原作は朝倉かすみの同名小説。この小説は山本周五郎賞を獲得したとのこと。
監督は『片思い世界』の土井裕泰。
主演は『DESTINY鎌倉ものがたり』の堺雅人、と『さかなのこ』の井川遥。
物語
妻と別れ、地元に戻って印刷会社に再就職し、平穏に日々を生活する、青砥健将。青砥が中学生時代に想いを寄せていた須藤葉子は、夫と死別し地元に戻ってきた。再び出逢った二人は、少しずつ、離れていた時を埋めていく―― 。
ある日、アパートの部屋から月を眺めていた須藤。
「お前、あのとき何考えてたの?」
青砥にそう問われ、「夢みたいなことだよ。夢みたいなことをね、ちょっと」そう答えた須藤。再び、自然に惹かれ合うようになった二人。
やがて未来のことも話すようになるのだが・・・。
(公式サイトより抜粋)
平場とは?
「平場」というのは、使われる文脈によって様々な意味を持つらしい。たとえば、競馬において使われる時は、「特別なレースではない、一般的なレース」ということになる。誰もが注目するような有馬記念みたいなレースではない、ごくごく普通のいつものレースということになるのだろう。
『平場の月』の舞台となっているのは埼玉県の朝霞だ。いわゆる郊外ということになるのだろうが、東京からそれほど離れている場所というわけでもない。劇中では銀座が「高嶺の花」みたいな場所として何度か台詞の中に出てくるけれど、そうした「晴れ」の場所とは違った「日常」的な場所ということになるのだろう。
登場人物もごくごく普通の人たちだ。いわゆる庶民というヤツなのだろう。主人公の青砥(堺雅人)も、相手役となる須藤(井川遥)も、もう50代くらいだろう。青砥は離婚して地元に戻り、須藤は夫と死別して同じく地元に戻ってきたらしい。
青砥は印刷会社に再就職し、須藤は病院の売店で働いている。狭い場所なのか、地元に戻っていると昔知った顔に会うことも珍しくない。青砥と須藤もそんなふうにして病院の売店で再会することになる。
青砥はかつて一度須藤に告白して、フラれている。とはいえ、再会が二人の気持ちを一気に盛り上がらせることもない。それでもお互い独身の身として、愚痴を言い合うような「互助会」をする関係になっていくのだ。

©2025映画「平場の月」製作委員会
中年の恋?
居酒屋で焼き鳥を肴にビールを傾ける。二人のそんな互助会の雰囲気がとてもいい。有線放送で流れてくる音楽は二人が若かった時代のものが多く、そんなことも二人を和ませることになる。
二人がいつまでも互いを苗字で呼び合っているのは、中学時代からの名残ということらしい。二人は再会しても、愚痴を言い合うだけの他愛ない関係だ。金銭的な問題もあって、居酒屋ではなく須藤の家で酒を飲むようになっても、その関係が変わるわけではない(須藤がいつも同じコーヒーカップで酒を飲んでいるところがリアルだ)。
そんな関係が延々と続いていく可能性もあったはずだ。初めて青砥が須藤の家に上がった時、須藤はこれまでのことについて語っている。須藤は子どもがいる男性と結婚したものの死別し、その男性の遺した家に住んでいたらしい。しかし、その後に若い男(成田凌)に入れ込むことになり、彼に資産の多くをつぎ込んでしまったとのこと。そして、家を売った金で多くのことを清算して、地元に戻ってきたのだ。
須藤はその打ち明け話を誰にも言ったことはなかったらしい。それでもそれを青砥に話したのは、須藤が後になって語るように彼女が「ダメな人間であるということ」をわざわざ青砥に示すためだったのだろう。そしてそれは、それ以上に関係が先に進まないようにという安全装置みたいなものだったのかもしれない。
何と言うか、須藤は結構屈折した人なのだ。青砥から見た須藤は、「太い」人ということになる。「芯が太い」ということだ。これは須藤の屈折したところとも関わっているのかもしれない。
中学時代の須藤(一色香澄)は人気者だったようで、青砥(坂元愛登)以外の男性にも告白されている。しかし彼らは軒並みフラれることになる。というのは、須藤の家庭には問題があって、母親は長らく家を出ていた後に出戻り、父親とトラブルになっていた。そんなこともあって須藤は「ひとりで生きていく」と決めていて、それが須藤たちがフラれる要因になっていたのだ。

