『ナミビアの砂漠』 今後の目標は……

日本映画

監督・脚本は『あみこ』山中よう。『あみこ』は初監督作で、PFF アワードで観客賞を受賞したとのこと。彼女にとっての長編第一作となるのが本作。

主演は『PLAN 75』などの河合優実

本作はカンヌ国際映画祭では国際映画批評家連盟賞を獲得した。女性監督として史上最年少での受賞とのこと。

物語

世の中も、人生も全部つまらない。やり場のない感情を抱いたまま毎日を生きている、21歳のカナ。
優しいけど退屈なホンダから自信家で刺激的なハヤシに乗り換えて、新しい生活を始めてみたが、次第にカナは自分自身に追い詰められていく。もがき、ぶつかり、彼女は自分の居場所を見つけることができるのだろうか・・・?

(公式サイトより抜粋)

カナの行動原理は?

最初に感じたのは、河合優実が演じる主人公のカナが何をしたいのかわからないということだ。『ナミビアの砂漠』は物語らしい物語もなく、カナの日常が追われていくことになるのだが、そのカナの行動原理がよくわからないのだ。これは観ている側の私が古臭い人間というだけなのかもしれないけれど、そんな感覚を抱かせるような映画だったのだ。

カナは脱毛サロンで働きつつ、不動産業界で働くホンダ(寛一郎)と同棲している。それでも同時にハヤシ(金子大地)という自称クリエイターとも付き合っていて、ハヤシからもらった花束を家に持ち帰っても何とも言われない関係らしい。

カナがどんなつもりでそんなことをしているのか? カメラは家でひとりで過ごしているカナの表情にズームアップで迫ってみたりもするのだが、もちろんカナの心の中は見えてくるはずもない。かつてなら若者には立身出世という目標があったのかもしれないし、アメリカンドリームみたいな大きな夢を抱く人もいたかもしれない。ただ、「失われた30年」を未だに継続中の日本では、そんなものはあり得ないということなのだろう。

カナは現代の日本に夢も希望も抱いていないし、かといって絶望するほどでもない。それが「日本は少子化と貧困で終わっていくので今後の目標は生存です」というカナの言葉によく表れているのだ。そんな目標を持つ若者のことを、古臭い人間が理解するのはなかなか厄介と言えるかもしれない。もしかするとこれが“Z世代”などと呼ばれる若者ということなのだろうか?

©2024「ナミビアの砂漠」製作委員会

ナミビアの砂漠とは?

本作のタイトルは「ナミビアの砂漠」というものだ。カナはyou tubeでLIVE中継されているナミビアの砂漠の映像をよく見ていた。本作のエンディングロールでも砂漠の中の水辺に集まるオリックスという動物の姿が描かれている。

この砂漠のLIVE中継を実際に私も見てみたのだが、オリックスやダチョウなどの動物がたくさん集まっている姿を見ることができた。動物たちは水辺に集まって日向ぼっこでもしているようだ。寝そべって眠りこけているものもいるし、何をするというわけでもなく、ただ突っ立ったまま動かないものもいる。そんな彼らの目標というものがあるとすれば、まさに生存ということになる。

そんな意味では、ナミビアの砂漠の水辺に集まる動物に対してカナは共感を抱いているということなのだろう。しかしながら、カナの生存方法は動物たちほど単純ではなさそうだ。だから私のような古臭い人間にはカナは厄介な存在に思えてくるのだ。

©2024「ナミビアの砂漠」製作委員会

狂女カナ

生存という観点からすれば、ハヤシという男よりも、ホンダのほうがマシな気もする。ホンダは好き勝手なことをしているカナを認め、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる優しい人だからだ。ところがカナはホンダのところをこっそりと抜け出し、ハヤシと同棲を始めることになる。

カナはホンダとはぶつかり合うこともなくうまく調子を合わせていたようだ。ところがハヤシとは次第に激しくぶつかり合うことになっていき、同棲している家は修羅場と化すことになる。

カナの狂暴さにはさすがのハヤシも「無理」と言い出す始末なのだが、そんな二人の姿を見ていると、『死の棘』(小栗康平監督)の夫婦を思い出したりもした。というのは、カナのキレっぷりは狂人のそれにも見えてくるからだ。カナはその後に躁鬱の気があることが示されたりもする。

