『家族を想うとき』 ケン・ローチの“怒り”再び

外国映画

『麦の穂をゆらす風』『わたしは、ダニエル・ブレイク』などのケン・ローチ監督の最新作。

脚本は『カルラの歌』以来、ケン・ローチとコンビを組んでいるポール・ラヴァーティ

原題はSorry We Missed You。これは主人公が携わる宅配業における不在票の定型文句。

物語

マイホームを持つ夢のために宅配ドライバーとして独立することにしたリッキー(クリス・ヒッチェン)。そのために妻アビー(デビー・ハニーウッド)が使っていた車を売り払って配達用のバンを購入する。

リッキーの宅配業務は激務で、1日に14時間も拘束されることになる。さらにアビーは車がなくなったため移動はバスになり、家を空ける時間が多くなる。そうなると家にいる子供たちとも顔を合わせる時間もなくなっていき……。

すべては家族の幸福のため

リッキーが宅配ドライバーを始めるきっかけは、マイホームが欲しかったから。リッキーたち家族はかつてマイホームを持っていたのだが、2008年のリーマン・ショックの余波もあり銀行の取り付け騒ぎに巻き込まれ、賃貸暮らし余儀なくされる。

いつ追い立てを食らうかわからない賃貸よりもマイホームを、そんなふうに願うのはもちろん家族の幸福のためなのだが、そのための仕事がリッキーたちを追い込んでいくことになってしまう。

仕事に忙殺される両親が家を空けるなか、12歳の娘ライザ・ジェーン(ケイティ・プロクター)は寂しさを募らせ、16歳の息子セブ(リス・ストーン)は夜遊びに出かけてトラブルを起こすようになっていく。

(C)Sixteen SWMY Limited, Why Not Productions, Les Films du Fleuve, British Broadcasting Corporation, France 2 Cinéma and The British Film Institute 2019

搾取の新しい形

リッキーが宅配ドライバーとなったのは、大手宅配業者とのフランチャイズ契約に希望を見出していたからだ。本部の社員であるマロニー(ロス・ブリュースター)が語ることには、企業側はリッキーという個人事業主と契約を結ぶことになる。企業側はある一定の約束事を課すのだが、それを請け負う個人事業主はやる気次第で稼ぐことができるのだという。

しかし、実態はまったく違ったようだ。配達物は絶えることがなく、指示された時間に間に合わせるために常に時間に追われ、トイレに行くこともままならぬ状況が続くことになる。ドライバーの動きは携帯するスキャナーによって管理され、すべてが監視されている状態になる。

しかも欠勤など仕事に穴を空けると罰金が科せられる。ドライバーは個人事業主という設定だから、仕事の穴はドライバー自身が誰か別の人を雇うなどして対処しなければならないのだ。さらに仕事上のトラブルで負った損害などもすべて自己責任ということになる。

つまりフランチャイズ契約というのは、企業側が約束事を課しながらも、自分たちのリスクは回避できる、企業側にとってうまみがある設定なのだ。

こうしたことは日本でも話題になっている。最近、自転車で街を走り回るUberEatsの配達員の姿を頻繁に目にするようになった。UberEatsは、配達員と個人的に契約することになるのだが、配達員は企業に属しているわけではないから、配達中に事故に遭ったとしても何の補償もないのだ(今年10月から「傷害補償制度」も導入されたようだが)。それどころか同じようなことがあればアカウントが停止になり、仕事ができなくなるといった脅しのようなメールがくるのだとか。

“ギグ・エコノミー”という「インターネットを通じて単発の仕事を受注する働き方」は、働き方が変わることで一見すると自由度が増すように見えるのだが、労働者は企業に属することがないために、すべてが「自己責任」の名の元に労働者個人に押し付けられることになる。企業側は使い捨ての労働力だけを搾取し、責任に関しては放棄しているというのが実態なのだ。

(C)Sixteen SWMY Limited, Why Not Productions, Les Films du Fleuve, British Broadcasting Corporation, France 2 Cinéma and The British Film Institute 2019

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ケン・ローチの“怒り”再び

リッキーの家族には何の問題はなさそうに見える。リッキーは頭は悪くても頑張り屋だし、アビーは介護する人に対する気配りができる人格者だ。家族仲もよくて、一家が揃っての夕食中にアビーが介護の仕事で呼び出されたときには、家族みんなでバンに乗ってそこまで駆けつけたりするほど心優しい人たちなのだ。

