『敵』 至るところに敵たちが

日本映画

原作は『時をかける少女』などの筒井康隆の同名小説。

監督・脚本は『騙し絵の牙』などの吉田大八

主演は『東京夜曲』などの長塚京三

東京国際映画祭では、東京グランプリ/東京都知事賞、最優秀監督賞(吉田大八)、最優秀男優賞(長塚京三)の3冠を獲得した。

物語

大学教授の職をリタイアし、妻には先立たれ、祖父の代から続く日本家屋にひとり暮らす、渡辺儀助77歳。毎朝決まった時間に起床し、料理は自分でつくり、衣類や使う文房具一つに至るまでを丹念に扱う。時には気の置けないわずかな友人と酒を酌み交わし、教え子を招いてディナーも振る舞う。この生活スタイルで預貯金があと何年持つかを計算しながら、日常は平和に過ぎていった。そんな穏やかな時間を過ごす儀助だったが、ある日、書斎のパソコンの画面に「敵がやって来る」と不穏なメッセージが流れてくる。

『映画.com』より抜粋)

敵とは何か?

主人公の儀助(長塚京三)は優雅なリタイア生活を満喫しているように見える。『敵』は、その優雅な日々をモノクロの映像で丁寧に追っていく。

朝起きるとご飯を炊き、網で魚を焼き、味噌汁を作っていただく。食後には自分で豆を挽いたコーヒーを淹れ、PCに向かうことになる。儀助はリタイアしたとはいえ、月に一度の連載の仕事を抱えていて、その原稿を練っているのだ。悠々自適で人が羨むような生活スタイルと言えるだろう。

本作の冒頭から続く日々の繰り返しを観ていると、『PERFECT DAYS』のそれを思い出させる。ただ、『敵』の日々には、単調さの中にとても優雅なものがある。『PERFECT DAYS』のそれがもしかすると“清貧”なんて言葉をイメージさせるのとは対照的かもしれない。

儀助はもともとはフランス文学の権威だったらしく、未だに教え子たちに慕われている。連載の仕事を回してくれる者もいるし、日常的な雑務をこなしてくれる者もいる。たまに夕食を共にする美しい女性までいて、儀助には未だにロマンスすらあり得るんじゃないかとも思わせるところすらあるのだ。

特に儀助を演じているのが長塚京三だというところが効いているのかもしれない。長塚にとって本作は12年ぶりの映画主演作ということらしい。実際の年齢も80歳近くということで、儀助の年齢と同じくらいだろう。それでも未だに立ち振る舞いがしっかりしていて、食事風景でも背筋がピンとしている。「矍鑠かくしゃくとした」という言葉がピッタリと当てはまるような姿なのだ。

長塚はもともとフランスへ留学していたこともあるらしく、デビュー作はフランス映画だという。本作でもフランス語を流暢に話すシーンもあって、儀助というキャラクターを演じるのにまさに適任だったと思う。

©1998 筒井康隆/新潮社 ©2023 TEKINOMIKATA

至るところに敵たちが

ただ、そんな儀助の生活も、後半になると様子が変わってくることになる。それは敵というものの存在が露わになってくるからだろう。その敵は「北からやってくる」のだという。では、その敵とは一体何者なのだろうか? そんな疑問を抱きつつ本作を観ていたのだが、結局は敵というものが何なのかが明確にされることはない。

劇中では儀助の教え子・靖子(瀧内公美)はメタファーについて語っていた(瀧内公美はすべてを曝け出していたはずの『火口のふたり』なんかよりも、本作のほうが艶っぽい)。本作の敵も、主人公にとっての何らかのメタファーということなのだろう。

これは敵の対義語を考えてみればわかりやすいのかもしれない。敵の対義語となるのは、味方とか仲間ということになる。味方や仲間は自分を守ってくれるものということになるだろう。だとすれば敵というのは、自分に対して危害を加えようとしてくるものということになる。あるいはもっと幅広く捉えれば、自分を苦しめる何かということになるだろうか。そう捉えれば、敵というものは至るところに見出されることになるのだ。

