『We Live in Time この時を生きて』 遺したい自分の姿

外国映画

監督は『ブルックリン』ジョン・クローリー

主演は『サンダーボルツ*』フローレンス・ピューと、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』アンドリュー・ガーフィールド

物語

新進気鋭の一流シェフであるアルムートと、離婚して失意のどん底にいたトビアス。何の接点もなかった二人が、あり得ない出会いを果たして恋におちる。自由奔放なアルムートと慎重派のトビアスは何度も危機を迎えながらも、一緒に暮らし娘が生まれ家族になる。そんな中、アルムートの余命がわずかだと知った二人が選んだ型破りな挑戦とは──。

(公式サイトより抜粋)

すべてネタバレしてる?

予告編や公式サイトの「STORY」欄を見ると、そこにはもうすべてが明らかにされている。主人公であるアルムート(フローレンス・ピュー)は余命わずかで近々死ぬことを宣告されているわけで、結末はネタバレしているみたいなものなのだ。

つまり、結末はすでにわかっている物語をどんなふうに見せていくのかということが、本作の腕の見せどころということなのだろう。本作は、時間軸を複雑にシャッフルすることで、それを見せていくことになる。

『We Live in Time この時を生きて』は、大きく分ければ3つのパートに分かれることになる。ひとつは意外な出会いから始まり、二人がつき合うことになるパートだ。次は、紆余曲折あり、二人が子どもを授かることになるパート。そして、最後はガンが再発して以降の話ということになる。

たとえば冒頭は二人がつき合い始めたばかりの頃を描いていて、一流のシェフであるアルムートがベッドで寝ているトビアス(アンドリュー・ガーフィールド)に料理の味見をしてもらおうとする場面だった。ところが次の場面に移行すると、トビアスが寝ているベッドにはアルムートはいない。トビアスが起きてバスムールを探すと、そこにはお腹の大きくなったアルムートがいる。ベッドを基点として、異なるシークエンスに移行していくのだ。

そして、次のシークエンスでは、トビアスがいるのは父親と一緒に住んでいた家で、彼が寝ているベッドは二人が寝ていたものとは違う小さなものとなっている。これによって、このシークエンスは二人が出会う前のものだとわかるというわけだ。本作はそんなふうに3つのパートを行ったり来たりしながら進んでいくのだ。

©2024 STUDIOCANAL SAS – CHANNEL FOUR TELEVISION CORPORATION

なぜシャッフルが必要か?

なぜ時間軸をシャッフルしなければならないのか? それは本作のテーマとも関わってくることだろう。というのも、アルムートはガンが再発し、また治療をしてもその結果がどうなるのかはわからない状況に陥る。治療をして再びガンをやっつけることができれば一番いいのだが、それが可能かどうかは誰もわからない。もし治癒することができなけば、アルムートの残り少ない時間を治療だけに費やしてしまうことになる。

アルムートとしては陰気な半年を送るよりも、自分のやりたいことをやって生きていきたいと思うことになるのだ。そして、それは娘のエラ(グレース・デラニー)との関係にも関わってくる。アルムートは病で死んだ母親という記憶だけをエラにのこしたくはなかったのだ。最後まで闘って、何かを遺していきたかったのだ。

その遺したことのひとつが、最後の料理コンクールのシークエンスなのだろう。アルムートは料理人として全力を出し切った姿をエラの前で披露したのだ。それがクライマックスにおかれることで、エラには闘った母親の姿が遺ることになる。

恐らくその後には病気との闘いもあるはずだ。しかし、本作ではそれは省かれ、闘った母親アルムートがトビアスとエラのカーテンコールに応えるかのような姿が最後となる。本作は、アルムートがエラに遺したい姿をピックアップした形になっているのだ。

それから時間軸のシャッフルは、時の流れによる変化をより強調する側面もあるだろう。アルムートは自由な女性で、恐らくバイセクシャルであり、子どもは必要ないと考えていた。しかし、ガン再発後のアルムートにはエラがいて、彼女に何を遺すべきかと考えている。どうしてそんな変化が生じることになったのか。そういったことが次第に明らかにされていくことになるのだ。

©2024 STUDIOCANAL SAS – CHANNEL FOUR TELEVISION CORPORATION

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遺したい自分の姿

しかしながら、こうした手法はそれほど珍しいとは言えないわけで、その点ではインパクトとしてはそれほど大きくはなかったかもしれない(私自身は『21グラム』のことを思い出しながら観ていた)。ちなみに本作の脚本を書いたニック・ペインは、『ベロニカとの記憶』という作品の脚本を書いた人だ。『ベロニカとの記憶』もタイトルの通り、記憶というものをテーマとしている。

本作のアルムートも自分が余命わずかということを知り、エラに自分のどんな記憶を遺すべきなのかと考えることになる。そして、その答えが料理人としての闘いを見せることだったというわけだ。死んでいく姿よりも、生きて闘う姿ということだろう。

本作では、アルムートが亡くなった後のシークエンスは最後だけだ。このシークエンスでは、トビアスとエラが卵料理をしている。ボウルを二つ並べて卵を割っていくやり方は、前半でアルムートがトビアスに卵料理を作ろうとしていた時に教わったやり方だった。アルムートのやり方がエラにも受け継がれていくことになるのだ。母親が亡くなったことなど感じさせない、前向きで楽し気なキッチンの様子がラストシーンだ。

本作はフローレンス・ピューの熱演が見どころだ。どこかのファッション・ショーで坊主頭のフローレンス・ピューの姿が話題になったりもしていたけれど、実は本作の撮影で実際に坊主にしたということらしい。

彼女が演じたアルムートは、病気になった人がそれを隠すためにウィッグをつけてというのがイヤだったのだろう。ファッションとしての丸坊主に見せたいから、治療で髪が抜けたりする前にわざわざ丸坊主にしたのだ。現実世界のファッション・ショーでも話題になったということは、カッコいい姿として見られていたということであり、アルムートとしては「してやったり」というところかもしれない。

本作のアルムートはトイレでの出産シーンがあったりと、何かと体当たりだった気がする。正直言えば、本作はありきたりな“余命もの”の域を抜け出すほどにはなっていないような気もするけれど、それでもフローレンス・ピューの熱演はホロリとさせるところがあった。

アルムートという役柄は一流シェフであり、実はかつてはフィギュアスケートの選手でもあったという何でもできる女性だ。それに対してトビアスという役柄は、常に“受け身”の立場にある。

トビアスは最初はアルムートの車に轢かれることで彼女と出会い、たちまち惹かれ、多才な彼女に圧倒されつつ、短く濃密に生きることになった彼女をそばで見守る形になる。アンドリュー・ガーフィールドの人のいい感じが、“受け身”の立場としてピッタリ合っていた気がする。

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