『美しい夏』 一時の熱病?

外国映画

原作はチェーザレ・パヴェーゼの同名小説。

監督・脚本はラウラ・ルケッティ。本作は長編としては第3作とのこと。

主演は『墓泥棒と失われた女神』イーレ・ヴィアネッロ

物語

1938年、トリノでお針子として洋裁店で働く16歳の少女ジーニアは、画家のモデルとして生計を立てる3つ年上の美しく自由なアメーリアと出会う。アメーリアによって芸術家たちが集う新しい世界への扉を開かれ、ジーニアは大人の階段を上り始める。思春期真っただ中のジーニアと、既に自立した女性としてたくましく生きるアメーリアの2人が、互いの姿に自分の未来/過去を映しながら、徐々に惹かれ合っていく——

(公式サイトより抜粋)

魅力的な出演陣が見どころ?

原作はイタリア最高の文学賞とされるストレーガ賞の受賞作だとか。原作者チェーザレ・パヴェーゼのこともよく知らないのだけれど、マルクス主義者でもあったということからすると、もっと政治色が強い作品なのかもしれないけれど、映画化された本作はほとんどそういうものは感じられない。

舞台が1938年ということで、ムッソリーニの話題が出てきたりもする。主人公の兄がファシスト党の信奉者であることが仄めかされたりはするけれど、それ以上そういう方向には踏み込まず、ほとんど時代を示すだけのものに留まっている。基本的には、ある若い女性の一夏の体験物語と言ってもいいのだろう。

それでも『美しい夏』が魅力的な作品になっているとしたら、出演陣が素晴らしかったからだろう。

青い瞳が印象的な主人公のジーニアを演じているのは、『墓泥棒と失われた女神』(アリーチェ・ロルヴァケル監督)において主人公の行方知れずの恋人として、顔を出していたイーレ・ヴィアネッロだ(『墓泥棒』ではイーレ・ヤラ・ヴィアネッロという表記)。『墓泥棒』では出番はかなり少なかったし、台詞もなかったはずだ。それに対して、本作ではほとんど出突っ張りの主人公として作品を引っ張っている。

それから本作をインパクトのあるものにしているのは、アメーリアを演じたディーヴァ・カッセルの存在感だろう。彼女はモニカ・ベルッチヴァンサン・カッセルの娘さんという映画界のサラブレッドだ。すでにモデルとしても活躍しているだけあって、すらりとした背丈は否が応でも目立つ。

アメーリアはジーニアという主人公の憧れの的のような存在になっていく。こんな女性を演じるのは厄介だ。それでも、ディーヴァ・カッセルは劇中でも出てきた瞬間から周囲の目を惹くことになるし、それを映画館で観ている観客の多くも納得するような圧倒的にカッコいい女性像を見せてくれるのだ。

先程は「一夏の体験物語」と記した。それだけではありきたりではあるけれど、本作は舞台設定が整っていてとてもシャレている。モデルのアメーリアと、お針子のジーニアということもあって衣装も映えるし、芸術家たちのコミュニティではアブサンという幻の酒が振る舞われたりする。そういうクラシカルな雰囲気の中で、ジーニアとアメーリアの姿を追うわけで、それだけでも眼福な時間を体験できる作品になっているのだ。

©2023 Kino Produzioni, 9.99 Films
©foto di Matteo Vieille

ジーニアとアメーリア

まだ16歳で何も知らないジーニアの前にアメーリアが登場する。アメーリアは画家のモデルとして活動している年上の女性だ。二人の関係は、不思議と言えば、不思議かもしれない。ジーニアが同性愛的にアメーリアに対して憧れを抱いているのかとも思えたのだけれど、それだけでもないらしい。

公式サイトの「story」欄にもあるように、二人は互いに自分の姿を見出しているということらしい。ジーニアはアメーリアに対して自分のこれからの姿を見出し、アメーリアはジーニアにかつての自分の姿を見出しているというわけだ(アメーリアもかつてはお針子として働いていたことがあったのだという)。

