監督・脚本は『4ヶ月、3週と2日』、『エリザのために』などのクリスティアン・ムンジウ。
カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品。
原題は「R.M.N.」というもので、これは身体の内部を検査する「MRI」のこと。
日本では2023年の10月に劇場公開され、今年11月にソフト化された。
物語
トランシルヴァニア地方の村。出稼ぎ先のドイツで暴力沙汰を起こしたマティアスが、この地に戻ってくる。しかし妻との関係は冷めきっており、森でのある事をきっかけに口がきけなくなった息子、衰弱した父への接し方にも迷う彼は、元恋人のシーラに心の安らぎを求める。ところがシーラが責任者を務める地元のパン工場が、アジアからの外国人労働者を迎え入れたことをきっかけに、よそ者を異端視した村人たちとの間に不穏な空気が流れ出す。やがて、そのささいな諍いは村全体を揺るがす激しい対立へと発展し、マティアスやその家族、シーラの人生をも一変させていく…。
(公式サイトより抜粋)
外国人に対する不寛容
『ヨーロッパ新世紀』が劇場公開されたのは昨年の10月ということ。すでに先月にはソフト化されていて気になってはいたのだが、ようやく観ることができた。
題材としては外国人に対する排斥というものを扱っている。実際に起きた事件を元にしているとのことで、宣伝などでも取り上げられている17分間に及ぶ長回しはリアリティがあったと思う。それでもラストがシュールで意味不明なものになっていて、そのせいで余計に気になる作品になっているとも言えるかもしれない。
DVDにはクリスティアン・ムンジウ監督自身が本作についてインタビューに答えている特典映像もあって、それを参考にして意味不明だったラストについて考察めいたもの書いてみたいと思う。
本作で最初に出てくるのは、字幕に対する解説だ。ルーマニア語は白で、ハンガリー語は黄色、その他言語(ドイツ語・英語・フランス語)はピンクに色分けされているというのだ。意図的に字幕が入れられていない言葉もあるのだが、これは舞台となる村では外国人となるスリランカ人たちの言葉ということなのだろう。
舞台となるのは、ドラキュラで有名なトランシルヴァニアだ。トランシルヴァニアという場所は今はルーマニアに属しているけれど、かつてはハンガリー帝国の支配下にあったようだ。だから住民もルーマニア人とハンガリー人が多く、さらには少数ながら主人公のマティアス(マリン・グリゴーレ)のようなドイツ人もいるらしい。
トランシルヴァニアは多民族が一緒に暮らしている場所であり、交わされる言葉もルーマニア語やハンガリー語ばかりでなく、英語やドイツ語などの他の言語も飛び交うのが珍しくない状態なのだ。
中心的な舞台となるのは、村のパン工場だ。パン工場は労働者として出稼ぎのスリランカ人を雇うことになるのだが、村人はこれに拒否感を露わにするのだ。
このことはトランシルヴァニアという場所が特殊なところだったからというわけではないだろう。本作と同時期に劇場公開された『福田村事件』で描かれた日本における在日朝鮮人に対する差別にも見られるように、外国人に対する不寛容というものは世界中どこでも見られるものとも言えるからだ。本作は、なぜそうしたことが生じるのかという点についてのひとつの答えを示しているとも言える。
西と東の中間に位置する?
村のパン工場としては地元の人を雇いたいという気持ちもあったようだ。しかしながら経費の削減ということもあり賃金は低く抑える必要があり、地元の人からは敬遠されてしまう。その村の稼ぎ手たちの多くは、村の外へと出稼ぎに出ているのだが、それはそちらのほうが賃金が高いからなのだろう。
マティアスもドイツで出稼ぎ労働者として働いていたのだが、ドイツ人上司に「ジプシーめ」などと暴言を吐かれ、暴力沙汰を起こしたまま地元に戻ってきたという設定になっている。村の稼ぎ手は賃金の高い西欧諸国に流れ、パン工場としては最低賃金でも働いてくれる外国人を雇うほかなくなってくるというわけだ。
トランシルヴァニアはヨーロッパの東の端に位置する。いわゆる西欧諸国はもっと西に位置し、トランシルヴァニアの出稼ぎ労働者は西にあるドイツなどに向かうことになる。
一方でアジアの人からすれば、東欧にあるトランシルヴァニアも西に位置する。劇中のスリランカ人が「自分にとってはすべてが西だ」と語るように、彼らにとってはトランシルヴァニアも西ということになる。
西欧諸国は東欧から賃金の安い外国人労働者を受け入れ、東欧はより東にあるアジアからさらに賃金の安い労働者を受け入れているということになる。経済的な側面で西が優位な立場にあるということなのだろう。
マティアスはドイツでは差別的な扱いを受けていたわけだが、トランシルヴァニアに戻ると今度は逆にスリランカ人を排斥する側に立つ。それでもマティアスの不倫相手であるシーラ(エディット・スターテ)は、スリランカ人を受け入れているパン工場で働いているために、彼女にはそれは秘密にしていて、マティアスはどっちつかずな中途半端な立場にある。
住民総出の集会では、村の中にある様々な対立が明らかになってくる。スリランカ人に対する差別意識も噴出するが、そればかりではない。村ではかつてジプシーと呼ばれたロマ族を追い出した過去があることも判明するし、ルーマニア人とハンガリー人の間の対立まで表面化してくることになるのだ。
ラストで何が起こったか?
