原作は五十嵐大の自伝的エッセイ『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』。
監督は『そこのみにて光輝く』、『きみはいい子』などの呉美保。
主演は『青くて痛くて脆い』や『キングダム』シリーズなどの吉沢亮。
物語
宮城県の小さな港町、五十嵐家に男の子が生まれた。祖父母、両親は、“大”と名付けて誕生を喜ぶ。ほかの家庭と少しだけ違っていたのは、両親の耳がきこえないこと。幼い大にとっては、大好きな母の“通訳”をすることも“ふつう”の楽しい日常だった。しかし次第に、周りから特別視されることに戸惑い、苛立ち、母の明るささえ疎ましくなる。心を持て余したまま20歳になり、逃げるように東京へ旅立つ大だったが・・・。
(公式サイトより抜粋)
「ふたつの世界」とは?
冒頭が印象的だった。映画の冒頭には製作会社とか配給会社などのロゴが流れたりする。たとえば「20世紀FOX」とか「東映」とかのロゴなら誰でも知っているけれど、最近では知らない会社のロゴも多い。時には映画が始まったのかと勘違いしてしまうことすらある。
『ぼくが生きてる、ふたつの世界』の冒頭も、そうした知らない会社のロゴの一部なのかと思っていた。何かにペンキを塗っているクローズアップなのだが、それが映画の始まりだと思わなかったのは、その映像には音が一切なかったからだ。
実はこれは主人公の父親の視点であり、彼はペンキ塗りの仕事をしているらしい。音がないのは、彼が生きているのは「きこえない世界」だからということになる。一方で、その冒頭には“何か”が足りないと感じていた私は、当然ながら「きこえる世界」に生きていることになる。
トーキー以降の映画では必ずあるはずの音がなかったから、私はまだ映画が始まっていないのかと勘違いしていたわけだが、本作は最初に「きこえない世界」から描かれていくことになる。そこからようやく本作は音を回復し、「きこえる世界」へと移行してくることになるのだ。
「音を回復」などという言い方をしたけれど、耳がきこえない人にとってはそれが当たり前の世界ということになるわけで、健常者と言われる人とは別の世界に生きているということになる。だから本作は「ふたつの世界」ということがタイトルになっている。
このタイトルは映画では最後の最後に登場することになる。そして、主人公はその間にいることが強調される。スクリーンの向かって左側には「ぼくの生きてる、」と一度区切られ、真ん中には主演の吉沢亮がいて、その右側に「ふたつの世界」と表示されることになるからだ。この主人公は「ふたつの世界」の真ん中にいて、両方の世界を行き来することになるというわけだ。
コーダの主人公
多くの人もそうなのだと思うが、私がコーダという言葉を知ったのは、『コーダ あいのうた』(2021年)という映画があったからだ。コーダというのは「Children of Deaf Adults」の略だ。「きこえない、またはきこえにくい親を持つ聴者の子供」のことを指す。
本作の主人公の五十嵐大(吉沢亮)もコーダということになる。冒頭シーンの後に描かれる大の「お食い初め」のシーンは、親戚一同が集まって賑やかだ。大は周囲にそういう人がいたからこそ、言葉をしゃべれるようになったということなのだろう。
大の父親(今井彰人)と母親(忍足亜希子)は盲学校で知り合い、駆け落ちをして大騒ぎをした後、何とか結婚を認めてもらったらしい。もしふたりが親の協力を得られなければ、大はどうやって言葉を覚えることになったのだろうか。
そういうことは結婚を許す親の側もよくわかっていたわけで、だからこそ最初は反対したということなのだろう。一緒に暮らしている祖父母は、大の母方の両親だ。最終的には親たちが折れて、ふたりは結婚し大が生まれたということなのだ。
ぼくは普通とは違うの?
