監督・脚本は『ミッシング』の𠮷田恵輔。
主演は『宮本から君へ』の一ノ瀬ワタル。
物語
元半グレで元受刑者の西健吾(一ノ瀬ワタル)は、更生施設「みらいの里」を運営し、非行少年や引きこもり、家庭に問題を抱える子供たちと向き合っている。中学校教師の草野冬子(夏帆)は荒れた教室に苦悩し、「対話ではどうにもならいない子供とどう向き合えばいいのか」と自問していた。なかでも他者の痛みを理解できず、暴力や犯罪を繰り返す生徒・澤海斗(上阪隼人)に頭を抱えていた。冬子は「みらいの里」の存在を知り、両親に伝えて海斗を施設へ預ける決断をする。反発し暴れる海斗だったが、共同生活の中で次第に変化の兆しを見せ始める。しかし彼は施設を脱走し再び事件を起こして逮捕される。さらに西の過去も明るみに出て、施設の運営は揺らいでいく……。
(公式サイトより抜粋)
「救えないが、見捨てない」
一ノ瀬ワタルを初めて知ったのは『宮本から君へ』だったのだと思うけれど、元ラガーマンという役柄がとてもマッチしていて、身体自体が凶器みたいに思えた。そんな怖い存在の一ノ瀬ワタルが演じるのが、本作の主人公である西だ。
西はかつては半グレで服役などを経験した後で更生したという人物だ。そんな西は夜中の繁華街で夜回り先生みたいなことをしている。街中で屯している若者たちに声をかけるなんてことは、結構危なっかしいことだ。「お節介な親父」と思われたら突っかかってくることだってあるだろう。
それでも西はそんなことには怯まない。これまでの経験からしても、そんな若者たちが怖いなどということはあり得ないのだろう。「彼らがそれ以上悪い方向へと進まないように」という親心みたいなものがそんな行動をさせているのだ。
「救えないが、見捨てない」というのが『四月の余白』のキャッチコピーだ。西は更生施設「みらいの里」を運営し、不良少年などに寄り添っている。西のやっていることは簡単ではないだろう。それでも決して見捨てることはなく、ずっと彼らに寄り添おうとしているのだ。

©2025 N.R.E
人の痛みがわからない若者
「己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ」ということは、『論語』に教わらなくても当たり前のこととも思えるのだが、そうした当たり前ということが通じない少年がいる。それが海斗(上坂隼人)という少年だ。
母親(占部房子)すら海斗から暴力を受け、彼のことを怖がっている。担任の草野(夏帆)も海斗にはお手上げだ。対話ではどうにもならないような状態なのだ。そんな子供とどう接すればいいのか。草野はそれに悩み、西の存在を知る。
西のやり方は型破りというか今風ではない。今では「暴力は絶対にいけないもの」とされている。それでも対話ではどうにもならないような少年もいる。そういう人と相対する時、暴力が必要となる時もある。西はそんなふうに考え、それを実行しているのだ。西は時に不良少年を力で抑えつけることもある。そうしなければ何も変わらないと考えているのだ。
だから西は一般的な教育関係者からの評判がよくない部分もある。しかし「あくまでも対話で」といった一般論が海斗のような少年に通じるとは思えないわけで、それでも少年の更生を願うとすれば西のようなやり方しかないような気もしてくるのだ。

