監督は『SKIN スキン』のガイ・ナッティヴと、『聖地には蜘蛛が巣を張る』で主役を演じたザーラ・アミールの二人。
東京国際映画祭のコンペティション部門では、審査委員特別賞と最優秀女優賞(ザーラ・アミール)の2部門を獲得した。
タイトルの「TATAMI」とは「畳」のことで、柔道における闘いのフィールドのことを意味している。
物語
ジョージアの首都トビリシで開催中の女子世界柔道選手権。イラン代表のレイラ・ホセイニと監督のマルヤム・ガンバリは、順調に勝ち進んでいくが、金メダルを目前に、政府から敵対国であるイスラエルとの対戦を避けるため、棄権を命じられる。自分自身と人質に取られた家族にも危険が及ぶ中、怪我を装って政府に服従するか、自由と尊厳のために戦い続けるか、レイラは人生最大の決断を迫られる……。
(公式サイトより抜粋)
イランVSイスラエル?
レイラ(アリエンヌ・マンディ)は、その柔道大会を順調に勝ち進んでいく。その調子なら金メダルすら狙えるかもしれない。そんな予想すら感じさせるほど調子もよかったのだが、そこに横槍りが入る。イラン政府はレイラが決勝まで突き進めば、イスラエルの選手と当たる可能性があるために、レイラに試合をボイコットすることを求めてくるのだ。
最初に電話を受けたのはコーチであるマルヤム(ザーラ・アミール)で、それはイランの柔道協会からの指示なのだが、そのバックには政府の指導者の意向があるのだ。ところがマルヤムは一度はそれを無視する。レイラがこれまで頑張って練習してきたことを知っているからこそ、そんなことはできないというわけだ(実はマルヤム自身も同じような体験をしているからということもある)。そうなるとイラン政府はさらに圧力を強めることになる。レイラの父親を人質に取るという卑劣な真似をしてまで、レイラに試合をボイコットさせようとするのだ。
『TATAMI』は実話をもとにしていて、その背景には、イランとイスラエルという、二つの国の関係がある。イランは1978年の「イラン革命」以来、イスラエルとは敵対関係にあり、そのことがイランにおける「イスラエル・ボイコット」につながってくる。
「イスラエル・ボイコット」というのは、スポーツの大会などでイランの選手の対戦相手がイスラエルだった場合、その対戦そのものを避けることだ。日本も冷戦時代には、モスクワ五輪の出場をボイコットしたことがあったけれど、それと同様に、ボイコットすることによって何らかの政治的な意思表示をしているということなのだろう。
ただ、そんなものを押し付けられる選手としては堪ったものではない。スポーツの大会が政治的な問題によって左右されることになってしまうわけで、それまで必死になって研鑽に励んでいた選手からしたら、それまでの努力がすっかり水の泡になるような出来事なのだ。
本作で描かれる競技は柔道であり、実際の舞台となったのは日本武道館だという。また、実際の事件では男性選手だったようだが、本作では女性に変更されているし、舞台もジョージアになっている。それでも本作で描かれているように、政治の都合によってスポーツ選手が理不尽な事態に巻き込まれること自体は実際に起きたことなのだ。

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イラン革命後の不自由
イランは「イラン革命」というものによって大きく変わったらしい。それ以前がどんな国だったのかを私はまったく知らないのだけれど、革命後には服装に関する取り締まりがなされるようになり、女性はヒジャブなどの着用が義務づけられることになる。
冒頭はジョージアの街中を走るバスの場面だ。外にはごく普通の今風の若者も闊歩しているけれど、イラン選手たちが乗るバスでは女性たちは全員ヒジャブをつけている。聴いている音楽などは今風なのだが、彼女たちの格好は政府の監視対象になっていて厳しく取り締まられているのだ。
イランの女性に対する服装の規定は、柔道をする時も守らなければならないらしい。とはいえ激しい動きのあるスポーツの場合、ヒジャブでは役に立たないわけで、女性選手たちは頭に頭巾めいたものを被っているために、全身タイツの上に柔道着を着ているように見えなくもない。
こうした規定がイランの女性を不自由にしていることは間違いないだろう。それに対する反対の声が噴出したのが、『聖なるイチジクの種』でも触れられていたマフサ・アミニという女性の死をきっかけにした抗議運動だったということになる。

