監督・脚本は『悪は存在せず』のモハマド・ラスロフ。
本作はカンヌ国際映画祭で審査員特別賞を獲得したほか、米国・アカデミー賞では国際長編映画賞にノミネートされている。
物語
市民による政府への反抗議デモで揺れるイラン。国家公務に従事する一家の主・イマンは護身用に国から一丁の銃が支給される。しかしある日、家庭内から銃が消えた——。
最初はイマンの不始末による紛失だと思われたが、次第に疑いの目は、妻、姉、妹の3人に向けられる。誰が? 何のために? 捜索が進むにつれ互いの疑心暗鬼が家庭を支配する。そして家族さえ知らないそれぞれの疑惑が交錯するとき、物語は予想不能に壮絶に狂いだす——。
(公式サイトより抜粋)
本作の背景について
『聖なるイチジクの種』の公式サイトには、モハマド・ラスロフ監督による「声明」が掲載されている。そこには本作が誕生した経緯が記されている。モハマド・ラスロフ監督はイラン政府に対して批判的な映画を作ったとして逮捕される寸前だったようで、何とか逃げ出して本作をカンヌ国際映画祭に出品したということだ。本作は国を捨てることまでして作った作品ということになるわけだ。
カンヌ映画祭の出品作品は何かと難解だったりもするけれど、本作は167分という長尺にも関わらず、それがまったく気にならないほど引き込まれる作品だった。
本作の背景となっているのは2022年に起きたイランでの抗議運動であり、スマホなどで撮影されて拡散された実際の映像がいくつも使われている。この抗議運動は、マフサ・アミニというイラン国籍のクルド人女性が亡くなったことに端を発したものだ。
これに関しては『聖地には蜘蛛が巣を張る』のレビューでも、ちょっとだけ触れている。マフサ・アミニという女性は、ヒジャブの着用方法が不適切だということで逮捕され、警察に連行された後に亡くなった。警察としては死因は心臓発作という発表をしたけれど、彼女が暴行を受けていたという証言もあり、このことが大規模な抗議運動へとつながったようだ。
劇中に利用されている実際の映像では、抗議の声を上げる市民に対して警察が鎮圧という名目で暴力行為に及ぶ様が見てとれる。混乱の中で血だらけになって倒れている人もいたりして、正確な数はわからずともかなりの死者も出たということらしい。本作の背景にはそんなイラン国内の現状があるのだ。

©Films Boutique
護身用の銃
ただ、本作は抗議運動そのものを描いているわけではない。イランでは、そんなものを撮影していたりしたらヤバいことになるということらしい。町山智浩によれば、本作は秘密裡に撮影が行われていて、だから“ある家族”の家庭内のシーンが多くなっているのだとか。外で目立つ形で撮影などをしていたら、それこそ当局に睨まれることになってしまうのだろう。
そんなわけで本作は“ある家族”を巡る話となっている。この一家の家長であるイマン(ミシャク・ザラ)は20年に及ぶ勤勉さが認められて予審判事に昇進する。つまりはイマンは体制側の人間ということになる。
イマンは昇進した際に護身用に銃を渡される。身の危険があるような仕事ということになる。イマンの仕事は名前は立派だが、結局は検事の言いなりになるしかない立場だ。イマンも最初はその立場に疑問を感じる。罪状など調べることもなく、ただ判事の言う通りに死刑判決にサインを出すだけの役割なのだ。それでもイマンは直属の上司に諭され、その仕事を続けるほかなくなっていく。
イマンは反体制派の多くの人に死刑に追いやる役目を担っている。特に今の状況は抗議運動の激化もあって、そうした仕事は次々に回ってくる。反体制側の若者たちからすれば、彼は悪の手先そのものということになるのだろう。だからこそ彼は昇進した時に銃を渡されることになったわけだ。

