『クィア/QUEER』 いじらしい007?

外国映画

原作は『裸のランチ』ウィリアム・シュワード・バロウズの同名小説。

監督は『君の名前で僕を呼んで』などのルカ・グァダニーノ

主演は『007 カジノ・ロワイヤル』ダニエル・クレイグ

物語

1950年代、メキシコシティ。退屈な日々を酒や薬でごまかしていたアメリカ人駐在員のウィリアム・リーは、若く美しくミステリアスな青年ユージーン・アラートンと出会う。一目で恋に落ちるリー。乾ききった心がユージーンを渇望し、ユージーンもそれに気まぐれに応えるが、求めれば求めるほど募るのは孤独ばかり。リーは一緒に人生を変える奇跡の体験をしようと、ユージーンを幻想的な南米への旅へと誘い出すが──。

(公式サイトより抜粋)

クィアとは何か?

LGBTQ」という言葉が盛んに使われるようになったけれど、この言葉の最後に付け加えられた形の「クィア」という言葉がいまいちよくわからない。どんなふうに使うべきなのかが未だによくわからないのだ。ちなみに公式サイトにはこんなふうに説明されている。

規範的とされる性のあり方以外を包括的に表す言葉。自身の性のあり方について特定の枠に属さない、分からない、決めていない等の「クエスチョニング(Questioning)」と同様、LGBTQの「Q」にあたる。元々は「奇妙な」といった意味の侮蔑的な言葉で、原作「Queer」が発売された1980年代当時も、同性愛者等を侮蔑的に表現する言葉として用いられていた。しかし、現在では性的マイノリティの当事者がこの言葉を取り戻し、「ふつう」や「あたりまえ」など規範的とされる性のあり方に当てはまらないジェンダーやセクシュアリティを包括的に表す言葉として使われている。

この説明を読んでもあまりわかった気にはならないけれど、そもそも本作の主人公であるリー(ダニエル・クレイグ)は、「クィア」というキーワードで何を示そうとしていたのだろうか?

リーは仕事をしている様子もなく退屈な日々を過ごしていて、夕方になると飲みに出かけるらしい。そこでリーはしこたま酒を呷りつつ、男漁りをしている。リーは冒頭で一緒にいた男性には「君はクィアじゃない」と決めつけてみせたりする。

それからリーはユージーン(ドリュー・スターキー)という青年に出会い、瞬間的に恋に落ちる。彼のことが気になるのか、リーは友人のジョー(ジェイソン・シュワルツマン)に「彼はクィアかな?」とも訊ねている。

リーは「ホモセクシャル」という言葉も使っていたけれど、この言葉には否定的な意味合いを込めて使っているようで、「クィア」はそれとは異なるということなのだろう。とにかくユージーンが「クィア」であれば、リーと同類であり、リーにも可能性があるということを意味しているということなのかもしれない。

©2024 The Apartment S.r.l., FremantleMedia North America, Inc., Frenesy Film Company S.r.l.

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「奇妙な」映画

本作の感想を一言で記すとすれば、タイトルの「クィア」という言葉の元々の意味である「奇妙な」映画ということになる(この場合、特別侮蔑的な意味は込めていない)。

本作の監督のルカ・グァダニーノ『君の名前で僕を呼んで』という純粋に同性愛を題材にした映画を撮っている。確かに本作の第1章はそういう趣きがある。しかし、第2章以降、まったく予想外の方向へと転がっていくのだ。

これは本作の原作がウィリアム・S・バロウズという作家だからなのだろう。ルカ・グァダニーノはバロウズの原作が大好きだったようで、本作は念願の映画化ということらしい。私はバロウズの本を読んだことがないので、バロウズの原作に入れ込む人の気持ちはよくわからない。

というのも、バロウズが原作を書いた『裸のランチ』の映画版に関しては観たはずだけれど、まったく意味不明な話に思えたからだ(尤も、これは監督がクローネンバークということもあるのかもしれない)。とにかく『裸のランチ』には、ドラッグをやっている人のトリップした頭の中身が描かれているということなのだろう。本作の第2章以降もドラッグの影響が大きくなっていき、突拍子もない奇妙なことが生じたりもすることになるのだ。

さらに言えば、本作ではダニエル・クレイグが主演という要素も見逃せない。ダニエル・クレイグはジェームズ・ボンドを卒業して、そのイメージを払拭するような役をわざわざ選んでいるということなのかもしれない。白いスーツに身を包んだ姿は悪くはないけれど、ユージーンに入れ込み、次第に翻弄されていく姿はかなりみっともない。ダニエル・クレイグが、ジェームズ・ボンドの男臭いイメージを一新するような役柄を楽しそうに演じているところも見どころだ。

©2024 The Apartment S.r.l., FremantleMedia North America, Inc., Frenesy Film Company S.r.l.

近づきたいけど

リーはユージーンと親しくするようになると、彼に触れたいと思いつつも、彼が「クィア」かどうかがわからず躊躇する。本作では、それをオーバーラップ(二重写し)というやり方で何度か示している。「触れたい」という秘めたる思いと、「触れてはいけない」という現実的な対応、その二つがオーバーラップされるのだ。リーは本当はもっとユージーンに近づきたいのに、それができないというもどかしい状況にある。

結局はユージーンが飲み過ぎて吐くというトラブルもあったりして、それを機にリーは彼ともっと親密になることには成功するけれど、それでもユージーンの気持ちに関してはよく理解できないままだ。ユージーンにはいつも一緒にいる女性もいて、彼がリーと寝たのは、たまさかの遊びなのかもしれないのだ。

リーはそんな状況から脱却するために、ユージーンを誘って旅に出る(このあたりからが第2章ということになる)。面白いのは、この旅の目的が南米のどこかにあるという「ヤヘ」というドラッグを手に入れるためということだ。「ヤヘ」を使えば、なぜかテレパシーが可能になると、リーは信じているのだ。

現在からするとまったく不可解な行動だけれど、時代は1950年代だ。バロウズはビートニクの一員とされるようだ。そのビートニクはその後のニューエイジの先駆けともされることがあるようで、オカルト的なものとも親近性が高かったということなのかもしれない。

そんなわけでリーとユージーンは南米のジャングルに旅をし、そこで出会ったコッター博士(レスリー・マンヴィル)から「ヤヘ」をゲットすることになるのだが、結局は得たものはドラッグが見せる悪い夢のような幻覚だったようだ。それでも自分の気持ちを相手に伝えるために、テレパシー能力を手に入れようと奔走するリーの姿は滑稽ではあるけれど、同時にいじらしいものを感じなくもなかった。

とはいえ、後半のドラッグでのトリップ感あふれる映像は、前半の同性愛の物語とはまったくの別物にも思えた。そんなわけでかなり「奇妙な」映画になっていることは間違いない。

ダニエル・クレイグのイメチェンも印象的だったけれど、個人的にはレスリー・マンヴィルの化けっぷりに驚いた。コッター博士が何者なのかは最後までよくわからないけれど、インディアンみたいな風貌になっていて、元の姿がまったくわからないキャラになっていたのだ。

音楽を担当しているのはトレント・レズナー&アッティカス・ロスで、リーとユージーンの出会いの瞬間の選曲など、前作『チャレンジャーズ』と同様に音楽の使い方がとてもよかった。

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