原作は哲学者・宮野真生子と人類学者・磯野真穂の往復書簡として発売されたもの。
監督・脚本は『ドライブ・マイ・カー』の濱口竜介。
主演は『ベネデッタ』のヴィルジニー・エフィラと、『ウルヴァリン:SAMURAI』の岡本多緒。カンヌ国際映画祭では二人揃って女優賞を獲得した。
物語
パリ郊外の介護施設「⾃由の庭」の施設長であるマリー=ルー・フォンテーヌは⼊居者を⼈間らしくケアすることを理想としつつ、人手不足やスタッフの無理解などに悩まされている。そんな中、マリー=ルーは森崎真理という日本人の演出家に出会う。がん闘病中の真理が演出するのは、自閉スペクトラム症の孫・智樹と行動を共にする俳優・清宮吾朗の一人芝居。真理の描く演劇に勇気をもらったマリー=ルー。同じ名前の響きを持つ偶然に導かれて、二人の交流が始まる。しかし、あるとき真理は「急に具合が悪くなる」。真理の病の進行とともに、二人の関係は劇的に深まり、互いの魂を通わせ合うようになる……。
(公式サイトより抜粋)
時間感覚の不思議
本作には原作があるのだそうで、それが同名の往復書簡集である『急に具合が悪くなる』という本だ。この本は宮野真生子という哲学者と、磯野真穂という文化人類学者の共著で、10回に渡る手紙のやり取り(だから20通の手紙ということになる)を本にしたものらしい。
私自身は原作を読んでないので推測でしかないけれど、映画版は濱口竜介監督がそこから得たものからかなり自由に物語を構築しているようだ。映画『急に具合が悪くなる』の場合は、手紙のやり取りなどではなく、偶然に出会った二人の長い長い会話が大きな要素を占めることになるのだ。
二人は偶然出会い、それから再会し、歩きながら会話をし始め、何度かの中断を挟みながらも延々と話し続け、朝を迎える。本作は基本的に会話劇であり、長い会話が続くことになるけれど、なぜか退屈することはない。上映時間は196分という長尺だったけれど、それをほとんど感じさせないようなところがあるのだ。
二人は再会した後ほぼ半日ずっと話し続けていることになるけれど、劇中で「(再会してから)まだ半日も経ってないなんて」と感想を漏らしている。時間の感覚というものは不思議なもので、二人がずっと話していても飽きることがなかったように、観ている側も196分という時間が苦にならないような作品になっているのだ。

© 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners
偶然の出会い
最初はマリー=ルー(ヴィルジニー・エフィラ)の話から始まる。彼女は介護施設「⾃由の庭」の施設長として、施設を改革しようとしている。その技法が「ユマニチュード」というもので、これはフランスで発祥した技法として実際にあるものらしい。ただ「ユマニチュード」の推進に当たっては、施設の古参看護師からの反発もある。
「⾃由の庭」の入居者の多くが認知症を抱えている。認知症患者の時間感覚は直線ではなく、点線になっているという。意識が過去に向っていたりすることがあるのだ。そんな意味で認知症患者の視野は狭くなりがちで、そうした患者に対応するにはある種の技術が要求される。
「ユマニチュード」というのは認知症患者を「もっと人間的に扱おう」とするもので、そうすることで患者の抵抗を少なくさせる効果があるとされる。逆に言えば、認知症患者が何も理解していないとして雑に扱うことは、その抵抗を増大させることになってしまう。
マリーは「ユマニチュード」を推進することで、最終的には理想的な施設になると考えているけれど、それは簡単な仕事ではない。マリーは自分のやっていることが「不可能を可能する」ような難題だと感じ、それに疲弊し切ったような状況にあったのだ。
そんな時、マリーは偶然に真理(岡本多緒)と出会う。重度の自閉症患者である智樹(黒崎煌代)がひとりで走り回っているのを見て、彼を放っておけなかったからだ。その智樹の保護者である清宮(長塚京三)と一緒に居たのが真理だったのだ。
真理は舞台演出家として活動している人で、マリーは後日、同僚に「とにかく休め」と言われて彼女の演劇を観に行くことになる。そこで二人は再会し、それが長い長い会話につながっていく。