そうなるとジーニアはアメーリアのような女性になりたいと考えることになる。画家のモデルして働くには、その画家とつき合う必要があるのかどうかはわからないけれど、ジーニアはアメーリアと同じことをしようとするのだ。ただ、そのことをアメーリアは快くは感じていないようでもある。ジーニアに過去の自分の姿を見ていたとしても、同じようにはなって欲しくはないということだろうか。

©2023 Kino Produzioni, 9.99 Films
©foto di Matteo Vieille

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羨望と軽蔑

それは周囲も同様だ。ジーニアの兄やいつも一緒にいた仲間たちは、アメーリアを裸で稼いでいる女性という蔑みの目で見ている。ジーニアはアメーリアに対して羨望の眼差しを向けるけれど、ほかの人たちはそうではないのだ。

ジーニアはアメーリアと出会い、それまで知らなかった世界を垣間見る。そして、そっち側の世界に憧れることになる。そうなると元の場所、兄やその仲間たちとは疎遠になっていく。そして、仕事も疎かになり、お針子の仕事もクビになってしまう。

自分の背中を追ってくる形のジーニアをアメーリアはどんなふうに見ていたのだろうか? ジーニアは自分もモデルになろうとして、画家の前で裸になるのだが、アメーリアはそんなジーニアの姿を直視することができない(ジーニアがアメーリアのモデル姿を覗き見していたのと対照的だ)。

アメーリアはどこかで自分のやっていることが後ろめたいところがあったということだろうか。そんなこんなで、ジーニアとアメーリアは一時ケンカ別れのような形になる。

人生に一度くらいは流感にかかる時がある。そんな台詞があったように記憶しているけれど、アメーリアとのことは一時の熱病みたいなものだったということなのだろう。ジーニアは仕事にも復帰し、兄と一緒のこれまでと同じ生活に戻ることに……。

©2023 Kino Produzioni, 9.99 Films
©foto di Matteo Vieille

その他の雑感

出演陣については褒めたけれど、映画としては食い足りない感もある。ジーニアはお針子として働いていたけれど、その洋裁店での彼女の落ち着いた立ち振る舞いを見ていると、16歳には見えないほど大人びているのにはちょっと違和感があった。

アメーリア役のディーヴァ・カッセルよりも、ジーニア役のイーレ・ヴィアネッロのほうが実年齢は上ということもあるわけで、洋裁店でのジーニアの振る舞いには別の演出が必要だったような気もする。

中盤にはジーニアの初体験のシーンが長回しで描かれる。部屋に入ってから、画家の男に服を脱がされ、そういう行為に及ぶところまでをワンカットで捉えていたと思う。ただ、このシーンは緊張感があるというよりは、妙に長ったらしく感じた。

もしかすると、その後にジーニアがモデルをやると言い出し、裸になるシーンを意識していたのだろうか。このシーンではジーニアは画家に「早く裸になれ」と急かされる。同じ画家がジーニアをベッドに導く時は、妙に時間をかけているわけで、その両方を本作はワンカットで描いているわけだ。ただ、それが効果的だったのかと言うと、そんなふうにも感じられず、演出的には疑問を感じる部分も多かった。

ラストも、梅毒に感染したと絶望していたアメーリアが、呆気なく復活し、ジーニアとの関係も元通りになったかのように終わる。「一時の熱病」という話は何処へやらというところで、物語としては焦点がぼやけているような気はしないでもなかった。

それでも最初にも言ったように、出演陣の魅力でなかなか楽しめる作品にはなっている。恐らくディーヴァ・カッセルはすぐにもスターとして認められるようになるのだろう。本作では彼女と比べられる形で割を食ったかもしれないけれど、イーレ・ヴィアネッロもとても美しい顔立ちをしている。

イーレ・ヴィアネッロは、私のお気に入りのアリーチェ・ロルヴァケル監督の秘蔵っ子みたいなところがあるのだろう。彼女は幼い頃にアリーチェ・ロルヴァケルの初監督作『天空のからだ』で映画デビューしたのだ。今度はアリーチェ・ロルヴァケル作品の主演女優としての彼女を観てみたい。

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