そんな真っ当な家族が精一杯働いていながら普通に暮らしていくことができない。これはどこかおかしいと思うのが普通だろう。ケン・ローチは、前作『わたしは、ダニエル・ブレイク』でも、助けを求めている弱者に対する役所の不人情な扱いに“怒り”を露わにしていたわけだが、本作でもリッキーのような真っ当な人々が置かれている状況に“怒り”を感じているようだ。

ただ、その“怒り”の矛先は『ダニエル・ブレイク』ほどわかりやすくはない。本作でリッキーを苦しめることになるのは、企業の本部社員であるマロニーが科す罰則だ。マロニーは暴漢に襲われてケガをしたリッキーに、その時に壊れた携帯用のスキャナーの損害代を請求し、アビーから暴言を浴びせられることになる。確かにマロニーのやり方は極端だし不人情なのだが、結局は彼も企業に雇われたひとりに過ぎない。

マロニーが言うように、携帯用スキャナーを活用して1分1秒を争うような仕事をしていかなければ、ライバル会社に仕事を奪われ、企業としては死活問題になるということも確かなのだろう。だからリッキーが直面している問題を根本的に解決するとするならば、資本主義というシステム自体が問題があるということになる。

実際にケン・ローチはインタビューでこんなことを語っている。

114時間、くたくたになるまで働いているバンのドライバーを介して買った物を手に入れるということが、持続可能なシステムなのか?友人や家族の関係性までに影響を及ぼしてしまうほどの、プレッシャーのもとで人々が働き、人生を狭めるような世界を、私たちは望んでいるのだろうか?資本主義のシステムは、金を儲けることが目的で、労働者の生活の質には関係がない。ごく普通の家族が、ワーキング・プアに追い込まれてしまう。だから登場人物に共感し、彼らと共に笑い、彼らの問題を自分ごとのように感じて欲しい。

希望はあるのか?

ケン・ローチの“怒り”には共感するし、リッキーの姿に同情を禁じ得ないのだが、その“怒り”の矛先はもはや「革命」でも起きない限り変えることは難しいんじゃないかという気すらしてしまう。もっとも「左翼」を自認するケン・ローチはそのつもりなのだと思うのだが、現実的には相手はデカすぎるようにも感じられた。もちろんケン・ローチはそれを理解しているからか、本作も前作以上にシビアな終わり方になっている。

ラストでリッキーは暴漢に襲われケガをした身体に鞭打って仕事に向かう。家族の制止を振り切っていくその姿は、何のための仕事なのかという点で本末転倒にも感じられ、リッキーの先行きにはとても希望が見出せるとは思えない終わり方だった。

リッキーはそれでも自分の頑張りで損害を取り戻せると感じていたのかもしれないのだが、身体はそこまで無理は利かないだろう。実際にリッキーのモデルとなった人物は、病気を患っていたのにも関わらず罰金を恐れて仕事を休むことをせずに、その後、亡くなってしまったのだという。

原題のSorry We Missed Youは、宅配業者が使用する不在届に書かれている定型文だが、遺された家族がリッキーに対して贈った言葉のようにも見えてくる。

その意味では、娘のライザ・ジェーンが配達用バンのキーを隠したエピソードは、幼い彼女が問題のありかを的確に把握していたということでもあったのかもしれない。リッキーは最後までその仕事に執着して身を亡ぼすことになってしまうわけだが、娘はそこに問題があることを見抜いていたのだ。

また息子のセブがトラブルを起こしてしまうのは、将来に対する不安があるからなのだろう。父親リッキーは真っ当に働いているわけだが、それでも報われるということがない。このままでは自分も父親の二の舞となるのは目に見えている。かといって別の道があるようには見えない。

そんな先行きに対する不安がトラブルの要因となっているわけで、どこかに希望が見出せなければその不安も解消しようがないのだろう。しかし、本作の突き放したような終わり方と同じで、今のところそれは見えていないようだ。何とも暗澹とさせる作品なのだが、前作でも感じたようにこれが現実のあり方なのだろう。

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