞憂だったようだ。
というのは、やはり歌舞伎というものが題材になっているところも大きいような気もする。本作では歌舞伎の有名な演目のいい場面をダイジェストのような形で見せてくれることになっていて、それだけですでに映える画を持っているのだ。
私自身は歌舞伎について詳しくはないけれど、一度だけ歌舞伎座で誰もが知っているような有名な演目を観たことがある。あまり事情に詳しくない素人が観たとしても、歌舞伎は派手な見せ場があって楽しめるものになっていると思えた。「見得を切る」場面に合わせて大向こうから「待ってました」などと声がかかるという客席とのやり取りも面白く感じた。
素人だけにその芸の出来・不出来などは見当もつかなかったけれど、とにかく多くの一般大衆を魅了するようなエンターテインメントとして歌舞伎を楽しめたのだ。しかも歌舞伎は江戸時代の始めに誕生したわけで、今ほど娯楽の多様性がなかった時代だけに、余計に人気を博すことになったことは容易に推測されるだろう。
映画『国宝』もそうした見せ場がたっぷりと用意されているわけで、3時間という長尺にもかかわらず、それをあまり感じさせないようなエンターテインメント作品になっている。

©吉田修一/朝日新聞出版 ©2025映画「国宝」製作委員会
歌舞伎の舞踏を堪能する
日本で最初の映画は『紅葉狩』だとされている。これは九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎が歌舞伎座で演じた演目を記録したドキュメンタリー作品だ。リュミエール兄弟の世界で最初の映画が発表された4年後の1899年のことだ。
映画というものが誕生し、そのシステムが日本に導入された時、最初の被写体あるいは題材として選ばれたのが歌舞伎だったということになる。
これは歌舞伎の演目というものが記録して保存するに足るものだと認識されていたということなのだろうし、観客の人々の興味を引くことになる題材だと考えられていたからかもしれない。
本作の主人公である喜久雄(吉沢亮)とそのライバルの俊介(横浜流星)は女形だ。それだけに衣装は派手な色合いで見映えがする。しかも早着替えなどもあり、目まぐるしく変化する。さらに、普段は客席からは見えることのない内幕を見せてくれたりもするわけで、面白くないわけがないのだ。
公式サイトによれば、歌舞伎は大きく「時代物(時代劇)、世話物(現代劇)、舞踊」の三つに分類されるとのこと。劇中ではこの中の「舞踏」の演目が多く使われている。
ド派手な連獅子から始まり、コンビで踊る二人道成寺や二人藤娘があり、オーラスには鷺娘という「舞踏」が待っている。これは単純に踊りや舞のほうが、物語がわからなくても入り込みやすいからだろう。煌びやかな女形が華麗に舞う姿はそれだけで映えるというわけだ。

©吉田修一/朝日新聞出版 ©2025映画「国宝」製作委員会
「血筋か、芸か」
物語は喜久雄が子供の頃から始まり、歌舞伎の人間国宝として認められるまでの長きに渡る。もとはヤクザ者の父親(永瀬正敏)の息子だった喜久雄は、余興でやっていた踊りを半二郎(渡辺謙)に見初められ、親を亡くしたこともあって歌舞伎の世界に転がり込む。
そこで喜久雄はライバル関係となる俊介と出会う。二人は対照的だ。一方は、歌舞伎界の御曹司で血筋に縛られた人。もう一方は、何の後ろ盾もなく芸だけでやっていこうとする人。
「血筋か、芸か」ということになるわけだけれど、結局はどちらもそれぞれの足かせにもなっている。血筋によって守られることもあるけれど、それによって俊介は押しつぶされてしまうことにもなる。一方で喜久雄は芸だけでやっていくつもりでも、歌舞伎界の内幕はそうはなってはおらず、芸だけで生きていこうとして辛い目に遭うことになる。
どちらも一度は憂き目を見ることになるわけだけれど、最終的には復活し、二人で『曾根崎心中』をやるところが一つのクライマックスとなっている。二人に与えられた状況と、劇中の男女の因縁が絡み合う形で演出されていて、感動的な場面となっている。
俊介は糖尿病で足を切断しても最後まで舞台に上がり続け、そして喜久雄は芸のためなら悪魔と取引するとまで言って憚らない。何が二人をそこまでさせるのだろうか?

