監督は『私たちが飛べる日』のアダム・ウォン。
原題は「看我今天怎麼說」で、英語のタイトルは「The Way We Talk」。
2025年上半期、香港での映画興行収入ランキングでNo.1となり、香港電影金像奨では作品賞など計7部門にノミネートされた。
物語
3歳で聴力を失い、人工内耳(※)を装用することで、「聴こえる人」として“普通”の生活を送ろうとしているソフィー。生まれながらのろう者であり、自身が手話話者であることを誇りに思っているジーソン。そして、ジーソンの幼馴染で、手話と口話を使いこなす、人工内耳装用者のアラン。ある日、人工内耳を推奨するアンバサダーとして、アランとソフィーは出会う。しかし、とあるイベントでソフィーが「科学が発展すれば、この世からろう者はいなくなる」と発言したことに、ジーソンは激怒する。最悪な出会いから始まった3人の関係は、それぞれの生き方に思いがけない変化をもたらしていく――
※人工内耳とは、聴覚障がいがあり、補聴器では十分な効果が得られない人がつける医療器具。受信コイルを皮下に挿入するため、手術が必要。外部に送信コイルなどの器具を付けることで使用できる。
(公式サイトより抜粋)
「きこえない世界」の3人
聴覚障がい者を描いた香港映画。同じような題材を扱った日本映画『ぼくが生きてる、ふたつの世界』では、世界はふたつに分かれていた。「きこえる世界」と「きこえない世界」だ。『ふたつの世界』の主人公はいわゆるコーダと呼ばれる人として、その「ふたつの世界」を渡り歩くことになるけれど、同時に「ふたつの世界」に引き裂かれることでもあったのかもしれない。
ただ、そんなふうに言うと、それぞれの世界が「ひとつの世界」としてまとまりがあるようにも思えるけれど、本作を観ると、聴覚障がい者の世界が「みな一様に同じ」というわけではないことがわかる。障がいというものには人それぞれ差異があるわけで、みなが同じ世界を感じているわけではないのだ。
『私たちの話し方』には、3人の主人公がいる。本作では、それぞれが感じている世界を音響効果で観客にも体感させてくれるのだ。まったく耳が聞こえないジーハンの場合、彼が視点となる場面では一切の音がなくなり静寂が支配することになる。
それに対して人工内耳装用者であるアランやソフィーの場合、その音は普通よりもくぐもった音となって聞こえてくる。特にソフィーの場合、うまく人工内耳がしっくりこなかった部分があるようで、その音は雑音が入ったり機械的な音になってしまったりもする。そんなふうに聴覚障がい者でもその感じている世界が一様なものではないのだ。
聴覚障がいというものを扱った作品は多々あるけれど、本作ほど手話という言語の豊かさを感じさせてくれた作品はなかったかもしれない。そんな意味でも観るべき価値がある作品になっているんじゃないかと思う。

©2024 One Cool Film Production Limited, Lee Hysan Foundation. All Rights Reserved.
手話が辿った歴史
3人の違いには、手話というものの歴史が関わってくる部分もある。劇中で示されるのは、2010年にバンクーバーで開かれた世界ろう教育会議で、聴覚障がい者のコミュニケーションの手段として手話が復権されることになったということだけだ。それ以前は、聴覚障がい者は手話を禁止されていた時期があったということらしい。本作は香港映画だが、この手話に対する周囲の変化というものは世界的な動きだったのだ。
本作では、幼なじみであるジーソンとアランの幼少時代が描かれているが、ふたりの学校では手話を使うことが禁止されていたのだ。生徒たちはみな聴覚に障がいを持っているのだが、手話を使うと健常者の世界で生きていくことが難しくなるという理由で、口話を学ぶべきだとされていたのだ。
この学校の先生は手話を知らず、子どもたちに口話を強制することを教育だと信じている。一方で子どもたちはこっそり手話を使っていて、大人の事情というものをバカらしく感じているようでもある。特にジーソンはまったく外界の音が聞こえないために、手話というものをごく自然に扱っていて、口話をしようとはしないのだ。
劇中では触れられないけれど、実は1880年にミラノで開かれた会議で「ろう学校で手話を使うことを禁止し口話のみを奨励する」と決められたということらしい。その影響がジーソンとアランの学校にも残っていたということになる。それでも手話は脈々と受け継がれていき、次第に認められることになっていくわけだが、手話が正式に復権したのが2010年だったということらしい。それ以前の時代は聴覚障がい者は健常者の世界に合わせることが求められていたということになる。
ソフィーはそうした流れもあって、母親から口話を強制されてきたようだ。ソフィーの場合は特に病気によって幼い頃に耳が聞こえなくなった中途失聴者だったということもあって、母親はソフィーが健常者と変わらないように生きていくことを求め、人工内耳の手術を受けることになり、逆に手話を覚えることは許さなかったということらしい。