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転調をどう受け取るか
仕事にかかりきりのイマンの存在はしばらく消え、そこから先は家に残った女たち3人の姿が描かれることになる。娘の友人が顔を散弾銃で撃たれて担ぎ込まれたりもする。娘たちは抗議運動の中で叫ばれている「女性、命、自由」という声に賛同しているのだ。
これらのシークエンスで印象的なのは、母親ナジメ(ソヘイラ・ゴレスターニ)がとても保守的な人物であるということかもしれない。
ナジメは二人の娘レズワン(マフサ・ロスタミ)とサナ(セターレ・マレキ)に対して、細かなところまで干渉してくる。友人関係までに口を出してくるのは、夫の仕事に差支えがないようにという配慮らしい。反体制派とつながりがあったりすると、彼の出世にも響くからだ。
そんな中である事件が発生する。イマンが寝室の引き出しにしまっていたはずの銃が消えてしまったのだ。イマンは途端に焦り出すことになる。というのも、国から支給された銃を失くしてしまったとなれば、これまでの信用は一気に消え失せ、それだけではなく逮捕されることにもなりかねないからだ。イマンは家族のことを信用しながらも、家族を疑わざるを得ない状況へと追い込まれることになっていく。
さらには銃がまだ見つからないうちに、もう一つの事件が起きる。イマンの情報がネットに拡散されてしまったのだ。住所なども晒され、身の危険を感じたイマンは、家族を連れて自分の田舎へと身を隠すことになる。
本作は後半になると趣きを変えることになる。前半ではイラン社会の現状を丁寧に描いていたのだが、そこから先はジャンルが変わったかのような展開に移行するのだ。この明らかな転調をどう受け取るかが、本作の評価を決めることになりそうだ。この転調が受け入れられないと、本作は妙に長ったらしいだけの変な作品ということにもなりかねないのだ。

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狂気の理由は?
後半になると、唐突にイマンが狂ってしまったかのように見えてくる。被害妄想めいた恐れから周囲を疑い始めることになって突飛な行動に走り、さらには家族を拉致監禁して銃の在り処を聞き出そうとするモンスターと化してしまうのだ。唐突にカーアクションめいた追跡劇が始まり、さらには最後はほとんどホラー映画のように家族を追い回す展開へと変化していくわけで、さすがにちょっと戸惑うことになるのだ。
このレビューの最初のほうにも記したけれど、モハマド・ラスロフ監督は自分の国を捨ててまで、半ば命懸けのような形でこの作品を撮っている。その映画が単なるホラー映画で終わるということはないわけで、これも意図したものだろう。
イマンが狂い出すのにも理由があるということなのだ。この狂った父親は一種のメタファーということだろう。イマンの家庭というのは、イランという国の縮図になっているというわけだ。
一家の家長であるイマンは狂っている。そして、イマンの家庭は、イランの縮図だったわけで、つまりはイランという国のトップも狂っていると皮肉っているのだ。最後は女たちの結束によって、それが打倒されることになるわけで、このラストで伝えようとしているメッセージも明らかだろう。
劇中では学生たちのシュプレヒコールの中に「神権政治、打倒」というものがあった。イランという国において主権があるのは神ということになる。神様というものは恐らく定義上は常に正しいものであり、間違えることなどない存在なのだろうと思う。しかしながら、その神権政治が行われているイランは酷いあり様になっている。
本当に神様がいて政治を司ってくれているならばそんな間違いはないのかもしれない。しかしながら、実際にはそれはあり得ない。つまりは“神様を騙る誰か”がいるということだろう。それがイランという国のトップということになる。
本作においてはそのトップの姿は見えないけれど、イマンの上司である検事はトップの一員なのだろう。イマンは最初は検事の命令が受け入れられなかった。検事のやっていることがおかしいと思ったからだろう。それでも最初の葛藤はどこへ行ったのか、いつの間にかイマンは反体制派に対して非難を浴びせるようになっていく。
イマンはもともとそういう人だったのかもしれない(ナジムは「本性が現われた」とも語っていた)。もしくはイランという国のトップへと登り詰めると、次第に狂ってしまうような“何か”があるということなのかもしれない。
一家の家長はイマンだが、仕事ばかりで家の中で存在感がないイマンは、奥さんのナジムを支配することで昔ながらの家父長制的な考えを娘たちに植え付けようとしていたのだろう。ナジムが女たち3人の中にいると、極端に保守的に見えたのも、イマンがその背後にいたからということになる。ナジムは実際にはもっと柔軟な考えの持ち主で、イマンに対しては娘たちを擁護する立場にあったのだ。そして、イマンが狂っていることが明らかになったことで、そうした呪縛が解け、ラストでは女たちが結束することになるのだ。
イラン政府も単なるホラー映画を作る監督を怖がるわけはない。見る人が見れば、イマンの狂気が示すものは明らかということなのだろう。
タイトルにもなっているイチジクは、昔、実家の裏庭にあったのだけれど、そのライフサイクルという話は初めて知った。イチジクはほかの木に寄生し、寄生した木を殺してしまうのだとか。何やら示唆的なものがあるけれど、本作において「一体、“何(誰)”がそのイチジクなのか?」というところがタイトルに込められたものなのだろう。
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