監督・脚本は『ラビング 愛という名前のふたり』などのジェフ・ニコルズ。
主演は『エルヴィス』などのオースティン・バトラー。
物語
1965年、シカゴ。不良とは無縁の日々を送っていたキャシーは、ケンカ早くて無口なバイク乗りベニーと出会って5週間で結婚を決める。ベニーは地元の荒くれ者たちを束ねるジョニーの側近でありながら群れることを嫌い、狂気的な一面を持っていた。やがてジョニーの一味は「ヴァンダルズ」というモーターサイクルクラブに発展し、各地に支部ができるほど急速に拡大していく。その結果、クラブ内の治安は悪化し、敵対クラブとの抗争も勃発。暴力とバイクに明け暮れるベニーの危うさにキャシーが不安を覚えるなか、ヴァンダルズで最悪の事態が起こる。
(『映画.com』より抜粋)
女性から見たバイカーたち
公式サイトの記載によれば、本作はダニー・ライオンという写真家が出版した『The Bikeriders』からインスパイアされているとのこと。この写真集は、60年代に実在した“Outlows Motorcycle Club”というバイカー集団の日常を撮ったものだ(公式サイトでは“実在した”と過去形になっているけれど、町山智浩によればこのクラブは未だに続いているらしい)。
このダニー・ライオンという写真家はただ写真を撮るだけではなく、その被写体からインタビューもしていたようで、写真集にはそうしたインタビューも載っているらしい。本作の劇中にもダニーが登場するのだが、劇中のダニー(マイク・ファイスト)はまったく写真を撮らずに、ずっと被写体にマイクを向けて話を聞く役割を担うことになる。
ダニーはキャシー(ジョディ・カマー)という女性にマイクを向ける。キャシーは本作の主人公と言えるベニー(オースティン・バトラー)の奥様だ。
キャシーはバイクなどとは縁のない生活だったのだが、たまたま女友達に頼まれて金を届けに行った場所でベニーと出会う。そこは革ジャンに身を包んだ男臭い連中のたまり場で、キャシーはベニーに一目惚れしてしまうのだ。キャシーには彼氏もいたのだが、二人は惹かれ合うことになり、キャシーはその5週間後にはベニーと結婚する。
ベニーは無口だがケンカ早くて危なっかしい面がある。それでもバイカー集団のリーダーであるジョニー(トム・ハーディ)はそんなところが気に入っているらしい。ベニーはバイカー集団の中でジョニーの右腕として一目置かれた存在なのだ。
『ザ・バイクライダーズ』では、キャシーは言わば語り部であり、彼女から見たバイカー集団の姿が描かれることになっていく。
クラブの栄枯盛衰
劇中でも「モーターサイクルクラブの黄金時代」という台詞があったけれど、本作はモーターサイクルクラブの栄枯盛衰が描かれていくことになる。
ちなみにバイカー集団を描いた作品として有名な『イージー・ライダー』が日本で公開されたのは1970年で、本作で描かれるのはそれよりもちょっと前の時代からだ。どうやらこの間にバイカー集団の性質も変わってくるということらしい。
その『イージー・ライダー』で印象的だったのは、主人公たちがバイクで旅に出る時、時計を投げ捨てていくところだ。バイクに乗って旅に出るのは自由そのものであり、何ものにも縛られないという意識からなのだろう。
一方で『ザ・バイクライダーズ』のバイカー集団は旅に出るわけではない。シカゴという場所が基点であり、そこを離れることはないのだ。
そもそもリーダーのジョニーはトラック運転手という仕事があり、家庭を持ち、子どももいる人物だ。意外にもしっかりとした大人なのだ。ジョニーはもともとはバイクレーサーとして活躍していたのだが、そこから発展してモーターサイクルクラブを作ることになる。
一緒にバイクレースをしていた仲間には、「走りもしないで何をするのか」と揶揄されたわけだけれど、そのクラブが居場所のない若者たちの受け皿として機能することになっていく。
そもそもの目的が仲間と徒党を組むことであり、自由を求めるものとは違っていたということなのだろう。そこに一種の家族的なつながりを求めていたということなのだ。
だからだろうか、本作にはほとんど疾走感というものがない。ベニーが警察に追われて逃走する場面はあるけれど、ベニーはその後にガス欠であえなく逮捕されることになる。
また、ジョニーを先頭にした走りでも、彼らは整然と並ぶような形で虚勢を張っているだけで、無闇に危険な運転をしたりスピード狂になったりすることもないのだ。けれどもそんな最初の頃が「モーターサイクルクラブの黄金時代」だったということになるのだろう。
変質していく組織