©吉田修一/朝日新聞出版 ©2025映画「国宝」製作委員会
美というものの恐ろしさ
喜久雄には求めているものがあって、それは「ある景色」だとされる。しかし、その景色というものを自分でもうまくは表現できないという。一応は最後にそれらしきものを見つけることになるとも言えるのだが、この景色というものがいわゆる「美」なのだろう。
人間の最高の価値というものを示す言い方として、「真・善・美」などと言うことがある。しかしながら「美」というものはそれほど明確ではないだろう。
「真」というものや「善」ならば、もしかするともう少しわかりやすいかもしれない。しかしながら「美」というものはどうだろうか? 何が「美」で、何が「醜」なのかを判断するものは何なのか。
「真」に対する「偽」や「誤」などや、「善」に対する「悪」ならもっとわかりやすい気もする。それらの対義語は、もとの言葉とはまったくかけ離れたものに思えるからだ。
けれども「美」対する「醜」はどうか? それは人によって様々になるのか、あるいは絶対的な基準があるものなのか?
歌舞伎にしても芸術というものにしても、求めているものは「美」なのだろう。しかし、その「美」の基準は曖昧なのかもしれない。だからこそ芸道を極めるのは難しい。そうであればこそ極めるためには悪魔と取引をしなければならないことになる。
それは歌舞伎の「美」の体現者とも言える万菊(田中泯)の最後の台詞にも表れている。万菊は人間国宝となったものの、粗末な簡易宿泊施設で死んでいく。万菊がそこを選んだのは、「ここには美しいものが何もないから落ち着く」のだと言う。「美」というものに囚われた生き方だったからこその言葉だろう。

©吉田修一/朝日新聞出版 ©2025映画「国宝」製作委員会
犠牲になったのは?
最終的に喜久雄は国宝にまで登り詰めることになる。しかし最後にそんな喜久雄を非難する者が現れる。それが喜久雄の娘(瀧内公美)だ。
京都の茶屋で若い頃に出会った藤駒(見上愛)は喜久雄と娘をもうけたけれど、決して表舞台には出ることがなかった。そして、喜久雄はその娘に悪魔と取り引きしたなどと打ち明けることになる。その結果が人間国宝になったのかもしれないけれど、それによって喜久雄は悪魔に色々なものを売り渡してきたということでもある。
その娘は「周囲がどれだけの犠牲を払ったか」と喜久雄を非難する。確かに本作に登場する女たちは、そういう損な役回りを引き受けているように見える。
藤駒は、喜久雄の存在に賭けて子供を産んだけれど、それに対して何かしらを要求するようなことはなかった。それから喜久雄に歌舞伎の世界での後ろ盾として利用された形なのが、歌舞伎界の大物(中村鴈治郎)の娘・彰子(森七菜)だろう。
喜久雄を追って上京した春江(高畑充希)は、喜久雄から結婚を望まれてもそれを拒否することになる。春江なりの考えがあってのことだろう。さらにその後は、歌舞伎から逃げ出した俊介に寄り添い、彼の助けとなるわけだが、これも喜久雄のためを思ってのことだったのかもしれない。ライバル関係にある俊介が喜久雄にとっても芸道の精進のために必要だという思いだったのだろうか。
確かに周囲も多大な犠牲を払っているとも言える。しかしながら同時に喜久雄自身もそうだろう。自分の幸せなどというものを望むこともなく、生きてきたように見えるからだ。
人間国宝になったことは喜ばしいことだろう。娘も語るように喜久雄の芸は何かしらめでたいものとして、人様から喜ばれるものなのだ。しかしながらそれは普通の人の幸せなど望まず、ほかのすべてを犠牲にする形でひたすらに芸道に打ち込むことで手に入れたものであり、歌舞伎の「美」というものに囚われた末のことだったということになる。それはほとんど呪いのように見えなくもないのだ。「美」というものは、実はそんな恐ろしさを秘めているらしい。
主役の吉沢亮はトラブルもあったみたいだけれど、それを跳ね返すような姿を見せてくれる。この大作の主役を任されるという重圧があったようで、「それがトラブルの遠因にもなっているのでは?」などと噂されているとか。さもありなんという気もする。
吉沢亮が演じた喜久雄は、「この世ならざる美しい顔をもつ」とされているわけで、そんな役に説得力を持たせるのは容易ではない。それでも本作の吉沢亮はその惹句が嘘にならないほど美しかった。落ちぶれた時の化粧が落ちかけた喜久雄の姿は絶品だった。
準主役の横浜流星もライバルを熱演している。クライマックスの『曽根崎心中』が盛り上がったのも、彼の存在が主役に負けない魅力があったからだろう。
そして、万菊を演じた田中泯の凄さも特筆すべきところだろう。一挙手一投足が異様な何かしらを孕んでいるようで、目が離せないのだ。
最後に余計なこと付け加えれば、本作の配給は東宝であって、松竹ではないということだ。歌舞伎の興行を一手に担っている松竹がなぜカヤの外なのかが疑問だったのだ。これだけ評判がいいとなると、松竹としては複雑なんじゃないかと思うのだけれど……。
コメント