©2025映画「平場の月」製作委員会
病というきっかけ
二人の互助会は続いているが、何もなければ関係はそのままだったかもしれない。そこから先に進むのには、病気というものが関わってくる。歳を取れば身体にガタが来るのは当然とも言えるし、これはこの世代には当たり前のことなのだ。
二人が病院で出会ったのも、青砥が検査を受けに来ていたからだ。そして、互助会から先に進むきっかけには、須藤の大腸がんが見つかったことが大きいだろう。手術の前の日に、二人はいつもの互助会として須藤の家で飲むことになるのだが、そこで初めて二人は男女の関係になるのだ。
それから青砥は仕事も辞めることになった療養中の須藤を支えることになる。青砥は須藤の妹(中村ゆり)から、実は彼が須藤の「初恋の君」だったことを知らされることになる。須藤は青砥が好きだったのにもかかわらず、「ひとりで生きていく」という決心のために、青砥を袖にしていたのだ。
中学時代の青砥は、須藤にあえなくフラれた後、なぜかキスでもするかのように近づき、フランス人なんかがやるように互いの頬を触れ合わせることになる。本作の中でも一番ドキドキさせるシーンなのだが、須藤がその行為を逃げもせずに受け入れていたのは、須藤の屈折した感情があればこそということになる(本当にフラれた人があんな振舞いをしたとしたら、一体どうなっていたのか)。

©2025映画「平場の月」製作委員会
「屈折」と「鈍感」
『平場の月』はごく普通の中年のつつましい恋愛を描いている。そして、それはとてもいい雰囲気だったと思う。しかしながら、観客としては、どんなふうに本作を終わらせるのかという点がとても気になっていた。
中年の恋愛なんてのはファンタジー。劇中にはそんな台詞もあった。特に、日本映画では珍しいような気もする。海外の作品には大人の恋愛というのもありそうだけれど、日本映画ではキラキラ映画なんかにあるように、若くて初々しい人が主人公となるのが普通だからだ。そんな意味では珍しく攻めた作品ではあったとも思うのだけれど、1本の映画として成立させるための苦慮みたいなものも感じた。
ここではラストの詳細には触れないけれど、居酒屋で青砥が号泣する場面は涙なしには見られない場面だった。薬師丸ひろ子の「メインテーマ」が流れてきただけで、涙腺は崩壊することになるだろう。
しかしながらその感動のラストを用意するために、設定はかなり強引なものがある。須藤が屈折した人であることが二人が一時的に離れるきっかけにはなっているけれど、それを許してしまう青砥の鈍感さも信じがたいものがあるのだ。
そんな「屈折した感情」と「あり得ない鈍感」という強引な設定を準備しなければ、中年男女の恋愛というものは1本の映画として成立しないということでもあるのかもしれない。そんな意味では、余計にそれがファンタジーであるということを示してしまっているのかもしれない。
互助会の雰囲気のまま延々と続いていくのでは盛り上がりというものに欠けるだろうし、かといって二人が離れるという強引な設定がなければ、今度は日本映画によくある別ジャンルの映画になってしまうからだ。
須藤は青砥にキスされた後に、「どうすんだよ」とツッコミを入れていた。もちろん照れ隠しということでもあるけれど、このツッコミは中年男女の恋愛を描く本作そのものにも向けられていたのかもしれない。どうすんだよ、終わり方は? そんなツッコミだったようにも感じられたのだ。どこか気恥ずかしいものとして中年の恋愛を感じてしまうのは、日本らしいとも言えるのかもしれないけれど……。
居酒屋の主人を演じた塩見三省がいい味を出している。塩見三省は大病をしたとのことで、居酒屋の奥に座って静かに注文を聞いたりするだけなのだが、ラストでも盛り上がりを手助けすることになるのだ。劇中の二人ではないけれど、病というものは誰にとっても他人事ではないということなのだろう。エンドロールの星野源の曲もすんなりと沁み込むように入ってきて好印象だった。




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