監督は『プラットフォーム』でデビューしたガルダー・ガステル=ウルティア。ちなみにNetflixでの監督名の表記は、ガルデル・ガステル=ウルティア・ムニチャになっている。
Netflixにて10月4日から配信中。
原題は「El Hoyo2」。
物語
“穴”、それは、食事の乗った台座が上層から下層へと順番に降りてくる残酷な場所。ここにやってきた住人は皆、何かから逃げている。だが他の住人から逃げることはできない。
(公式サイトより抜粋)
作る意味のある続編?
前作『プラットフォーム』は色々とおぞましい部分があって人を選ぶ作品であるのは間違いないのだが、それでも社会風刺が効いているところがあり、考えさせられるものがあったと思う。その続編ということで、本作は主人公を変えて同じことを繰り返しているように見えなくもないのだが、とても考えられた作る意味のある続編だったと思う。
シチュエーションホラーなどでは設定がおもしろいと、同じ設定で何度も繰り返し続編が製作されることもあるけれど、本作はこれで見事に完結したとも言えるような気もした。
前作を振り返っておけば、原題で「穴」と呼ばれる「垂直自主管理センター(VSC)」では、いくつかのルールが設定されていた。穴を1日に一度だけ上層から降りてくる台座(プラットフォーム)には、立錐の余地もないほどのご馳走が並んでいる。ただ、各階層に台座が留まるのは数分しかない。各階層の住人はその数分だけ食事にありつける。
欲張って食べ物を保存しておこうとすると、たちまちその階層は灼熱地獄(あるいは極寒地獄)と化すことになり、生きてはいけない。だから住人はその数分だけご馳走を貪ることになる。
しかし、穴を覗き込めば明らかなように、下には延々と同じような部屋が続いている。それでも台座は1日に一度しかやってこないわけで、上の者が下の者のことを考えなければ、当然ながら下の者は飢えに苦しめられることになる。
穴の住人は1カ月に一度階層を移動させられる。それが上層ならばたらふく食べられるけれど、下層ならば飢える可能性もある。あるいは、それが嫌ならば同室の住人を食べることも可能だ。穴では、運営側が最初に決めたルール以外は「何でもアリ」だからだ。
住人たちは外部から一つだけ自分の持ち物を持ち込めることになっており、それは何でも許されている。人を殺す武器でも構わない。というよりは穴ではそんなことが起きることが初めから想定されているのだ。
こうした穴の設定が秀逸だ。現代の格差社会を思わせるからだ。同じようなテーマを扱った『パラサイト 半地下の家族』でも、下層に落ちてゆくものはゴミばかりだったけれど、穴でも下層の者たちは上層の食べ残しで辛うじて命を永らえることになるのだ。

『プラットフォーム2』 Netflixにて配信中
「連帯感革命」後の世界
ただ、前作の最後にはある種の革命が生じる。前作の主人公ゴランは暴力によって革命を起こすのだ。『プラットフォーム2』が描くのは、その革命後の世界なのだ。
本作の主人公は前作から変わり、新たに穴の住人となったペレンプアン(ミレナ・スミット)という女性だ。そして、その同室者はザミアティン(ホビク・ケウチケリアン)という大男。二人が目を覚ました場所は第24層だ。そこはまだ上のほうの階層に位置する場所だが、前作とはちょっと状況が異なっている。
前作では台座が降り始めると誰もが手当たり次第に御馳走を食べ尽くし、下のことなどお構いなしだったのだが、続編ではある種の秩序が生まれている。それを維持しているのがロイヤリストと呼ばれる者たちだ。
ロイヤリストはゴランの起こした革命のことを「連帯感革命」と呼んでいる。穴は333層も下に続いている。その者たちみんなが生き続けていくためには、誰もが自分が頼んだ料理だけにしか手をつけないという新しいルールが必要となる。上の者が下の者のことを考え、みんなが連帯するならば公平性が保たれるというわけだ。自分の物にしか手をつけずに我慢することで、食べ物はずっと下の階層まで届き、みんなが生きていくことが可能になる。
穴には運営側が決めたルールがあった。しかしそのルールだけでは、たまたま上の階層になった者ばかりが肥え太り、下の階層になれば飢えて死んでいくことになる。それを避けるための手段がロイヤリストが付け加えたルールということになる。
そもそも穴の正式名称は「垂直自主管理センター(VSC)」というものだった。これはロイヤリストが後から付け加えた規律(ルール)を思わせなくもない。前作でも助け合いの精神の涵養が語られていたわけで、穴ではそうした方向へと展開していくことがある程度予測されていたということなのかもしれない。

