監督・脚本は『熊は、いない』のジャファル・パナヒ。
カンヌ国際映画祭ではパルムドールを受賞した。パナヒはこれで世界三大映画祭のすべてで、最高賞を受賞したことになる。
物語
かつて不当に投獄されたワヒドは、ある偶然の事故によって、⼈⽣を奪った残忍な義⾜の看守と出会う。
ワヒドは咄嗟に男を拘束し、荒野に⽳を掘って埋めようとするが、男は「⼈違いだ」と⾔う。
実はワヒドは、看守の顔を⾒たことがなかった。男は、本当に復讐相⼿なのか?
⼀旦復讐を中断し、看守を知る友⼈を訪ねるが・・・。
(公式サイトより抜粋)
パナヒ監督自身の体験
『シンプル・アクシデント/偶然』の主人公ワヒド(ワヒド・モバシェリ)は、政府によって不当に投獄された経験を持つ。この経験は本作の監督であるジャファル・パナヒとも重なってくる。
パナヒ監督はかつて撮った映画が反体制的だとされたのか、何度も逮捕され投獄されたらしい。そんなパナヒ監督自身が登場する『人生タクシー』という作品では、劇中でパナヒは「尋問官(=看守)の声を常に捜している」などと漏らしている。
「声を捜している」というのは、尋問されている時は常に目隠しをされていたから、その相手のことを知る手がかりは声しかなかったということであり、このこともワヒドとまったく同じなのだ。つまりはワヒドはパナヒをモデルとして出来上がったキャラなのだろう。
そんなワヒドは自分の人生を奪った張本人と考える義足の男(エブラヒム・アジジ)と偶然に出会うことになる。ワヒドは拘束された際に暴力を受け未だに苦しんでいる。さらには奥さんまでも自殺に追い込まれることになってしまったのだという。だからワヒドは義足の男を見つけると衝動的に行動してしまう。ワヒドは義足の男を拉致して殺そうとするのだ。

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復讐に正当性はあるか?
ところが義足の男は「人違い」だと言い出す。実際に身分証明書には、かつてワヒドを苦しめたエクバルという男ではない別人の名前が書かれている。ワヒドもその男がエクバルだという確信を持つことができずに、同じように拘束された人に助けを求めることになるのだが……。
同じ境遇の人たちが集まってわかることは、みんながエクバルを憎んでいるということだろう。もちろん彼を憎んでいても対応は様々で、関わらないほうが得策だと考える人もいれば、殺すことを主張する者もいる。
どちらにしてもエクバルがやったことは、ワヒドやほかの人たちに大きな傷を与え、彼らの人生を変えることになるほどの出来事だったのだ。
暴力的言動やセクハラ、さらには首に縄をかけて死刑にされる極限の恐怖を味わわされたことすらあったようだ。ちなみに『人生タクシー』には、「イランでの死刑は中国に次いで多い」という台詞もあり、そうした状況下では死刑の真似事は冗談にはならないことなのだ。
復讐をすべきか否か。もし暴力に訴え、復讐を遂げたとすると、自分たちもエクバルと同じことをしていることになるのではないのか。
同じ境遇にある者たちの中でも意見は割れ、中盤はドタバタ劇の様相を呈することになる(結婚式前のウェディングドレスの女性が混じっているのも奇妙だし、ワイロのやり取りがクレジット払いというのも笑える)。義足の男を埋めるための穴を掘った場所には、一本の木が立っていて、まるで『ゴドーを待ちながら』の風景のようになっている。
『ゴドー』では待っている当人たちも、ゴドーが何者なのかを知らなかった。知らないからゴドーがやってきても、それを誰もゴドーを確認できない。それでも何かがやってくるのを延々と待ち続ける。そんな不条理劇みたいに滑稽なところが本作にはあるのだ。

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現体制への恨み節?
『シンプル・アクシデント/偶然』が熱を帯びてくるのは、後半の長い会話の部分だろう。この長回しのシーンでは、ワヒドと同じ境遇の女性シヴァ(マルヤム・アフシャリ)とが、義足の男と舌戦を繰り広げることになる。
この場面が熱を帯びるのは、その台詞にパナヒ監督自身の恨み節も混じっているからだろうか。自分の人生を奪った相手に対しての罵倒や、イランの現体制に対する不満。そうした熱のこもった舌戦の末に義足の男は自らをエクバルだと認め、最後にはワヒドたちに謝罪をすることになるのだ。
エクバルは「自分が生きるためにはそうするほかなかった」と語る。要は前半にもすでに言われていたことではあるけれど、「悪いのは体制であって個人ではない」ということなのだろう(もちろんそうは言っても、簡単に割り切れる話ではないけれど)。エクバルのような立場に置かれた人はそんなふうにならざるを得ないということなのだろうか。
このエクバルの言葉を聞くと、冒頭のエピソードが特別な意味を持ってくる。本作の冒頭に登場するのはエクバルとその家族で、エクバルは夜中に車を運転していて野良犬を間違って轢き殺してしまう。それに対して「夜道が暗いから仕方ないのだ」と言い訳するのがエクバルだったのだ。
このエクバルが殺した野良犬は、現体制が虐げている庶民の姿なのだろう。だから先ほどの言い訳を言い換えれば、「現体制がこんな状態だから庶民が苦しんだとしても仕方がないのだ」ということになるだろう。エクバルは意図してそうしたわけではないのかもしれないけれど、自分が生きていくために反体制派と思しき人々を拷問せざるを得なかったと自己弁護しているわけだ。
昨年のイラン映画『聖なるイチジクの種』でも同じようなことが描かれていた。この話は、ある一家の話ではあるけれど、その一家はイランという国の縮図になっていた。そして、その家の家長は次第に狂っていくわけで、イランという国のトップも狂っているということが仄めかされていた。というよりも、トップに立つとそうならざるを得ないということなのかもしれない。エクバルもそうした立場にあったということなのだろう。

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未来を見据えて
先ほど私は「パナヒ監督の恨み節が混じっているのかも」などと記したけれど、町山智浩によれば本作はそういう作品ではないということらしい。
パナヒ監督はこんなふうに語っているのだとか。今のイランの体制は早晩崩れることになるのは明らかで、この映画はその後のことを見据えているというのだ。確かに、ラストにはパナヒ監督の希望が込められていたようにも感じる。
ワヒドは最終的にはエクバルを放免することになる。しかしそれは、エクバルからの報復の可能性を残しているということでもある。そして、ラストシーンではワヒドの家にあの義足の音が響くことになる。エクバルは何をしにそこにやってきたのか?
それについての明確な答えが示されることはないものの、私には近づいてきた義足の音が最後に少しずつ遠ざかっていくように聞こえた。エクバルはワヒドに対して権力を行使することも可能なのだろう。しかし、彼をそれはしないことを選択した。そんなふうにも感じられたのだ。
ワヒドは復讐を思い留まり、エクバルも報復をすることはない。もしかするとこうした対応は現実的ではないのかもしれないけれど、ここには現体制が崩れた後のイランに対する希望が込められているということなのだろう。





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