原作はエドワード・アシュトンの小説『ミッキー7』。
監督・脚本は『パラサイト 半地下の家族』のポン・ジュノ。
主演は『THE BATMAN-ザ・バットマン-』のロバート・パティンソン。
物語
主人公は、人生失敗だらけの男“ミッキー”(ロバート・パティンソン)。一発逆転のため申し込んだのは何度でも生まれ変われる“夢の仕事”、のはずが……。
よく読まずにサインした契約書は、過酷な任務で命を落としては何度も生き返る、まさにどん底の“死にゲー”への入り口だった!
現代からひとつの進化も無く、労働が搾取される近未来の社会。だが使い捨てワーカー・ミッキーの前にある日、手違いで自分のコピーが同時に現れ、事態は一変——予想を超えたミッキーの反撃がはじまる!
(公式サイトより抜粋)
エクスペンダブルワーカー
まずは設定が面白い。借金のせいでどう考えてもブラック企業でしかない会社に雇われ、エクスペンダブル(使い捨て)ワーカーになるほかなくなってしまったミッキー(ロバート・パティンソン)。
『ミッキー17』の世界では、ある条件を満たせば、人間をクローンを作製することが可能となっている。クローンは倫理的にも問題があるために地球上では禁止されるものの、過酷な宇宙空間において必要とされるならばという限定付きで許されているのだ。
劇中、ミッキーは何度も死ぬことになる。しかし、すぐにコピーが作られ生き返る。そして、再び死に、また生き返る。ミッキーの命は何とも軽いものとして扱われるのだ。ちなみに原作は『ミッキー7』となっていて、映画版とは通し番号が異なっている。原作は未読なので詳細はわからないけれど、映画版のほうがより一層ミッキーの命が軽く描かれているということなのだろう。
本作はジャンル的にはブラック・コメディという印象で、ロバート・パティンソン演じるミッキーは諦めきったような情けない表情で何度も死んでいき、観客としては不謹慎ながらもその哀れな姿を笑いながら観ることになるだろう。笑えるのはミッキーにとっては、死は再生のきっかけでしかないわけで、彼は毎朝目覚めるのと同じように新しくなったミッキーとしてコピー機から出てくることになるからだ。

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繰り返される生と死
本作は17番目のミッキー、ミッキー17が死にかけるところから始まる。ミッキー17はある惑星で誤ってクレバスに落ち込んでしまい、そこに住む先住民であるクリーパー(『風の谷ナウシカ』の王蟲っぽい姿)に喰われそうになるのだ。本作ではそこから時を遡り、どうやってミッキーが16体も消費されることになったのかが描かれることになる。
エクスペンダブルの仕事は言ってみれば、人体実験の対象者みたいなものだ。新しい惑星に人類が進出したとすれば、その環境に適応するため様々な調査が必要になる。そのための実験台として、限りある人の命を使うわけにはいかないわけで、そういう条件の下で地球では禁止されたクローン作製が許されているのだ。
ミッキーの雇い主であるマーシャル(マーク・ラファロ)は、もともとは政治家だったようだが、ある惑星を植民地とし、そこで新しい世界を作ることを夢見ている。マーシャルは優生思想の持ち主で、新しい世界で優秀な人を生み出すために、乗組員には優秀な人材が揃っているらしい。そのおかげで、なぜかミッキーもナーシャ(ナオミ・アッキー)という唯一無二の女性に出会うことになるのだが……。
ミッキーはその惑星に最初に降り立つことになる。案の定、ミッキーは致死性の病原菌にやられて血を吐きながら死んでいく。そうすると死体は燃やされ、次のミッキーが作製されることになる。このコピーは前のミッキーの情報を引き継いでいるから、身体の中に病原菌が入ったままのミッキーがコピーされる。そして、その病原菌に対する耐性をつけるためのワクチンを生み出す実験台として、ミッキーはさらに何度も血を吐いて死ぬことになる。
そんなふうにして16体のミッキーが使い捨てられることになり、ようやくたどり着いたのが冒頭のミッキー17ということになる。そして、ミッキー17が本作の主人公ということになる。