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文化的雪かき
劇中の西の姿を見ていると、何だかちょっと居心地が悪い気がする。あの怖い一ノ瀬ワタルが更生した善人という役柄を演じているということもあるけれど、それだけでもない。西という人は誰に頼まれたわけでもないのに厄介な仕事を進んで引き受けているのだ。
村上春樹はどこかで「文化的雪かき」という言葉を使っていたけれど、西のやっていることはそういうことなのだろう。子供の躾は誰がするのか? もちろん親がそれを最初に担うわけだが、家庭環境に問題のある場合もある。そうなるとそのツケは学校に回ってくる。劇中の草野は海斗のせいで疲弊し切っている。労力の多くがそういう問題児に使われることになってしまうのだ。
しかしながら、学校にはほかに多くの生徒がいるわけで、一人の問題児にすべての労力を割くわけにはいかない。学校の先生にすべてを押し付けることには無理があるのだ。だからその代わりに西のような存在が必要になる。
誰も海斗のような問題児に関わりたくはないかもしれない。とはいえ社会のルールとしても、問題を起こした人間が「一発アウト」になるわけではない。西が更生したように、人間にはそうしたことが可能だとされている。それが建前だとしても社会のルールがそうなっているとしたら、海斗のような子供を放っておくわけにはいかないということになる。
「文化的雪かき」は誰かがやらなければならないことなのだ。西が引き受けている役割はそういうことであり、だからこそ何だか居心地が悪い気がするのかもしれない。
人は変われるのか?
では、海斗は変わることができたのか? 西はほとんど海斗を拉致するような形で施設へ放り込む。そこは学校とは違う場所だ。海斗は学校では好き勝手をすることができたけれど、施設はそうではない。殴ろうとしたら逆に殴られてしまうような場所なのだ。恐らくそういうことは海斗はそのうち知ることになったのだろう。しかしそれが未来の刑務所の中と、今の施設の中では、雲泥の差ということがあるのかもしれない。西はそういうことを未然に防ごうとしているのだ。
本作の中で明確に海斗が変わったと示すものはないとも言えるけれど、ラストでその萌芽みたいなものは感じさせることになる。その意味では西のしたことは無駄ではなかったとは言えるけれど、物事がスッキリと解決するわけでもない。
西はかつて人を傷つけた。そのことは服役して罪を償ったとしても消えるものではない。やったことは決して消えないのだ。だから西は劇中で何度も非難を浴びることにもなる。実は海斗の父親・洋平(篠原篤)は、若い頃に西とケンカして足を潰されたらしい。洋平はそのことで西を非難することになるけれど、西はその批判を甘んじて受けるしかないのだ。
さらに中盤あたりでは、西は週刊誌のバッシングの対象となってしまう。実はその記事は、記者の取材不足による誤った記事であることが明らかになるのだが、西はそれについて何の反論もしない。施設もそのことで運営が不可能になってしまったけれど、そうしたことも自分の過去が招いた結果だと西は受け入れているようでもある。だからこそ西は、不良少年たちに決定的な失敗をする前に真っ当な道を行くことを勧めているというわけだ。

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手痛い指摘
ほかにも西を非難する人はいる。施設に暮らしていた少女(山﨑七海)は、西がやられた側の立場がわからないと指摘する。西はかつて暴力を振るう側だったわけで、荒れる少年の気持ちは理解できたとしても、やられた側のことを理解できないところがあるのだ。この指摘は西にとっては手痛い指摘だろう。
結局、西はやられた側に対しては何もできない。海斗の父親に罵倒されても、土下座したりはするものの結局やってしまったことは取り返しがつかないのだ。これはそういうものとして受け入れるしかないということなのかもしれない。
それでも本作では、西とは違うところでやられた側の姿を描いている。それが海斗の父親・洋平の姿だ。障害を抱えて卑屈になっていた洋平だけれど、海斗に「ダサい」と非難されたことがきっかけだったのか、そこから立ち直りそうなところが垣間見えたのだ。
洋平はやられた側になってしまったこと、それについての恨みつらみばかりを抱えて生きてきた。それでもそれは何の解決にもならないし、自分をダメにしているだけだとようやく気づいたらしいのだ。物語的には西の行動が洋平の立ち直りのきっかけになったほうが良かったのかもしれないけれど、それだと非現実的なエピソードになってしまうのかもしれない。やはり物事はそう簡単には片付かないものなのだろう。
個人的には、洋平を演じた篠原篤と一ノ瀬ワタルの組み合わせがキモだった。卑屈な被害者と、それに頭が上がらない加害者。こうした関係に変化が生じることはあるのだろうか?



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