『遠い山なみの光』 嘘をついたわけは?

日本映画

原作は、ノーベル文学賞受賞作家カズオ・イシグロの同名小説。

監督・脚本は『ある男』『愚行録』などの石川慶

主演は『片思い世界』の広瀬すず。

物語

日本人の母とイギリス人の父を持ち、大学を中退して作家を目指すニキ。彼女は、戦後長崎から渡英してきた母悦子の半生を作品にしたいと考える。娘に乞われ、口を閉ざしてきた過去の記憶を語り始める悦子。それは、戦後復興期の活気溢れる長崎で出会った、佐知子という女性とその幼い娘と過ごしたひと夏の思い出だった。初めて聞く母の話に心揺さぶられるニキ。だが、何かがおかしい。彼女は悦子の語る物語に秘められた<嘘>に気付き始め、やがて思いがけない真実にたどり着く──。

(公式サイトより抜粋)

文学作品の映画化

カズオ・イシグロの原作小説は一度読んだはずなのだけれど、詳細はほとんど覚えていない。それでも何となく記憶に残っていることもあって、悦子が佐知子の住んでいるバラック小屋を見かけるシーンなどは、原作にも印象的に書かれていたような気がする。ただ、ラストの展開に関してはすっかり忘れてしまっていたので、ミステリー作品として楽しめた。

映画版の『遠い山なみの光』は、イギリスの場面から始まる。1980年代、年老いた悦子(吉田羊)はイギリスの家を売ることになったようで、娘のニキ(カミラ・アイコ)はそんな母親を訪ねてきたのだ。ニキは母親の悦子に「なぜ長崎からイギリスに渡ってきたのか」ということを訊きたいと思っている。それを小説に書こうと考えているのだ。

母親の長崎時代のことを訊ねるニキの質問に対し、悦子が語り始めたのは、意外な話だった。長崎で出会った佐知子とその娘・万里子の話なのだ。悦子は怖い夢を見たと言いつつ、そんな話をし始めることになる。

1950年代、若い時代の悦子(広瀬すず)は、二郎(松下洸平)という旦那と新興住宅地のような場所に住んでいる。その悦子の部屋からは川が見え、その川辺にバラックがあり、そこに住んでいたのが佐知子(二階堂ふみ)と万里子(鈴木碧桜)なのだ。佐知子は近所の人たちから噂になっていた。バラックには駐留軍のアメリカ人の男が来ていて、それを周囲が話題にしていたのだ。

誰でも疑問に思うことがあるだろう。ニキが母親に訊ねたのは、「なぜ長崎からイギリスに渡ってきたのか」ということだった。それにもかかわらず、悦子が語り始めるのはなぜか佐知子と万里子の話なのだ。これはなぜなのか?

※ 以下、ネタバレもあり!

©2025 A Pale View of Hills Film Partners

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変わらなければ

本作には原作者のカズオ・イシグロもエグゼクティブ・プロデューサーとして参加している。ということは当然ながら、原作者の了解を得てということなのだと思うが、映画版では原作で曖昧にされていた部分に明確な「答え」を示している。

そこが映画版の『遠い山なみの光』が原作とは違っているところなのだろう。その「答え」というのが、悦子=佐知子ということになる。それではなぜ悦子は、自分のことを佐知子という人物に仮託して語らなければならなかったのだろうか?

そのひとつの理由には、戦後の混乱の中で人は変わらなければならなかったということなのだろう。本作には悦子の義理の父である緒方誠二(三浦友和)というキャラが登場する。彼は悦子が教員をしていた時の校長だった人物らしい。

緒方は時代を読み間違えた人だったのかもしれない。緒方は校長として国に尽くすという役割をしていたのだろう。それが息子の二郎との確執につながっている。二郎は戦争に行って指を欠損して戻ってきたらしい。緒方はそんな二郎を万歳三唱で戦場へと送り出した。二郎にとってはそれが許せなかったのだ。

緒方はほかの人物からも非難を浴びる。戦争中に緒方のような人物がいたからこそ、日本は敗戦へと突き進んでしまった。そのことを教育雑誌で痛烈に批判されたのだ。緒方はそれに対して恨み言を言いに行くのだが、相手も謝罪するつもりはないらしい。日本は戦争に負け、時代は変わったけれど、緒方はそこに鈍感だったのかもしれない。緒方は変わらなければならなかったのに、変われなかった人物なのだろう。

そして、「女性は変わらなければ」と佐知子は言っていた。つまりは悦子の変わった姿こそが、佐知子ということなのだろう。悦子は二郎との子どもである景子を産み、それからイギリスへ渡ってニキという次女を産んだのだ。

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もうひとつの理由

ただ、それだけなら悦子が別に佐知子というフィクションを作り出す必要はない。そうしなければならない理由が別にあったのだ。

そこには悦子の長女である景子が自殺したことがある。悦子は近所の人に景子はどうしていると訊かれ、存命であるかのように嘘をついていた。彼女はまだそのことを認めることができないでいたのだ。

悦子=佐知子ということになれば、景子=万里子ということにもなる。佐知子は万里子を連れてアメリカに渡ることを夢見ていた。嫌がる万里子を強引に連れていくためか、佐知子は万里子が飼おうとしていた子猫を水に沈めて処分することになる。

そんなふうに強引に日本を離れたからか、景子はイギリスで自殺してしまうことになる。恐らく悦子は景子の死に対する何らかの罪悪感みたいなものを抱えていたのだろう。

悦子が佐知子に仮託して語ったエピソードとしては、長崎への原爆投下後のことなのか、ある女性が自分の子どもを水に沈めて殺していたというものがあった。これも景子に対する罪悪感が語らせたフィクションだったのかもしれない。

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悦子の嘘とは?

悦子は佐知子を川辺のバラックで発見した。マンションの上の階から、ずっと低い位置にいる佐知子を発見する。戦後の混乱の中で、人は変わらざるを得なかった。それまでと同じようには生きられなかったということだろう。生きるためには何でもしなければならなかった。それが悦子と佐知子の位置関係にも現われている。

佐知子は川辺に住んでいて、川向うには「誰もいない」と言われている。この川は多分、三途の川みたいなもので、生と死の狭間みたいなところで佐知子は生きていたということになる。つまりは悦子は佐知子のような境遇へと陥っていったということなのだろう(「あの時はひとりで立ってられなかった」という台詞もあった)。

そんな中で悦子は海外へと渡ることに希望を見出すことになる。そこには被爆者に対する差別みたいなものがあったからなのかもしれない(二郎との関係はそんなことも仄めかしている)。しかし、希望であったはずのイギリス行きが、娘の景子にとっては苦痛になってしまったということになる。

ニキは母親が景子の自殺を恥じているのかと疑っていたけれど、悦子が佐知子に仮託したことから推測するとそうではないのだろう。悦子は自分が景子のことを殺した張本人だと感じていたのだ。だからこそ、それを語るのに自分のことを主語として語ることができなかったのだ。

だから悦子が語る長崎にはかなりの嘘が含まれている。最初の印象では、ドキュメンタリー的なイギリスの場面に対して、長崎の場面が作り物っぽくも感じられた。しかしながら、これは意図的なものだったのだろう。後半で佐知子が子猫を川に沈める場面などは、明らかに表現主義的な映像になっており、それというのも佐知子の存在自体がフィクションだったからなのだろう。

映画版では原作で曖昧にしていた部分を明確にしたことでわかりやすくなったのだろう。そのせいで文学作品の風格は損なったのかもしれないけれど、ミステリーとして2時間でまとめるとしたらこれはこれでいいのかもしれない。

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