監督・脚本は『シークレット・オブ・モンスター』のブラディ・コーベット。
主演は『戦場のピアニスト』のエイドリアン・ブロディ。
米・アカデミー賞では作品賞ほか計10部門にノミネートされている。
物語
ハンガリー系ユダヤ人の建築家ラースロー・トートは第2次世界大戦下のホロコーストを生き延びるが、妻エルジェーベトや姪ジョーフィアと強制的に引き離されてしまう。家族と新しい生活を始めるためアメリカのペンシルベニアに移住した彼は、著名な実業家ハリソンと出会う。建築家ラースローのハンガリーでの輝かしい実績を知ったハリソンは、彼の家族の早期アメリカ移住と引き換えに、あらゆる設備を備えた礼拝堂の設計と建築を依頼。しかし母国とは文化もルールも異なるアメリカでの設計作業には、多くの困難が立ちはだかる。
(『映画.com』より抜粋)
ある建築家の生涯
本作はユダヤ人の建築家ラースロー・トートの30年に渡る半生が描かれる。私は先行上映を行っている劇場で鑑賞したのだが(正式な公開は2月21日から)、そこでは「建築家ラースロー・トートの創造」なるリーフレットが配られていた。ラースローなる人物のプロフィールが記載され、劇中で建設されることになるコミュニティセンターについて詳しく説明がなされているのだ。
建築というものに詳しい人ならばともかくとして、こんなリーフレットを見たらラースローなる人物が実在する人で、コミュニティセンターも実在すると思うんじゃないだろうか。私自身は建築に関してまったく疎いもので、ラースローを実在の人物だと思い込んでいた。そのくらい本作はうまく嘘を吐いていたということなんじゃないかと思う。
『ブルータリスト』は、ブラディ・コーベット監督にとっての第3作ということになる。デビュー作の『シークレット・オブ・モンスター』にしても、第2作の『ポップスター』にしても、架空の人物を描いた作品だった。監督自身は「僕の長編映画3作に共通しているのは、歴史の皮肉を描いているところ」と語っているようで、確かに『シークレット・オブ・モンスター』では歴史上の誰かを思わせる独裁者が登場し、『ポップスター』では「コロンバイン高校銃乱射事件」を思わせる出来事が描かれる。
ただ、前2作においては、登場する架空の人物を実在のものと勘違いする人はいなかっただろう。それに対して本作は、その架空の人物であるラースロー・トートという男が、歴史上に実在した建築家のように見えてしまうようなリアルさがあったのだ。
ちなみに上述したリーフレットに載っているラースローの写真は、彼を演じているエイドリアン・ブロディだったし、その一番下には小さな文字で「※本書の内容は一部を除きすべて架空の内容です。」とも記載されている。それでも多くの人がラースローが実在の人物だと思ったんじゃないだろうか。

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ブルータリストとは?
『ブルータリスト』は上映時間がとにかく長い。前半100分、後半100分、その間に15分間のインターミッションが入る構成というのは珍しいだろう。しかしながら、全体で215分という長丁場にもかかわらず、ほとんどダレることもなく見せてしまう。
カウントダウン付きのインターミッションすらも作品の一部として、前半を振り返りつつ後半を期待させるような役割を担っているような気もして、なかなか凝ったオープニング・クレジットからエンドロールまで、すべてが整然とコントロールされた作品だったのだ。
それからダニエル・ブルンバーグが担当した音楽も素晴らしかったと思う(ダニエル・ブルンバーグは「ケイジャン・ダンス・パーティ」というバンドで活動していた人らしい)。コーベット監督のデビュー作『シークレット・オブ・モンスター』は、その冒頭の「序曲」が素晴らしくて、そのサントラを何度も聴いているのだが、本作も音楽の魅力で観客をグイグイと映画の世界に引き込んでいくところがあった(ついでにつけ加えておけば、本作は『シークレット・オブ・モンスター』で音楽を担当していた故スコット・ウォーカーに捧げられている)。
「ブルータリスト」というタイトルは、建築用語の「ブルータリズム」から採られたものだ。打放しコンクリートみたいな無骨な意匠の建築様式のことらしい。ラースローというキャラの人物像は、ブルータリズムを代表する建築家のことをモデルとしている部分もあるようだが、基本的には架空の人物であり、劇中に登場する礼拝堂などを含んだ巨大なコミュニティセンターも本作のためにデザインされたものということらしい。

