監督は『6才のボクが、大人になるまで。』や『ブルームーン』などのリチャード・リンクレイター。
主演はギョーム・マルベック。写真家やモデルとして活動していた人らしい。
物語
フランソワ・トリュフォーの長編デビュー作『大人は判ってくれない』が、カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞した 1959年。その夏、批評誌カイエ・デュ・シネマで執筆活動をしていたジャン=リュック・ゴダールは、ジャン=ポール・ベルモンドとアメリカの若手女優ジーン・セバーグを主演に起用した念願の初長編映画『勝手にしやがれ』に着手する。
ところがゲリラ撮影や即興演出を好むゴダールの型破りなやり方に、周囲は困惑を隠せない。それでも映画作りの夢と情熱を共有した現場は熱気に満ちあふれ、誰ひとり完成形を想像しえないまま、のちに伝説となるクライマックスの撮影へと突き進んでいくのだった…。
(公式サイトより抜粋)
『勝手にしやがれ』の舞台裏
タイトルは「ヌーヴェルヴァーグ」となっているけれど、中身はジャン=リュック・ゴダールの長編デビュー作品である『勝手にしやがれ』の撮影裏話みたいなものだ。ヌーヴェルヴァーグの記念碑的な作品とも言える『勝手にしやがれ』がどんなふうに撮影されたのか。そういうところを描いた内幕物なのだ。
話はフランソワ・トリュフォーが『大人は判ってくれない』でデビューしたところから始まる。その時、カイエ・デュ・シネマで批評活動をしていたゴダールは、まだ長編作品は撮れていない。同じように批評家活動からスタートしたトリュフォーは、ゴダールよりも年下だが先にデビューし、ゴダールは自分だけ取り残されているように感じていたらしい。
プロデューサーはトリュフォーの脚本で、クロード・シャブロルの名前も入れれば、話題性もあるから売れると判断したのか、ゴダールは長編デビュー作として『勝手にしやがれ』を撮ることに決まるのだ。

©JeanLouisFernandez
ヌーヴェルヴァーグとは?
ヌーヴェルヴァーグ=新しい波。1950年代後半のフランスで台頭した新世代の監督たちが、既存のルールに縛られず、ノンプロ俳優を起用し、ロケーション撮影と即興演出を実践していった映画運動。そうして世に出た作品群は、それまでの映画とはまったく異質の躍動感とみずみずしさを獲得し、巨大な波となって世界中の映画人に多大な影響を与えた。
公式サイトでは「ヌーヴェルヴァーグ」について、こんなふうに要約している。
「即興演出」という話はよく聞くけれど、その現場に立ち会ったわけではないわけで、具体的にどういうことなのかは謎だったけれど、本作を観ると即興演出の詳細がよくわかる。
『勝手にしやがれ』は同時録音ではなかったようで、ゴダールは撮影が始まると役者たちに同時進行で指示を与えていく。主役のジャン=ポール・ベルモンド(オーブリー・デュラン)は、その指示を聞きながら即座に反応していくことになる。
バーで小銭を数えたりという仕草や、読んでいた新聞で靴を拭くなどの動きも、ゴダールが現場で口頭で指示したものだったのだ。
劇中のゴダールはリハーサルを嫌う。何度も同じことを繰り返すと機械的な動きになってしまうからという理由らしい。だから役者への指示も撮影と同時進行で行われるということなのだろう。
普通とは違うやり方にジーン・セバーグ(ゾーイ・ドゥイッチ)は最初は戸惑ったりもしている。この映画で見るゴダールはちょっと変わり者みたいだし、自分勝手で厄介な人物にも見える。
それでも「最高の映画批評は映画を撮ることだ」と語り、様々なアイデアを小さなメモ帳に書き込んでいて、彼のやり方は何かしらの批評的考えに裏付けられているように見えなくもない。ゴダールは自分のやっていることが普通とは違っても、それが正しいと信じてそれを貫こうとするのだ。最終的にはゴダールのやり方は周囲のスタッフを巻き込んで、撮影現場は熱を帯びてきているようにも見えた。

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予習するか、復習するか
『ヌーヴェルヴァーグ』という作品は、『勝手にしやがれ』と同様のフォーマットで作られている。モノクロのスタンダードサイズで、かつては上映時のフィルム交換の際に必要だった「切り替えパンチ(あるいはパンチマーク)」まで再現されている。これも『勝手にしやがれ』に対する敬意からなのだろう。
本作は『勝手にしやがれ』の撮影の内幕を描いていたわけで、『ヌーヴェルヴァーグ』を観た後には、それがどういう形で作品として仕上がっているかを確認してみたくなるだろう。もしかすると撮影現場に立ち会った人が、出来上がった映画そのものを観るというのはこんな感覚かもしれない。
もしくは『勝手にしやがれ』を予習してから、『ヌーヴェルヴァーグ』を観るという方法もあるかもしれない。その場合、「このシーンはこんなふうに撮っていたのか」といった発見があるだろう。
どちらにしても『勝手にしやがれ』をもう一度観ることは必須になりそうだ。
ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンを売るジーン・セバーグとジャン=ポール・ベルモンドが歩いていくシーンは、カメラマンのラウール・クタールは荷台みたいなものに隠れてカメラを回していた。街中でカメラを回すと人の目を引いてしまうからだろう。そうやってごく自然に二人が街を歩いていく姿を捉えていたというわけだ。こうしたやり方には「偶然を取り入れたい」というゴダールのこだわりがあるのだろう。本作にはそういう発見が色々ある。

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ラブレターとしての映画
リンクレイター監督は本作を作った理由について、「ヌーヴェルヴァーグの連中へのラブレターだ」としている。どうも好き過ぎて『勝手にしやがれ』の撮影裏話まで作ってしまったということらしい。
本作にはヌーヴェルヴァーグの数多くの人が登場する。公式サイトにはそのリストもある。ゴダール、トリュフォー、シャブロルはもちろんのこと、有名どころのエリック・ロメールだとかジャック・リヴェットなども出てくる。それからヌーヴェルヴァーグに影響を与えたロッセリーニやジャン=ピエール・メルヴィルなども登場する。どうやらこうした人たちも雰囲気の似ている人を使っているようだ。
ゴダールとトリュフォーくらいは顔もわかるけれど、それ以外は顔が似ていたとしても、もともと顔をあまり知らないわけで判断しようもない。それでも多くの人の名前をわざわざ劇中に示しているのは、リンクレイターの「ヌーヴェルヴァーグおたく」っぷりを感じさせる。
『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』あたりに典型的なように、リンクレイターの作品では、登場人物の多くは屈託がなく、輝かしき時代が描かれることが多い気もする。『勝手にしやがれ』は完成し、試写では軽口を叩きながらも、ラストではゴダールとトリュフォー(アドリアン・ルイヤール)が肩を抱き合って喜び合って終わる。そこから先にヌーヴェルヴァーグの輝かしい未来が始まるということなのだろう。
のちにゴダールとトリュフォーは決別することになったのは有名だけれど、リンクレイターとしてはそんな二人が手を取り合って映画界を変えていった時代に羨望のようなものを抱いているということだろうか。
本作は撮影裏話以上のものがあったのかと言えば疑問を感じなくはないけれど、楽しい作品になっていることは間違いない。改めて『勝手にしやがれ』を観ると、古い作品ではあるけれど、決して古びておらずに新鮮なものを感じた。ゴダール作品は小難しくてわからない作品も多いけれど、『勝手にしやがれ』と『気狂いピエロ』と『はなればなれに』あたりは例外的に楽しく観られる。






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