本作のモデルとなった“Outlows Motorcycle Club”は、“Outlows”つまりは“無法者”ということになる。劇中のバイカー集団は“Vandals”と呼ばれていて、これは“破壊者”といった意味らしい。その“Vandals”は多くの若者たちを惹きつけることになり、組織は拡大していき、各地にも支部が作られるようになっていく。
しかし組織が大きくなってくるとコントロールも難しくなってくる。それまではバーでビールを飲んだくれるだけだったのに、次第にマリファナに手を出す人も増え、クラブの性質も変わっていくことになる。
マイケル・シャノンが演じるジプコという男が、ベトナム戦争に志願するもののあまりに飲んだくれていたからか、それを拒否されて“Vandals”にいると語るシーンがあった。60年代後半になってくると、そのベトナム戦争帰りの行き場のない人たちも“Vandals”に集まってくることになるのだ。
そうなると仲間と徒党を組むためのクラブが、いつの間にかギャング集団のように変わっていくことになるのだ。きっかけはいくつかあるだろう。冒頭に描かれている、ベニーがバーでトラブルに遭遇する事件もそのひとつだろう。
ベニーはカラーズと呼ばれる“Vandals”のロゴを身につけていて、それがバーの常連たちの気に障ったらしい。ひとりでいる時にはカラーズを身につけるのは危険らしいのだが、ベニーはそんなことはお構いなしだったから、そんな酷い目に遭うことになったのだ。
結局、ベニーは足を折られることになり、その仕返しのためにリーダーであるジョニーはバーを燃やすことになる。それでも地元の警察も“Vandals”たちを恐れて何の手出しもせず、放っておかれることになるのだ。若者の中には警察すら手出しできないような組織に入って暴れてみたいと思うような輩も出てくるということなのだろう。
本作は1965年あたりから始まり、70年代初頭までが描かれる。最初の頃は“Vandals”は家族的なつながりを持った集団だったけれど、70年代に入ってくると組織は拡大し、ジョニーのコントロールが効かないような状態になっていく。そして、その結末としてジョニーが殺される事件に到るというわけだ。『イージー・ライダー』で描かれたものもそういう時代だったということなのだ。
三角関係の行く末は?
本作は一種の三角関係を描いた映画とも言える。キャシーは妻としてベニーのことを心配している。そもそもキャシーは“Vandals”というクラブの活動には否定的だ。たまたま好きになってしまったのがベニーだったというだけで、キャシーはベニーのバイクに対する思い入れを理解できない。だからインタビューでも「バカな男どもが」といった調子で、どちらかと言えば冷めた目で“Vandals”の面々を見守っている。
そして、ジョニーもベニーを必要としている。彼自身がいつまでもリーダーを務められるわけでもなく、後継者は必要となる。しかし単なる年功序列みたいなやり方でリーダーを決めれば、血気盛んな若者たちを統率できるわけもない。その点で一匹狼的で危なっかしいところもあるベニーなら、リーダーを任せられるというわけだ。
つまりはキャシーとジョニーでベニーのことを奪い合う形になるわけだが、結局、この三角関係はジョニーが殺されてしまったわけで、キャシーに軍配が上がったことになる。それでもキャシー自身もベニーのことを変えられないと悩んでもいたわけで、男の側の自滅によってキャシーに勝ちが転がり込んできたという形だろうか。
破滅型の『イージー・ライダー』に対して、かなり地味で渋いラストだったと言える。それでも前作『ラビング 愛という名前のふたり』もとても地味な作品だったし(同時に心に沁みる作品だった)、ジェフ・ニコルズらしいのかもしれない。
本作はアメリカを舞台にした話だが、日本でもバイカー集団としては暴走族というものが身近に存在している。私の地元でも独自のロゴの入った革ジャンを着た若者が得意げにバイクを乗り回していた。未だに正月になると「初日の出暴走」らしき騒音が聞こえてくるので、彼らみたいな存在は何らかの文化として脈々と受け継がれているのだろう。
私自身はそういう文化とは直接的な接点はなかったけれど、暴走行為をしていて事故って死んでしまった同級生もいたし、田舎ではそっちのほうが主流だったかもしれない。かといって彼らが暴走族上がりでヤクザになったとも聞かないから、大人になると更生して真っ当に生きているのかもしれない。
そんなよくあるヤンキー上がりの更生者としてベニーを捉えると、オースティン・バトラーはあまりにカッコ良すぎるけれど……。それとも日本とアメリカでは事情が異なるのだろうか。そのあたりが気になった。
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