議論百出で収拾がつかないまま幕切れとなる集会の後に、ラストが用意されているわけだが、これがちょっと呆気に取られるものになっている。村での外国人排斥の動きが不穏さを醸し出す中で、マティアスはシーラの家へと向かうことになる。
そこでマティアスはシーラの後ろにある森の中に“何か”を発見し、銃を発砲して追いかけていく。すると森の奥から熊が何頭も顔を出すことになる。ただ、この熊は被り物のようにも見える。なぜそんな熊が登場してくるのだろうか?
ちなみに本作の原題は「MRI」を意味するものだ。劇中ではマティアスの父親が倒れ、そのMRI画像が何度か出てくることになる。ムンジウ監督はこれに関して、本作そのものもMRIのように「社会や心の中の状態というものを探索したもの」と語っている。そして、最終的に見出したものが熊だったということになるわけだ。
ラストシーンでは森の奥から現れた熊と、その反対側には人々の住む明るい住宅地が見える。マティアスはその中間にいて、森の熊から村の住宅地側に視線を移して佇んだまま終わることになる。
ムンジウ監督はこのラストについて、「マティアスが自分の中に悪の源になるものを見出した」という言い方をしている。ムンジウ監督によれば、暗い森の奥というのはいわゆる「無意識の世界」であり、人々が住む明るい場所はその反対の「意識的な世界」ということになる。この両者は対照的なものとなっている。
人々が住む社会は、光に満ちて愛やエンパシーに溢れた場所ということになる。エンパシーというのは、「相手の立場に立って共感しようとする」ことだ。だとすれば、森の奥の暗闇の世界はその逆のものがあるということになる。
それが未知なるものということになる。「未知なるものへの恐れ」という言い方をムンジウ監督はしているけれど、それが熊という姿になっているというわけだ。外国人に対する排斥の動きの根本にあるのもそれということになる。
熊の意味と無意識の世界
本作における熊は未知なるものの象徴ということになる。しかしながら一方で熊は現実の存在でもある。熊はトランシルヴァニアの村人たちにとっては、作物を食い荒らす害獣だ。高速道路を作り熊を森の奥へと追いやったことを、自慢げに話している村人もいた。
また、フランスからやってきたNGO団体の男は、トランシルヴァニアの熊の生息数を数える活動をしている。西欧諸国からすれば、熊は保護すべき対象ということになるからだ。これに対して村人たちは、「村をヨーロッパの動物園のつもりなのか」と反感を露わにすることになる。
ところで本作では村の祭の中で熊の着ぐるみが登場してもいた。この熊は現実の害獣としての熊とは異なり、祭におけるマスコット的な役割を果たしている。たとえば日本映画の『アイヌモシㇼ』でも熊が神として扱われていたわけで、世界各地でもそういうことは珍しくはないらしい。トランシルヴァニアでも熊は神のような存在でもあるということなのだろう。
「畏怖」という言葉があるけれど、この言葉は「自然や神仏など、人間の力ではどうにもならない存在に対して、おそれおののく様子や、畏まって敬うこと」を言う。熊という存在は人間からすれば途轍もない力を持っている。そんな存在を畏怖する気持ちから、熊も神のような存在として扱われるということなのだろう。
それに対して、外国人には熊ほどの力はないことは明らかだろう。それでも未知の存在とは言える。言葉が通じなかったりする場合もあるからだ。そして、村人たちの多くはスリランカ人を知ろうとしない。これまでの習慣から「外国人に村にいて欲しくない」と感じているだけだ。
シーラのようにスリランカ人労働者と一緒に仕事をし、彼らの人となりを知っていれば恐れることなど何もないはずなのだが、村の多くの人はその前段階に留まってしまっている。その根本的な要因が、マティアスが最後に見出したような、人々の無意識下に潜んでいる「未知なるものへの恐れ」ということになるわけだ。
本作では森の奥の暗闇と、人々が生活を営む光に満ちた社会は対照的に描かれていた。そして、森の奥は「無意識の世界」でもあり、一方の人々の住む場所は「意識的な世界」だった。マティアスはその森の奥で自分の無意識下に潜むものに遭遇したわけだが、その息子のルディも、その父親であるパパ・オットーも森の奥の暗闇に脅かされているようにも見える。
ルディは冒頭で森の奥で“何か”に遭遇し、口が利けなくなってしまう。パパ・オットーは認知症の症状があったためなのか、森の奥で首吊り自殺をしてしまうことになる。ルディが見たものが何だったのか、そしてパパ・オットーがなぜ自殺をしなければならなかったのか、本作はそれに関して何も説明することなく終わってしまう。
それというのも、本作においては、森の奥の世界が人々の「無意識の世界」を表したものだったからなのかもしれない。「無意識の世界」というのは、その人自身にも意識化されないわけで、ルディもパパ・オットーも自分が脅かされているものをよく把握していなかったということなのかもしれない。だからこそマティアスは無意識に潜む“何か”を垣間見てしまって茫然としていたというのが、本作の不思議なラストだったということになる。
なかなか難解な作品だ。それでもわからないからこそ気になってしまう作品もあって、本作のラストの展開もそんな不思議な魅力があるということなのかもしれない。
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