本作は大が生まれたばかりの場面から始まり、大きくなるにつれて少しずつ自分の置かれた場所が普通とは違うということを学んでいくことになる。
子どもが最初に接する社会は家族だ。大にとってはきこえない両親と、きこえる祖父母がいるというのが当たり前だ。祖父(でんでん)がヤクザ者であるのも、祖母(烏丸せつこ)が新興宗教にハマっているのも不思議に思うことはないだろう。それが当たり前として生きていたのだから。
ところが小学生になると友人が遊びに来て、自分のうちがほかと異なることを知る。友人は無邪気に母親のしゃべり方がおかしいと指摘し、大は初めて母親が普通ではないと知るのだ。
大は授業参観に母親に来てほしくないと感じるようになる。さらには思春期となると、もっと荒れてきて、なぜ「きこえない側」にオレが譲歩しなければならないのかなんてことを言い出すほど、グレることになるのだが……。
様々な境界線とその越境
大はコーダとして生まれ育ったけれど、ごく普通の青年でもある。だから自分の置かれた状況を受け入れられず、酷い言葉を吐き母親を悲しませることになったりもする。それでも最終的にはかつての自分の行動を悔い、母親に感謝を伝えられるような真っ当な大人に成長することになる。ただ、それには紆余曲折が必要だったようだ。
大が東京に出ることになったのは、親から離れたかっただけだ。都会での暮らしを積極的に求めていたわけではない。地元での大はコーダとして生きなければならない。そうすると耳のきこえない両親を持つかわいそうな子供ということになってしまう。しかし、都会に出れば、親から離れることでごく普通の人として生きられるのだ。
本作は「ふたつの世界」の行き来することになる話だと上述した。本作では、その「ふたつの世界」の境界線のようなものが何度も登場し、越境を印象づけることになる。
大が祖父母と両親の間の通訳をしていたのは、「きこえる世界」と「きこえない世界」を行き来していたということになるだろう。祖父母がなぜか両親と手話でのやり取りをしないのも、そこにもある種の境界線があるからということなのだろう。
そして、劇中で橋を渡る姿が何度か登場するのも「ふたつの世界」を行き来することを強調するためだろう。さらに、「都会」と「田舎」というのも、「ふたつの世界」ということになる。
「都会」と「田舎」の間では、トンネルの暗闇が一種の境界線となっている(列車が暗闇から出ていく場面は『渚のシンドバッド』を思い出した)。大は列車でその暗闇を通り抜けて、「都会」と「田舎」を行ったり来たりすることになったのだ(「都会」と「田舎」の行き来が主人公を成長させるという点では、『ブルーアワーにぶっ飛ばす』に通じるものがあった)。
大が地元だけに留まっていたとしたら、成長はなかったのかもしれない。そもそも大は地元にいた時には、コーダという言葉すら知らなかったのだ。原作者の五十嵐大は1983年の生まれということで、彼が東京に出てきた頃はまだTwitterもLINEもなかった時代だ。積極的にそういう情報を調べなければ、コーダの存在すら知らなくてもおかしくはないということなのだろう。
けれども大は東京に出て様々な人に出会い、多くのことを学ぶことになる。職場の上司(ユースケ・サンタマリア)は「仕事はいつも実力より上のものがくる、逃げてはいけない。」(実はタモリの言葉だとか)と言いつつも、仕事を放り出して逃げてしまう。両親以外のろう者と初めて遭遇したのはパチンコ屋で、そこから自分と同じような境遇の人もいることを知り、少しは自分を客観視できるようになるのだ。
ラストは父親が倒れ、久しぶりに帰省した大が、再び東京へと戻るシーンだ。ここで意外なのは、大は母親に駅まで送ってもらうことになるのだが、その時彼が見ているのは、かつて初めて東京へと出ていく時に彼を送り出してくれた母親の姿なのだ。
ここにも、もうひとつの境界線というものがあるのだろう。それは時間の経過というものだ。時が経過することで、つまりは「今」の世界から、「過去」の世界を振り返ることで、大は過去の自分を悔い、母親に謝罪することが可能になったということなのだ。
褒められた話ではないけれど、母親に悪態を吐くなんてことは自分も記憶にないわけではないわけで、身につまされるところがある話だった。
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