©1998 筒井康隆/新潮社 ©2023 TEKINOMIKATA

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退屈、欲望、老い、死

儀助は友人(松尾貴史)を相手にこんなことを話していた。自分の預貯金の残高を調べれば、今の優雅な生活を送れるのがあと何年なのかがわかるというのだ。残高に似合わない長生きは悲惨だとも言う。

儀助はそういう計算をしておくと、生活に張りが出るというのだ。逆に言えば、単調な毎日だけでは張りがないということになる。儀助は自ら定めたXデーというものがあればこそ、日々を生きていけるというのだ。

ここで儀助のことを脅かしているものがあるとすれば、それは「退屈」ということなのかもしれない。つまりは敵は「退屈」なのだ。退屈な日々を彩るために、贅沢な食事がある。自分で一本一本串に刺した焼き鳥を頬張りつつ焼酎を一杯なんてことは、手間がかかってなかなか酔狂なことだが、それは退屈を紛らわすためだったとも言えるのかもしれないのだ。

儀助の敵の姿はそれだけではない。未だに「性的な欲望」にも振り回されているように見えるのだ。尤も、儀助がフランス文学から学んだのは、人間の本質が下衆であることだったようなので、自らそれを楽しんでいる風でもあるけれど……。

儀助は夕飯を共にし終電間際までふたりきりの時間を過ごす靖子に対しては、明らかに性的な妄想を抱いているようだし、近くのバーの大学生の歩美(河合優実)にはあっさりと騙されて大金を奪われることになってしまう。

さらには敵は「老い」となって現れる。それまで矍鑠としていた儀助は、後半になってくると現実と夢や妄想が混濁してくる。死んだはずの妻(黒沢あすか)が姿を見せるようになり、その妻と自然に会話を楽しむようになるわけで、普通に考えればあり得ないことが起きていることになる。これは儀助の耄碌もうろくした頭がそうさせているということなのだろう。

儀助と靖子と奥さんと、突然現れた編集者(カトウシンスケ)の男が鍋を囲むシーンはかなりシュールだ。どこまでが現実で、どこまでが妄想なのか、あるいはすべてが儀助の耄碌した頭が見せる幻想なのか、とにかく意味不明で儀助の深層心理を覗いたような奇妙なシーンだった。

©1998 筒井康隆/新潮社 ©2023 TEKINOMIKATA

他人事と言ってられない?

後半になってくるとそれまでの静謐さが一転しドタバタ喜劇風に変わってくるあたりは、筒井康隆の原作の味だろうか。それでも怖い部分もある。儀助はひとり暮らしなわけで、誰にも邪魔されずに静かに生きていけるはずだったのだろう。ところが実際には突然の闖入者らしき敵の姿が垣間見えてしまったりもするし、感情面においても様々なものに追い立てられる。

ああしておけばよかったという後悔が襲ってきたり、未だにかつてのプライドが捨てられなかったりで、心の中はグチャグチャだ。優雅に贅沢な食事を味わっていた余裕もなくなり、粗末なパンを齧るだけで済ますようになってくると、日々は渾沌としたものになっていくのだ。

最終的に儀助の敵になるものは、やはり「」という存在なのかもしれない。そして、この敵から逃れられる者は誰もいないわけで、どうしたって負けは決まっていることになる。儀助は自ら死を選ぶようなことを言っていたけれど、実際にそれを試してみればなかなか簡単には行かないこともわかってくる。とにかく最期の日々があんなに騒がしくては真っ当に成仏できなさそうな気もする。

前半部のリタイア生活には憧れるけれど、結局はそれも長くは続かないということだろうか。私自身は後半部の渾沌を滑稽なものとして、言わば他人事ひとごととして眺めていたわけだけれど、そのうちそれが他人事ではなくなる時が来るということなのだろうか。そういう意味では怖い作品なのかもしれない。

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