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「不可能を可能にする」
真理の演劇は前衛劇だ。基本は清宮のひとり芝居なのだが、そこにハプニング的に智樹が乱入する形になっている。この演劇のタイトルは「近づいてみれば、誰もまともな者はいない」というものだ。
実はイタリアには精神病院というものがないのだとか(この指摘には驚いた)。その改革を推し進めたのがフランコ・バザーリアという人で、清宮はその人を演じることになる。
バザーリアという人は「健康な者たちは本当に生きているのか」と問うたらしい。謎めいた問いだ。これを逆に言えば、「不健康な者こそ本当に生きている」ということになるのかもしれない。とにかくバザーリアという人はわれわれが当たり前と思っていることに疑問を投げかけたらしい。
精神病を抱えた人は閉鎖病棟に閉じ込められる。そういう扱いがほかのどこの国でも行われていて、日本も同様だ。そうした当たり前に疑問を投げかけ、それをぶち壊そうとしたのがバザーリアなのだ。
バザーリアは「近づいてみれば、誰もまともな者はいない」ということを明らかにして、健康な人とそうでない人という境界を取っ払ってしまったというわけだ。本作ではそんな内容が前衛劇として演じられる。
それがマリーの心に響くことになる。バザーリアという人がやったことは「不可能を可能にする」ことであり、それは自分のやっている施設の改革とも通じ合うことだと思えたからだろう。
そんな演劇を創作した真理は、実は余命わずかなのだという。真理はがん患者で「急に具合が悪くなる」可能性があるとマリーに告げるのだ。
真理が「不可能を可能にする」ような芝居を書いたのは、彼女の最後の「悪あがき」のひとつということになる。彼女自身も不可能を可能にしたいと考えていたからだろう。そんなふうにしてマリーと真理は再会するのだ。
世界の構造分析
それから二人はパリの街を歩きながら語り始め、あっという間にソウルメイトとでもいうべき存在になっていく。マリーは文化人類学を学んでいたけれど、今では介護施設の施設長になっていること。一方の真理は、かつては哲学を学んでいたけれど、今はその実践として演劇をやっていると語る。
そして、真理がマリーの職場である「⾃由の庭」の様子を見るなどした後に、真理は世界の構造というものに関する考察を始めることになる。これは大学の授業のようにわかりやすく、世界の現状を分析したものになっていて興味深いものがあった。
それは端的に言えば、「資本主義の限界」とも言える。資本主義というものは「now/here(今/ここ)」というものを特権化する。そして、それ以外のものを外部とする。外部というものは色々あるけれど、その代表が自然ということになる。
かつてはこの外部は限りないものとされていた。自然というものは浄化装置のようなもので、それは永遠に続くものだと思われていた。ところが資本主義の限りない自己増殖は、それを破壊してしまう。
資本主義による自然破壊というテーマは、前作の『悪は存在しない』でも取り上げられていた。本作はそうしたものを真理がホワイトボードで図を描きながら、わかりやすく説明してくれるのだ。
資本主義というものは外部をどんどん喰いつぶしていく。そうしたことが戦争にもつながっていくし、劇中で言及されたわけではないけれど外部を広げるために宇宙に進出するということにもなっていくのだろう。真理の語る世界の現状分析は、まさしく現実世界の分析としてとてもわかりやすいものになっているのだ。
資本主義において特権化される「now/here」というものは、続けて読めば「nowhere(どこにもない)」になるというもの面白い(劇中でそれには触れられないけれど)。劇中では「今/ここ」はどんどん小さくなっていくとされていたけれど、それは本当は「どこにあるのだろうか?」と疑問を呈しているということなのかもしれない。

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語り尽くせぬ想い
真理の世界に対する現状分析も「不可能を可能にする」ということにつながっていく。真理はマリーから質問を受けた時、「不可能を可能にすることはできません」と応える。しかしその後に、こんなふうに付け加える。「一度可能になると、それが不可能だったとは思えなくなるものだ」というのだ。
たとえばマラソンの記録について考えてみる。男子マラソンの記録の推移を見てみると、1970年から1980年半ばまでの長い間、世界記録は2時間8分台から動くことがなかった。誰もが人間がそれ以上速く走ることは不可能だと感じていたのかもしれない。
しかし誰かがその壁を突破すると、一気に記録の更新が続くということがある。誰かができたことならば、自分にもできるかもしれないと思えるようになるからだ(これに関しては大澤真幸がどこかで記していた)。それまで不可能と思えていたことが、不可能ではなくなるということがあるのだ。
結局、真理には「急に具合が悪くなる」時がやってくる。そこから先はあっという間に病気が進行していくことになる。それでも真理はマリーと一緒に最後の「悪あがき」をすることになる。真理は一度は地元の京都に戻るものの、最終的にはマリーの施設でケアを受けながら最期を迎えることになるのだ。そして、真理が施設にやってきたことが、マリーが推進する「ユマニチュード」にとっても重要な役割を果たすことになる。
ちなみに施設でマリーに反発していた看護師のソフィ(マリー・ビュネル)の態度を軟化させることになったのは、マリーのソフィに対する態度の変化があったからだろう。二人の対立は、理想と現実ということでもある。マリーが理想論を語り、ソフィは現実的にそれを否定する。マリーは一時はソフィを切ろうと考えていたのかもしれない。しかし彼女は同僚の助言や、真理からの指摘もあって態度を変える。
そもそも「ユマニチュード」というものは認知症患者をより人間らしく扱うというものだった。しかしながら、マリーはソフィのことを仕事上のつき合いとしてしか見ていなかったとも言える。「ユマニチュード」の目的は患者からの抵抗をなくすことにあったわけで、ソフィの人となりを知ることで、ソフィからの抵抗をなくすことに成功したということだったのだろう。
そして、真理のやったワークショップは「ユマニチュード」で重要なこととされる「触れる」ということを取り入れている。真理はいつも仕事ばかりで不眠症状態にあるマリーに対して足裏マッサージで身体をほぐしてやる。そうしたものを応用したのがみんながそれぞれの足裏をマッサージするという奇妙なシーンなのだが、身体性というものの重要性が示されているということなのだろう。
ラストではかつては看護師の制服らしきものを着ていたソフィたちも私服になっていて、施設内での患者と看護師という境界も曖昧な形になっていた。真理は亡くなってしまうけれど、彼女の助力もあってマリーは「不可能を可能にする」ということに成功したのだ。
カンヌ国際映画祭で共に女優賞を獲得したヴィルジニー・エフィラと岡本多緒。二人はそれぞれの母国語以外の言葉まで流暢に話していて、言葉の境界も越えていた。ここには二人の努力があることは間違いないわけだけれど、濱口メソッドと呼ばれるやり方が功を奏しているということでもあるのだろう。
とりあえず一度観ただけで、今のところ書けることはこんなところだろうか。けれどもまだまだ汲み尽くせていないところがありそうで、真理がマリーとずっと話しつづけていたいと感じていたように、語り尽くしたと思うにはほど遠い気がする。そんな不思議な魅力がある作品になっているのだ。




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