『わたくしどもは。』 バルドとは?

日本映画

監督は『ブルー・ウインド・ブローズ』富名哲也。本作は長編としては第2作とのこと。

主演は『糸』などの小松菜奈と、『影裏』などの松田龍平

今年5月に劇場公開され、12月4日にソフト化された。

物語

名前も、過去も覚えていない女(小松菜奈)の目が覚める。舞台は佐渡島。鉱山で清掃の仕事をするキイ(大竹しのぶ)は施設内で倒れている彼女を発見し、家へ連れて帰る。女は、キイと暮らす少女たちにミドリと名付けられる。キイは館⻑(田中泯)の許可を貰い、ミドリも清掃の職を得る。
ミドリは猫の気配に導かれ、構内で暮らす男、アオ(松田龍平)と出会う。彼もまた、過去の記憶がないという。言葉を重ねるうちに、ふたりは何かに導かれるように、寺の山門で待ち合わせては時を過ごすようになる。そんなある日、アオとの親密さを漂わせるムラサキ(石橋静河)と遭遇し、ミドリは心乱される。

(公式サイトより抜粋)

生まれ変わったら……

「生まれ変わったら、今度こそ、一緒になろうね」。そんな言葉を残して死んだ男と女。次のカットでは女(小松菜奈)がどこか別の場所で倒れている。女はすべての記憶を失っているらしい。女が目覚めた場所は一体どこなのか?

女は自分の名前すらわからず、ミドリと名付けられることになる。その場所では、みんなの名前は色の種類から採られているらしい。先にそこに居たのはキイ(大竹しのぶ)という年輩の女性と、アカとクロという二人の女の子だ。ミドリはそこで清掃員の仕事をしながら暮らしていくことになり、アオ(松田龍平)と呼ばれることになる男と出会うことに……。

『わたくしどもは。』が何を描こうとしているのかというのをもっと謎めかせて引っ張ってみてもよかったような気もするのだけれど、そんな気持ちはないらしく、予告編でも「現世と来世の狭間」と謳ってしまっている。予告の段階ですでにネタバレしているようなものなのだ。つまりは本作は「バルド」あるいは「中有ちゅうう」というものを描いた作品ということになる。

そのものズバリでバルドというタイトルを冠した『バルド、偽りの記録と一握りの真実』というアレハンドロ・G・イニャリトゥ監督作品もあったけれど、この作品は映像的には面白いのだけれど、ゴチャゴチャしていてバルドを描いていたのかはよくわからなかった。

そもそもバルドというのは一体何なのか? これはチベット仏教の言葉で、「中間」とか「途中」という意味らしい。仏教では輪廻転生というものが信じられており、わかりやすく言えば人が死ぬと魂のような“何か”が身体から抜け出し、一定の期間を経ると来世に生まれ変わるとされる。

その期間が四十九日と言われていて、劇中でもキイは四十九日を迎えるとその場から去ることになる。日本でも四十九日の法要が行われることになっているのは、その期間を経ると亡くなった人が生まれ変わったということで、ひとつの区切りがついたということなのだろう。

その現世と来世の間にあるのが、「バルド」とか「中有」と呼ばれる期間ということになる。本作では、その「現世と来世の狭間」を、現世と重なり合うような世界で過ごすことになる。亡くなった人の魂は生前と同じ姿で現れるのだが、記憶はすべて消えていて、そこで生まれ変わるまでの一種の待機状態を過ごすことになるのだ。

©2023 テツヤトミナフィルム

重なり合う現世とバルド

バルドが現世と重なり合って存在しているという設定はちょっと面白い。この設定だとミドリたちは地上を彷徨っている幽霊のように見えなくもない。けれども実際にはミドリたちの姿は現世の人たちからは見えないことになっている。

その逆にミドリたちのほうは現世の人たちの姿が見えている。それでも現世の出来事に介入したりすることはできないようで、コーダの少年・向田透(片岡千之助)はアオが自殺を止めようとしても、それに気づくことがない。