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なぜ17が主人公なのか?
なぜミッキー17が主人公なのかと言えば、それは彼が自己というものの存在が唯一無二であることに気づいたキャラだったからかもしれない。というのは、ミッキー17は手違いによって、彼が亡くなる前にミッキー18というコピーが作られてしまい、「マルティプル」と呼ばれる状態になってしまったからだ。
本作の世界ではマルティプルは絶対的な禁止事項になっている(それに関しては、クローン技術開発当時のサブエピソードに描かれることになる)。オリジナルとクローンが同時に存在してはならないことになっているのだ。
ミッキー2をコピーする時には、必ずミッキー1は死んでいなければならない。そういうことになっていたわけだが、それが手違いによってミッキー17とミッキー18が同時に存在することになってしまったわけだ。
それまではミッキーという人間が同時に二人存在することはなかったために、ミッキー自身も差異に気がつかなかったのだ。ところがマルティプル状態になってみると、目の前に自分と同じ身体と記憶を持つ別のミッキーがいるわけで、そうなってくると同じ部分よりも違う部分が見えてきてしまう。ミッキー17にとって、ミッキー18は自分のコピーではあるけれど、やはりどこか違って感じられる。自分の代わりにミッキー18がいるから、自分はもう必要ないとは思えないのだ。
それでもマルティプルは禁止事項であり、そうなった場合、ミッキーたち本人もそれに関わった者たちも抹殺されることになる。だからこそみんな大慌てということになるのだが……。

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脱線部分のほうが面白い?
本筋としてはマルティプルとなってしまった二人のミッキーと、植民地計画のために先住民であるクリーパーを殲滅する作戦が同時並行的に描かれていくことになる。最終的にはハッピーエンドを迎えることになるわけだけれど、ロバート・パティンソンの二役の演じ分けなど面白い部分はあるものの、テーマ的にはツッコミ不足な感じは否めない。
マルティプルに関して言えば、たとえば哲学者の永井均の思考実験にもつながってくるだろう。永井均の思考実験をかなり大雑把にまとめれば、自分と肉体的にも記憶もまったく同じコピーが作られ、それが残っているのならば、「自分は死んでしまってもいい」と思えるか否かということだ。それでも多くの人は感覚的にそれを否定するんじゃないだろうか。
ミッキー17は、ミッキー18というクローンができたからと言って、自分が用無しで死ぬべきだとは思えなかったし、逆に互いに殺し合うような形になっていた。とはいえ、本作の場合、ミッキー17とミッキー18の性格がまったく異なるものになっているわけで、どうしたって自分のコピーとは思えないことになってしまっていて、永井均の思考実験とは別のものになってしまっている。
それからポン・ジュノが『スノーピアサー』や『パラサイト 半地下の家族』などで描いてきた格差社会の話としても中途半端だったかもしれない。確かに本作でも搾取する側と、どん底にいて搾取される側のミッキーがいる。それでもマーシャルは単なる民間企業の経営者レベルだったし、最後に殺されなければならないほどの悪者とは思えなかった(トニ・コレットが演じた奥様と共に面白キャラになっている)。確かにパワハラ男ではあるし、植民惑星のクリーパーにとっては邪悪な存在とは言えるけれど……。
そんなわけでテーマとして深いものが感じられない一方で、脱線気味のところのほうがかえって面白かったりもする。マルティプルが絶対的な禁止事項となるきっかけとなったのは、クローン技術の開発者の一人がヤバい人間だったからだ。殺人事件のアリバイ作りのためにクローンを悪用するという悪い先例を作ってしまったために、マルティプル自体が忌み嫌われるようになってしまったのだ。
また、ミッキーが借金した相手がいかれた残虐趣味の男だというエピソードもブラックで笑えた。それからミッキー17とミッキー18とを、女性二人でそれぞれ共有しようとする話もあり、そっちにもっと展開しても面白かったかもしれない。しかしながら、全体的には雑多なエピソードの羅列にしか感じられないところがあって、作品としてまとまりに欠けていたようにも思えた。
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