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何のために闘うか?
たとえばオリンピックも個人の闘いではあるけれど、国別の対抗戦といった雰囲気もあるし、選手たちも「国を背負って戦う」といった言い方をしないわけではない。とはいえ、アスリートが柔道などのスポーツを何のためにやるのかと言えば、それは人それぞれとはいえ、第一に挙げられるものが「国のため」ということはないだろう。国威発揚のためにスポーツを始めましたなんてアスリートはいないはずだ。
とはいえ、アスリートが世界的に活躍するなどした場合、それを後になって国が利用するということはあるだろう。日本の国民栄誉賞も、政権与党が人気稼ぎのためにアスリートを利用しているということに過ぎない。とはいえ、このこと自体はそれほど害のあるものではないし、何の栄誉もない一介の市民が文句を言うべきことでもないだろう。
しかしながらイランの場合は、もっと直接的にアスリートに介入してくることになる。試合をボイコットをさせること自体も問題だけれど、家族を人質にとって脅しをかけてくることになるわけで、やっていることは反社会的勢力みたいなものなのだ。
イラン政府としては選手は国に選ばれているのだから、国に従うのが筋だということらしい。国のために奉公するのが当然といった言いぶりなのだ。政府の一員の言葉の中には、「選手は国のための道具」といった台詞すらあったはずだ。こんな横暴を見ていると、「国ってのは何のためにあるのだろうか?」とすら思えてくる。
本作においてはイランの敵国とされているイスラエル。ユダヤ人は1948年にイスラエルという国を建国した。それまでは「ディアスポラ」と呼ばれる状態にあったわけで、それは念願だったとも言えるわけだけれど、それによってパレスチナの問題を生じさせることになってしまっている。
ちなみに本作のコーチ役マルヤムのモデルとされるアレシュ・ミレスマイリという人物は、Wikipediaの記載によれば「パレスチナとの連帯を示すため」に試合を棄権したということらしい(これも政府に強いられたということなのだろう)。パレスチナ問題がイランが「イスラエル・ボイコット」を行う理由となっているのだ。
ところでユダヤ人がイスラエル建国を求めたのはなぜだろうか? 前回取り上げたドキュメンタリー『ノー・アザー・ランド』の時にも記したけれど、これはユダヤ人の総意ではないのだろう。だとしても、そんなふうに願う人がいたからイスラエル建国が実現したということも確かだろう。
そもそも国というのは何のためにあるのか? わかっているようでよくわからない気もする問いについてネットで検索してみると、たとえば「松下政経塾」の公式サイトでは、こんなふうに書かれている。それなりの分量の内容を思い切ってごく簡単に記せば、「国益を守るためであり、国民の生命、財産を守るため」ということになる(もちろんそれだけではないのだが)。ユダヤ人は自分たちを守ってくれるものを求めたということになる。
ところが本作で描かれるイランにおいては、国が国の役割を果たしていないとも言える。もしかすると、イランが「イスラエル・ボイコット」をすることは国益を守るためにはなるのかもしれない。それでも国民を守るためにはまったくなっていないことは明らかだろう。

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どの立場から?
そんなわけで本作はとても大事な問題を扱っているし、柔道を描いたエンタメの部分もあり、国からの脅しというサスペンスも加わって最後までハラハラさせてくれる作品になっている。それでも何か腑に落ちないところもあった。というのは、本作においてイランの敵国とされているイスラエルのことがほとんど何も触れられていないからかもしれない。
もともと本作はイスラエル人のガイ・ナッティヴが企画したものらしい。そこにイラン人であるザーラ・アミールが最初は女優として参加したはずが、最終的には共同監督という扱いになったらしい。私は最初はこれを「とても麗しい話」として受け止めていた。前回取り上げた『ノー・アザー・ランド』が、パレスチナ人とイスラエル人という敵対する国同士の監督たちの共同作業によって製作されたように、本作も敵国にいる二人がひとつの目的のために協力し合っているからだ。
ところが本作を鑑賞後には、ちょっと印象が変わった。というのは、本作においてはイスラエル側に関してはほとんどノータッチだからだ。レイラがイスラエル側の選手と親しく語り合う場面が最初のほうにあり、国同士が対立してようとも、アスリート同士は関係ないということは示されるものの、それ以降はイスラエル側のエピソードは何もないのだ。
本作で丁寧に描かれるのは、イラン政府の汚いやり口ばかりで、それに選手であるレイラやコーチのマルヤムも翻弄されることになる。そして、レイラもマルヤムも最終的にはイランという国を捨てることになる。さらに言えば、それは劇中の話だけではなく、本作に参加したイラン側の人たちもすべて亡命することになったらしい。このこともまた『聖なるイチジクの種』の場合と同じで、イラン政府に批判的なことを描けば、国を捨てるほかないということになる。
ただ、そこにイスラエルはどう関わってくるかということになると、ほとんど関係ないようにすら見えてしまう。もし本作がイランから亡命した人たちが製作した映画ということならば、イスラエルが単なる敵国として描かれるだけだったとしても、故国を糾弾する映画としてすんなりと受け入れられる気もする。しかし、本作の場合は、発端がイスラエル側の監督からというところが解せない気がしてしまうのだ。
もちろんこの柔道の試合に関して、イランが「イスラエル・ボイコット」をしたということに関しては、イスラエルに非はないのだろう。だとしても、イスラエル人監督が関わっていて、イランとの敵対する理由について何も触れないというのは、片手落ちのように感じてしまう。パレスチナの問題があればこそ、イランはイスラエルに対して否定的なのだろうし、そのことをまったく無視して一方的にイラン政府ばかりをこき下ろすのはどうなんだろうか……。イラン政府がやっていることが問題なのは言うまでもないのだけれど、それを非難するのだとすれば、自分の立場についても反省的でなければいけないんじゃないかという気もする。その点においてモヤモヤしたものが残ってしまうのだ。
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