『死の棘』の夫婦の場合、二人のケンカはどんどん殺伐としたものになり、奥さんは病院に入れられることになったけれど、カナとハヤシの場合は全然違った展開となる。これはある意味では、とても理解不能だった。それほど二人は激しくぶつかることになるからだ。しかしながら、二人のケンカは次第に一種のコミュニケーションのようなものに、ある意味ではじゃれ合っているようにも見えてくることになるのだ。

©2024「ナミビアの砂漠」製作委員会

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サバイバルのための戦略

不思議だったのは、それまではホンダとハヤシの間を行き来しつつもうまくやっていたカナが、ハヤシとの同棲生活が始まると、急に人が変わったかのようにハヤシに突っ掛かるようになるところだ。それまでのカナとは別人になったかのようにも見えたのだ。これはどういう意味なのだろうか?

カナは常に冷めた目で、自分の置かれた状況を把握しているように見える。職場の脱毛サロンでは、心の中では無意味な脱毛に大金を払う客を“情報弱者”としてバカにしつつも、坦々と仕事をこなしている。喫茶店で友人の話よりも、聞こえてくるほかの話に惑わされることになるのも、どこかで自分を客観的に見ているからかもしれない。

そして、その極端な例が、カナが自分とハヤシのケンカをメタの視点から見つめてしまう場面だろう。カナとハヤシがいつもの如くもみ合っていると、スクリーンの端っこにワイプ画面が現れ、ランニングマシーンに乗ったカナが、二人のケンカをテレビドラマの一場面のように見つめてしまっているのだ。

このメタ視点は、カナが現代社会を生き抜いていくための、つまりサバイバルしていくための戦略ということになる。そこからすると、余計にカナのハヤシに対する突っ掛かり方が異様なものに思えてくるのだ。

©2024「ナミビアの砂漠」製作委員会

心の中だけなら……

ところでカナはカウンセラーの先生にこんなことを指摘されている。「心の中だけなら何を思うのも自由」だと言うのだ。しかし、カナはこのことに納得していないようでもある。カナは心の中で思うことと、実際にやっていることは一致しなければというオブセッションのようなものを持っているのだ。

このカナの考えは、先ほどのサバイバルのための戦略とはまったく正反対の考えということになる。メタの視点に立つことで、自分を偽って行動することができるのがサバイバル戦略だったからだ。

カナはそうした戦略で日々をやり過ごしてきたわけだけれど、それは結局は自分を偽ることだったのだろう。そして、自分を偽ることは無理を生じさせることになる。そうした反動として、カナのハヤシに対する突っ掛かりがあったのかもしれない。

無理が募れば爆発する時もやってくる。心を偽ることにも限度があるわけで、心の中で思っていることをそのままストレートにぶつけることができる相手をカナは求めていたのだろう。そして、それはホンダではなくてハヤシだったのだ。

ハヤシは全力でぶつかってくるカナを何とか受け止めたようだ。壮絶なケンカにも見えたじゃれ合いは、カナにとっては一種のコミュニケーションであり、だから最後はケンカしながらも何となくハッピーエンドという妙なところへと落ち着くことになったというわけだ。

私はカナのことをよくわからないながらも、以上のように解釈してみた。カナに共感することはできないけれど、本作はわからないながらもずっと引き込まれるように観てしまっていた。そこが本作の不思議な魅力だろう。

もちろんそこには主演の河合優実の存在もある。冷めた今風の若者であり、幼さすら感じさせる時もある笑顔のかわいい女の子でありながら、狂暴な暴れっぷりを見せる。そんな矛盾ばかりで危なっかしいカナという存在を見事に体現してみせたんじゃないだろうか。

彼女は山中瑶子監督の『あみこ』という作品を見て、監督に手紙まで書いてアピールした結果、この役を勝ち取ったということらしい。河合優実が「人生が変わった」とまで言う『あみこ』という作品も観てみたくなった。

追記:同じように思った人が多かったのか、9月28日からポレポレ東中野にて『あみこ』のリバイバル上映をやるらしい。

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