『プラットフォーム2』 Netflixにて配信中
革命後に生じたこと
ちなみにロイヤリスト(Loyalist)という言葉は、前回取り上げた『シビル・ウォー アメリカ最後の日』でも「Loyalist States」という、分断されたアメリカ合衆国のひとつの勢力として登場していた。「Loyalist」という言葉は、「現体制の支持者」という意味があり、『シビル・ウォー』ではアメリカ合衆国に残った勢力のことが「Loyalist States」と呼ばれていたのだ。
『プラットフォーム2』のロイヤリストたちも、「連帯感革命」後の体制の支持者という意味では、ロイヤリストと呼べるということなのかもしれない。あるいは「loyal」という言葉自体には「忠誠な」という意味があるから、彼らが信奉するマスターに忠誠を誓っているということでもあるし、自分たちが付け加えたルールに忠実な人たちということでもあるのだろう。
そのルールを作ったのがマスターと呼ばれる伝説的な人物であり、それが前作のゴランということになるだろう。ゴランが足の肉を切って与えた話は尾ひれがついて広がり、奇跡のような出来事として語られている。
そして、現在の穴を仕切っているロイヤリストのトップは、ダギン・バギ(オスカル・ハエナダ)という人物だ。彼は“油注がれし者”とされる。これはいわゆる“キリスト(救世主)”という意味だ。ロイヤリストのルールによって穴はより平等になったわけで、そんな意味ではダギン・バギは救世主ということになる。
しかし一方でダギン・バギは“ロベスピエール”とも呼ばれることになる。ロベスピエールとはフランス革命時の政治家で、反革命分子を次々と断頭台に送る恐怖政治を行った人物だ。
正確に言えば、この呼称はザミアティンが上の階層のロイヤリストのことを指して使った言葉だが、ロイヤリストのやっていることがロベスピエールと似ているからこそ、ザミアティンはそんなふうにからかったというわけだ(いかつい見た目とは違ってザミアティンはインテリなのだ)。
みんなが平等に生きられることは素晴らしいけれど、そのためには誰もがルールを守る必要がある。それでも中にはルールを破るヤツもいて、ロイヤリストはそんな連中を“バーバリアン”と呼ぶ。ロイヤリストが穴の秩序を守るためにはバーバリアンには制裁が加えられなければならない。そして、それにはどうしても暴力が必要となる。
バーバリアンを放っておけば元のやりたい放題となり、無秩序な状態に戻ってしまう。全体の平等のためにもルールは絶対であり、それを守らせるために暴力で制圧する。これは前作のゴランがそうだったように、暴力でなければ成し遂げられないことなのだ。
ロイヤリストはそのためにルールを破った者の首を斬り落とす。本作では何度も断頭台から転げ落ちるような生首がスローモーションで捉えられるわけだが、それはロイヤリストたちがやっていることがロベスピエールのやった恐怖政治と変わらないことを示すためということになる。
ペレンプアンは何も知らずに穴に入り、ロイヤリストたちのルールに賛成し、その運動に加担することになる。ところがダギン・バギは、少しの例外も許さぬ厳格さでルール違反を取り締まっていることを知る。そして、彼女自身もルール違反を責められて、片腕を失うことになり、考えを改めることになるのだ。ペレンプアンはバーバリアンに制裁を加える側にいたのだが、今度はそのバーバリアンたちと組んでダギン・バギとロイヤリストたちに歯向かっていくことになる。

『プラットフォーム2』 Netflixにて配信中
トリマガシの再登場
ここから先が本作が面白くなるところだ。驚くべきことに、前作でゴランの同室者だったトリマガシ(ソリオン・エギレオール)が登場するのだ。“サムライプラス”というナイフを持ち込んでいた「明らかだ」が口癖のおじさんだ。
トリマガシは前作ですでに死んだはずだから、最初は意味がよくわからなかった。このシリーズでは亡くなった人の亡霊がよく顔を出すので、その類いなのかとも思ったりもしたのだが、実はそうではなさそうだ。
ラスト近くでは、前作で穴の中で自分の子供を探していたミハル(アレクサンドラ・マサンカイ)という女性も再び登場する。実はミハルは運営側の人間だったことも明らかになる。そして、運営側は何らかの意図を持って子供を最下層の第333層に忍ばせていたらしい。