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芸術家とパトロンの関係
冒頭はラースローの妻であるエルジェーベト(フェリシティ・ジョーンズ)からの手紙の朗読となっている。ユダヤ人であるラースローたちは戦後の混乱の中で引き離され、ラースローだけが何とかアメリカに渡ることができたのだ。
ラースローは従兄弟のアッティラの家具屋で働き始める。そこで出会ったのがハリソン・ヴァン・ビューレン(ガイ・ピアース)という実業家だ。ラースローは彼の家の図書室を、息子のハリー(ジョー・アルウィン)の依頼で改装するのだが、ハリソンの意に沿わないことになり、仕事をクビになってしまう。それからラースローは肉体労働などで何とか糊口を凌いでいたのだが、そこに再びハリソンが現われたことで彼の運命が変わる。
ハリソンは自分の家の図書室を改装したのが、かつてはそれなりに名の知れた建築家だったことを知り、手の平を返したように自分の非を詫びることになるのだ。そして、ハリソンはラースローにコミュニティセンターの建設を依頼することになる。
ハリソンはラースローを芸術家と呼ぶ。そして、ハリソンはラースローのパトロンとして、彼を支えることになっていく。とはいえハリソンは実業家でもある。自分が好きな高級ワインのストックが十二分に揃ったから、今度は別のことに金を使おうという意図らしい。それでも工事の半ばで事故が起きた際には、躊躇なく工事を中断してしまうのも実業家らしい判断ということなのだろう。
一方で芸術家ラースローは、自分の建築についてハリソンに問われると、「すべてを説明することはできないけれど」と前置きしながらも語り出す。ラースローはそれをユダヤ人の歴史と絡めつつ話している。
戦争は多くのものを破壊した。その中でユダヤ人の多くも殺されることになったことは周知のことだろう。それでも彼が建てた建築物は残っている。ドナウ川の流れにも耐え得るように作られているとも表現する。彼は人の命は儚いけれど、建築には永続的な“何か”があると考えているのだ。そして、彼はそこに政治的な行動を喚起するためのモニュメントとしての意味合いを見出している。ラースローは自分が設計することになるコミュニティセンターに、ユダヤ人が強制的に収容された監房を組み込んでいる。それによってユダヤ人が生きた証のようなものをこの世に残そうとしているのだ。
※ 以下、ネタバレもあり!
ユダヤ人の受難の歴史
本作はハンガリーからアメリカへ渡った架空のユダヤ人建築家の姿を描くことで、ユダヤ人の受難の歴史を描こうとしている。ラースローはたまたま運よくアメリカに渡れたけれど、彼の奥様のエルジェーベトと彼女の姪のジョーフィア(ラフィー・キャシディ)はハンガリーを出ることができずにいた。エルジェーベトたちが登場することになるのは後半になってからだ。
しかもエルジェーベトは飢餓による骨粗しょう症によって車椅子生活を余儀なくされていたし、ジョーフィアは母親を亡くしたショックから緘黙症の状態にあった。また、ラースロー自身も鼻を殴られた痛みを和らげるためにドラッグに手を出し、性的にも不能になっている。それぞれ戦争は生き延びたものの、何らかの傷を負っていることが示されるのだ。
ユダヤ人はヨーロッパで迫害されてアメリカへと流れてきたけれど、そのアメリカでも歓迎されているわけではなさそうだ。ラースローの従兄弟はカトリックへと改宗したようだし、「郷に入っては郷に従え」というヤツで、アメリカに溶け込む努力が求められるということなのかもしれない。
その後のジョーフィアは言葉を取り戻すことにはなったものの、夫と共にイスラエルへと渡ってしまう。彼女は自分の居場所がアメリカにはないと感じていたのだ。同じようにラースローも自分たちがアメリカでは歓迎されていないと痛感している。そんな時、決定的な事件が起きる。

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フィクションだとすれば……
私は本作のラースローが実在の人物だと思っていたし、さらにはハリソンという人物にも実在するモデルがいるものと思っていたのだが、それは単なる勘違いで本作はフィクションだ。つまりはハリソンとラースローの関係には、脚本も書いているコーベット監督の意図がある。
これは前回取り上げた『愛を耕すひと』でも記したことだけれど、実在の人物であったならば、「事実がそうであったなら」と納得できなくもないし、受け入れるほかないのかもしれない。しかし本作はフィクションなわけで、そうなるとそこには作者の意図が絡んでくる。何かしらの言いたいことがあり、そこにはアメリカとイスラエルの関係が垣間見えてくるような気もしてくるのだ。
気になるのはラストの展開だ。ハリソンはラースローを暴力的に犯すことになる。ハリソンは芸術家としてのラースローに嫉妬していたけれど、そんな才能がありつつもドラッグに溺れて身を崩しつつあるラースローをもどかしく感じていたのだろう。それが暴力的な行為に結びつくことになってしまう。
この行動によってハリソンはラースローをさらに追い詰めることにもなるし、その行為をエルジェーベトに暴露されることになり、自滅することにもなってしまう。
そして、ラストを締めるのは、1980年の年老いたジョーフィアだ。彼女がラースローの業績を振り返ることになり、「旅路よりもたどり着いた場所が重要だ」と語る。ジョーフィアやラースローがたどり着いたのはイスラエルだったわけで、そこにシオニズム的なものを感じなくもないのだ。
もちろんコーベット監督は、イスラエルのガザで起きていることに賛成というわけではないようだ(無慈悲なイスラエルを描いたとされるドキュメンタリー『ノー・アザー・ランド』を大いに宣伝しているらしい)。それでも本作のラストは、シオニズムの運動に積極的な理解を示しているように読めなくもない気もして、未だにどう受け取るべきなのか測りかねている。
ラースローは「すべては説明できない」と語っていた。立方体をどのように説明すれば、うまく言い表すことができるのかと疑問を呈するのだ。本作にもそういうところがあるということだろうか。ユダヤ人の歴史も、ラースローが建築したコミュニティセンターだけですべてを説明することはできないし、本作の物語も同じように十分とは言えないということなのかもしれない。
そんなわけでラストには疑問を感じないではなかったけれど、本作はインターミッションも含めて長い時間を体感するような作品になっているので、劇場で観るのが一番最適だし、観るべき価値がある作品であることは間違いない。





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