『ドラマなふたり』 やり直せばいい

外国映画

監督・脚本は『ドリーム・シナリオ』クリストファー・ボルグリ

主演は『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』ゼンデイヤと、『DIE MY LOVE/ダイ・マイ・ラブ』ロバート・パティンソン

原題は「The Drama」。

物語

ボストンのカフェで運命的な出会いを果たしたチャーリーとエマは、この上なく幸せな日々を送っていた。結婚式まであと7日と迫った夜、付添人の親友夫婦と4人での食事中、これまでにやらかした最悪の行いを告白することに。軽い気持ちで始めたゲームだったが、エマの【最悪の秘密】に全員がドン引き。チャーリーはエマには想像を絶する別の顔があるのではないかと恐れを抱く。幸せの絶頂は一転、疑心暗鬼のどん底へと墜落するが、結婚式の準備を止める術はなく、遂に当日を迎える—。

(公式サイトより抜粋)

やらかした最悪の行い

神様はわれわれの髪の毛一本のことまで把握している。そんなエピソードが聖書には書いてあるらしい。このエピソードを信者は次のように受け取るようだ。髪の毛一本までに配慮してくれる神様がわれわれのことを軽んじるわけがない。そんなありがたいメッセージだと理解するのだ。

とはいえ、その解釈は人によって様々で、たとえば『21グラム』では神様がわれわれを監視しているという解釈になっていた気もする。神様は髪の毛一本のことまでご存知だ。だから誰も見てないところでこっそり悪事を働いたとしても、「神様だけはご存知だ」ということになる。

これは日本での言い方で言えば、「お天道様が見ている」ということになるだろう。結局は「真っ当に生きなさい」という道徳的メッセージであり、似たような話はどこの国でもあるのだろう。

というのも、実際には人はそんなふうに正しいことばかりで生きることは難しいからでもある。だからこそ神様の監視という嘘が必要になる。誰だって叩けばホコリが出る。それが当たり前なのだ。

ところが『ドラマなふたり』の登場人物たちは、酒の酔いもあって「これまでにやらかした最悪の行い」を告白するというゲームに興じることになる。秘密にしておけばいいものをわざわざ掘り出してトラブルを引き起こすことになるのだ。

それぞれの告白は以下のようになる。マイク(ママドゥ・アティエ)は犬に襲われそうになり当時の彼女を盾にした。レイチェル(アラナ・ハイム)は障害児を物置みたいな場所に閉じ込めて放置した。チャーリー(ロバート・パティンソン)は14歳の頃、いじめで同級生を引っ越しに追い込んだ。

みんなそれなりに酷いことをやっている。それでもそれは酒の席の笑いに紛れることになる。レイチェルのエピソードの障害児も、無事に解放されて事なきを得たということで、「若気の至り」ということで何となく許されてしまうのだ。

ところが最後にエマ(ゼンデイヤ)が告白したことにみんなドン引きしてしまう。エマは銃乱射事件を計画していたと告白したのだ。

© 2026 Dramatic Movie Rights LLC. All Rights Reserved.

未遂なのに

『ドラマなふたり』の主人公はそのエマと、彼女の婚約者であるチャーリーだ。ふたりは7日後に結婚式を控えている。そんな大事な時、エマの告白が幸せの絶頂を予想外の方向へとねじ曲げてしまう。

改めて確認しておくと、エマは確かに銃乱射事件を計画していた。念入りに準備までしていたのだ。それでもエマは実際にはやってはいない。あくまでも未遂なのだ。にもかかわらず、なぜか悪事を実行していたほかの3人よりも、エマが一番非難されることになってしまう。

これは銃社会のアメリカだからこその反応ということもあるのだろう。悲劇を防ぐには銃を規制するほかない。しかしながら、アメリカはその歴史からしても銃を手放すことは難しい。政治的な対立にも関わるセンシティブな問題を孕んでいるのが銃乱射事件ということなのだろう。

チャーリーもエマの告白に驚く。エマの片耳が難聴だったのは先天的なものだと思っていたけれど、実際には射撃訓練の際の事故によるものだったのだ。そうなるとエマに対する印象も変わってくる。チャーリーはエマのことをサイコパスなんじゃないのかと疑うことになり……。

© 2026 Dramatic Movie Rights LLC. All Rights Reserved.

スポンサーリンク

 

ネットの言論空間

チャーリーはエマのことを「日常のドラマをコメディに変えてくれる人」だと評価していた。しかしながら、このことだけはエマも笑いに紛らわすことができなかったのだ。

エマの告白を聞いたほかのふたりの男性陣は驚いたとはいえ、穏便に済まそうとしていたようにも見える。しかし、レイチェルは違う。レイチェルはエマの告白を聞くと怒り出すのだ。彼女のいとこは銃乱射事件によって車椅子生活になってしまったからだ。

レイチェルは告白ゲームの言い出しっぺだ。それぞれの告白をわらうつもりが、レイチェルはエマの告白だけは許容範囲を超えていると判断したのだ。レイチェルが噴き上がることで事態はさらに面倒なことになっていくのだ。

これはネットの言論空間と似たようなものとも思え、クリストファー・ボルグリ監督の前作『ドリーム・シナリオ』とも近しいものになっている。

『ドリーム・シナリオ』は、普通のおじさんが多くの人の夢の中に出現するという現象を扱っている。このおじさんは実際には何もしていない。何もしていないけれど、人の夢の中に現れる。おじさんはそれによって人気者になるものの、その後に忌み嫌われるようになる。おじさんは何もしていないのにネットの言論空間に翻弄され、勝手に持ち上げられた後に、一気に突き落とされることになるのだ。

そんなふうにネットの言論空間はあやしいものだ。噂の真偽があやしくても関係ないし、やってもいないことで叩かれるのだ。

本作はとりわけネット空間がクローズアップされるわけではないけれど、一部の人が炎上騒ぎを煽ろうとすればそれが可能になってしまうのだ。本作の場合、レイチェルがその煽動者となっているのだ。

© 2026 Dramatic Movie Rights LLC. All Rights Reserved.

やり直せばいい

そこから本作はチャーリーの哀れな姿に焦点を当てる。こういう役をやらせるとロバート・パティンソンはなかなかうまくて、『ミッキー17』みたいに彼の哀れな姿を嗤うのが本作ということになる。

加えてプロデューサーを務めているアリ・アスター作品と関連させれば、『ボーはおそれている』とも通じているところがある。主人公の地獄巡りが作品の肝とばかりに、そこが幾分冗長に感じられるところは、本作も『ボー』と共通しているんじゃないだろうか。

そんなわけで途中から予想されていた通りに、チャーリーとエマの結婚式は大失敗に終わることになる。それでも最悪の終わり方というわけでもない。希望を感じさせる終わり方になっている。それはもう一度最初からやり直すことが可能だからだ。

ふたりの最初の出会いからしてそうだ。ふたりは最初の出会いももう一度やり直して始ったわけで、今回の失敗だってもう一度やり直すことができる。

本作は何度も別の可能性というものが示される。たとえば例の告白をした次の日の朝、エマはすべてがダメになったかのような結末を予想しつつも、同時にすべてがなかったことになったかのような仲直りの可能性も妄想している(実際にはそのどちらでもなかったけれど)。

エマはかつて銃乱射事件を計画した。しかしながら、結局それは実現せず、エマは銃規制の運動に携わることになった。

世界はそんな偶有性に満ちているのだ。これは何が起きるかわからないということでもあるけれど、同時に様々な可能性があるということでもある。だからこそわれわれはもう一度やり直すことができる。そんなラストは悪くなかったと思う。

コメント