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3人の出会い
健常者の2倍の努力をしろと言われて育ったソフィー(ジョン・シュッイン)は、優秀な大学を卒業し、人工内耳を推奨するアンバサダーとして選ばれることになる。ソフィーはそこで広告代理店のような仕事をしているアラン(マルコ・ン)と出会う。アランもアンバサダーのひとりだったのだ。
人工内耳推奨のキャンペーンみたいな集まりがあり、アンバサダーであるソフィーは壇上に立ち、人工内耳というものの素晴らしさを宣伝することになる。その壇上でソフィーは「科学が発展すれば、この世からろう者はいなくなる」と発言したことが、その会場にいたジーソン(ネオ・ヤウ)を激怒させることになる。
ソフィーはアンバサダーとしてのサービス精神もあって極端なことを言ってしまったらしいのだが、実際には人工内耳というものは合う人と合わない人がいるらしい(ソフィー自身も次第にそれを感じることになる)。誰もがそれによって健常者と変わりなく暮らせるというわけではないだ。だからソフィーの言葉はろう者にとっては、行き過ぎた発言だったのだろう。
主人公たち3人はこうして出会うことになる。最悪の出会いと言ってもいい。特に手話に対して誇りを抱いているジーソンとしたら、ソフィーの発言は自分を否定されたようにも感じたというわけだ。本作はそんな出会いからスタートし、3人が互いのことを少しずつ理解していくようになっていく青春映画でもあり、三角関係を描いた作品とも言える。
手話の世界を体感する
まったく耳が聞こえずに手話を誇りにしているジーソン。その反対に健常者の中で生きていこうとしているソフィー。相容れないと思えるふたりの間を取り持つことになるのが、ジーソンの幼なじみでもあるアランだ。アランは人口内耳手術を受けているけれど、ジーソンから手話を学んでいるために、口話も手話もどちらも可能だ。
ソフィーは保険会社に就職が決まったものの、社内での自分の役割というものに疑問を感じている。彼女は中途失聴者を採用しているという企業イメージ作りに使われている部分があり、会社にとってソフィーはマスコットみたいなものだったのだ。ソフィーとしては健常者に負けない努力をしてきたつもりでも、人口内耳の状態も思わしくなく、社内でのコミュニケーションもうまくいかない。そんな中でソフィーは手話というものを学びたいと思うようになっていく。アランはそこで自分の手話の師匠でもあるジーソンをソフィーに紹介するのだ。
本作はソフィーが聴覚障がい者にとってはごく自然な言語である手話というものを学んでいく過程でもある。ソフィーはジーソンから手話を学ぶことになるわけだが、ジーソンは手話というものに誇りを抱いていて、同時にその利点も理解している。
手話は多少距離があっても、相手の手指の動きがわかれば理解できる。だから離れた場所でも無理なく会話が成立する。また、ジーソンは海の中が好きで、ダイビングのインストラクターを目指している。彼が海の中が好きなのは、そこが静寂が支配するところだからだろう。健常者は海の中で会話をすることは難しいけれど、手話ができるなら話が別になる。海の中でも手話は可能だからだ。
本作は聴覚障がい者の世界を丁寧に描いている。先ほどは聴覚障がいの差異というものを音響効果の違いで示していると記したけれど、同時に本作では手話という言語によって聴覚障がい者が感じているものを音響効果で示すところもある。
数学が得意なソフィーが手話で浮力について説明する場面では、手話の動きに加えてそれが示す意味を音響効果で示している。これは手話を使っている人が感じているものを彼らにはない感覚で補いつつ、健常者の観客にもうまく伝える役割を果たしていて、手話というものの豊かな世界を垣間見させてくれることになっているのだ。

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選択できるならば……
目を閉じることは可能だけれど、耳を完全に塞ぐことは難しい。聴覚というものはなかなか自由にならないものなのかもしれない。ソフィーはラスト近くで「選択」ということを考えていたけれど、選べるのならば静寂を選ぶとも言っている。とはいえ、それは「選べない」ということの別の表現でもあるのだろう。
かつては障がい者が健常者に合わせることが求められた。しかしそれによって苦しめられた人も多かっただろう。現在では多様性が謳われ、ユニバーサルデザインというものが当たり前となってきた。ユニバーサルデザインというのは誰でもが使いやすいデザインということだ。多様性が求められる社会では、障がいのある人も社会に参加しやすくなるべきだからだ。
それでも現実世界は厳しいところであり、本作では聴覚障がい者が健常者たちの世界で生きていくことの難しさについても描かれている。ジーソンはダイビング・インストラクターの免許を取得したいと思っているが、ある段階から先に行くとその障がいを理由に試験を受けることすらできなくなってしまうし、ソフィーも自分の価値に疑問を感じ自殺未遂めいたことをしてしまうことにもなる。
かといって障がい者がその世界だけに閉じ籠って生きていくわけにもいかないわけで、まだまだそうしたマイノリティに対する理解は足りない部分がある。そういうことを、本作は決して声高ではないけれど訴えているのだ。
カンフー以外の香港映画というものにあまり親しんでいるわけではないので、本作の出演陣はみな初めて見た顔ばかりだ。そうなると演じている人が障がいの当事者なのかとも思えたのだが、3人のうち2人は役者さんだったようだ。ごく自然に聴覚障がい者の役を演じてたと思う。
特にソフィー役のジョン・シュッインの場合、手話に加えて口話も話せるという役柄で、ちょっとたどたどしいしゃべり方が障がいの当事者のように見えた。
アラン役のマルコ・ンは、聴覚障がいの当事者ということで、自身も幼い頃から補聴器を使っている人らしい。演技は初めてということらしいのだが、広告代理店のちょっとチャラい感じの役柄が自然にフィットする感じの笑顔が印象的で、聴覚障がい者のイメージを変えるような好演だったと思う。
今週はダルデンヌ兄弟の新作もあるし、正直、それほど期待をしていたわけではなかった。金曜日の夜という時間に間に合う作品ということで選んだだけだったのだが、予想外に素晴らしかった。劇場は初日もかかわらずガラガラだったけれど、多くの人に観てもらいたい作品になっていると思う。



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