ちなみに本作はベネチア国際映画祭で新鋭監督を支援するプロジェクトに選ばれているということで、日本語のタイトル以外にも英語のタイトルが決められている。それは「Who Were We?」となっている。劇中のミドリの台詞にもあるように、「わたくしたちは誰だったんでしょうか?」ということになる。

「生まれ変わったら、今度こそ、一緒になろうね」と言っていたミドリとアオ。ふたりは現世の記憶を失い、魂としてバルドでは一緒に居られたけれど、そこはまだ生まれ変わる前の場所で、四十九日を経過して六道輪廻のどこに生まれ変わるのかはわからないということになる。

自分たちが何者だったのかもわからなくなり、次に生まれ変わるのがどこになるのかもわからないのだ。もしかすると人間界かもしれないけれど、地獄に堕ちる可能性もある。それぞれが別の世界に生まれることもあるということになる。ラスト近くでアオは「わたしには決められないですから」などと悲観的なことを言っているのはそういう意味なのだろう。

多分、ミドリとアオは現世では不倫の間柄だったのだろう。ムラサキ(石橋静河)という女性は、アオの奥さんだったということなのかもしれない。そのムラサキはふたりよりも先に四十九日を迎えたようで、先にバルドから姿を消すことになるけれど、そうなるとムラサキはふたりよりも先に亡くなっていたということなのだろうか?

©2023 テツヤトミナフィルム

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ふたりは一体何者?

不思議な世界観だ。ミドリのしゃべり方があまりにも堅苦しい。「わたくし」なんて言い方はいつの時代なのかと思うのだけれど、これによってちょっとだけ現実からズレた世界観を醸し出しているとも言える。

さらにはアオを演じた松田龍平『散歩する侵略者』の宇宙人のように何を考えているのかわからない目をしていて、これまた人間とは別の存在なのかとも思わせる。ふたりでの食事なのに、なぜか隣に並んで座っているというシーンも妙で、観ている側としてもふたりは一体何者なんだろうかという気にもなってくるというわけだ。

本作はバルドを描いた作品で、それを美しいビジュアルとして体験させようという意図なのだろう。スタンダードサイズの画面でキッチリとした構図のが展開していく。冒頭シーンがとても美しい。清水寺の舞台のような場所で、周囲は森の緑に覆われ、そこに黒ずくめの衣装を着たふたりが立っている。

その後、ふたりはそこから飛び降りるのだが、ラスト近くで舞台から落ちたふたりの姿が再び描かれると、黒ずくめの衣装から覗く鮮やかな赤が死を思わせることになる。

ミドリが目を覚ました時には彼女は真っ白な衣装となっているし、ふたりが森の中を歩く場面では、森と一体化したかのような緑や茶色の衣装となっていて、本作が全体を通して美的なものを意識しているのはよくわかる。

ただ、アイデアとしてはそれの一本槍とも言える。展開に特段の捻りもないので、最後まで単調のままと感じられなくもない。ムラサキというキャラや、館長(田中泯)あたりがもっと物語に介入してきてもよかったのかもしれない。何か起きそうな雰囲気はあるのだが、そのままフェードアウトしていくのが惜しい気もした。

©2023 テツヤトミナフィルム

舞台となっている佐渡の金山の歴史も物語に取り入れられていて、強制的に働かされていた「無宿人」と呼ばれた人たちが形を変えて登場したりもする。印象的だったのは、山が真っ二つになったかのような場所だ。「道遊どうゆう割戸わりと」と呼ばれるもので、金脈を掘り進めるうちに山がV字に削られてしまったということらしい。とはいえ、それがバルドと結びついているかと言えば、少々強引だったかも……。

結婚をしたということもあってしばらく休業していた小松菜奈の復帰作として、彼女がとても美しく撮られていたし、それだけで十分という気もしないでもないのだけれど、100分という時間をビジュアルだけで引っ張っていくというのはなかなか難しいことのようにも思えた。

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