実は第333層の下にも広い空間があって、そこには落ちてくる自殺者を食べている人々がいる。わざわざ第333層に子供を忍ばせるのは、ひとつの御馳走ということなのかもしれない。だから前作ではパンナコッタの代わりに、子供そのものが0階層への伝言となっていた。与えられた料理を食べないと示すことで、抵抗の意志を表したということなのだろう。
ミハルは子供を穴に仕込む役割を担っていたらしい。ところが良心の呵責からか、ミハルはその子供を助ける側に回ったのだ。だからミハルは前作において穴の下へと降りて子供を探していたというわけだ。
ということは、この続編で描かれているのはミハルの過去の話ということになる。つまり、本作は前作の前日譚だったということになる。だから前作で死んだはずのトリマガシもまだ生きているのだ。

『プラットフォーム2』 Netflixにて配信中
自由と平等のせめぎ合い
本作は前作の続きだと記したし、実際にそんなふうに観客を騙す形で作られている。たとえば“油注がれし者”の別名には、“郷士(イダルゴ)”というものもあった。これは前作でゴランが持ち込んでいた本の主人公である“ドン・キホーテ”のことである。つまりはわざわざ「連帯感革命」を起こしたのはゴランだとミスリードしているのだ。だから前作を観ていれば、本作は前作の最後を受けて作られた作品だと考えるわけだが、実はそうではないことが明らかになるわけだ。
これが意図するのは、革命は一度ではなかったということを示すためだろう。ゴラン以外にも同じことを志した人はいたということだ。
前作には共産主義という言葉が出てきたように、最後は平等ということを重んじる立場に転がる。しかしその前段階にはやりたい放題の世界があった。たまたま上に居た人間は好き勝手に貪り、下に居る人間にはゴミしか回ってこない。そんな不平等への不満が溜まってくると、革命への気運が高まってくる。そして、起きたのがゴランの革命だった。
しかし続編では逆のことが起きる。穴の中でルールを守らせるには、暴力というものが必要とされる。共産主義革命がそうだったように。そのルールの絶対性というものは息苦しさを生むことにもなる。平等にみんなが生きられる社会は素晴らしい。けれどもそれを実現し、さらに維持し続けることは難しいということだろう。そんなわけで平等の息苦しさは自由というものを渇望させることになる。そうしてペレンプアンのような反逆が生じることになる。
本作で言われていたマスターというのは、ゴランではなかった。実はゴランの前に「連帯感革命」を考えた人がいて、それを守らせるためのロイヤリストがいたということになる。ところがペレンプアンの反逆によって、ロイヤリストが作ったルールは忘れ去られたということなのだろう。前作でゴランが穴に入った時には、すでにロイヤリストたちは一掃されていた。それがゴランの革命を呼び込むことになる。
自由ばかりだと平等の必要性が訴えられることになるし、平等が息苦しくなると自由への渇望が生じる。穴では常にそうしたことが繰り返されてきたということなのだ。
本作では穴から出ることは不可能だと何度も宣言される。それは本作と前作がループするような関係になっているからだろう。前作の終わりに「連帯感革命」が生じ、それが唾棄されるのが本作だ。そうなると今度はまた自由(やりたい放題)が幅を利かすことになるわけで、前作の最初に戻ってしまう。多分、穴では何人ものゴランが出てくることになったのだろうし、同じように何人ものペレンプアンが生まれてきたということなのだ。
そして、そうした構造は現代社会の縮図にもなっている。格差が増大していけばぶち壊したいという人が出てくるし、平等ばかりで締め付けが厳しいとそれに対する反発も生まれてくる。
もしかするとかつては共産主義革命こそがすべてを解決するゴールと信じていた人も多かったのかもしれないけれど、「そんなことはない」というのが本作が示していることだろう。革命があったとしても、実際にはいつまでも自由と平等の間のせめぎ合いが続いていくということなのだ。
ではなぜわざわざ「連帯感革命」の話を先に持ってきたかと言えば、現代が格差が限りなく広がった社会だからだろう。そうした中では、自由への渇望よりも肥え太ったヤツを自分たちのほうに引きずりおろしたいという気持ちになるわけで、平等を希求する話のほうが多くの人に訴える力があるという判断だったんじゃないだろうか。
しかし続編で描かれるように、革命の後に待っているのはユートピアなどではない。結局、その後には自由と平等のせめぎ合いのループがあるというわけで、現代社会を生きるわれわれも穴から抜け出すことができない登場人物と同じような立場にあるというわけだ。
コメント