『メガロポリス』 失敗するにも才能が

外国映画

製作・監督・脚本は『ゴッドファーザー』シリーズなどのフランシス・フォード・コッポラ

主演は『フェラーリ』アダム・ドライバー

物語

21世紀、アメリカ共和国の大都市ニューローマでは、享楽にふける富裕層と苦しい生活を強いられる貧困層の格差が社会問題化していた。市の都市計画局局長を務め、名門クラッスス一族の一員でもある天才建築家カエサル・カティリナは、新都市メガロポリスの開発を推進する。それは、人々が平等で幸せに暮らせる理想郷ユートピアだった。だが、財政難の中で利権に固執する市長のフランクリン・キケロは、カジノ建設を計画し、カエサルと真正面から対立する。また一族の後継を目論むクローディオ・プルケルの策謀にも巻き込まれ、カエサルは絶体絶命の危機に直面するが─。

(公式サイトより抜粋)

巨匠の大いなる失敗作?

観る前からどうにも評判がよくないのは伝わってきていたけれど、あの巨匠コッポラが40年以上も念願としてきた企画ということもあって、初日に劇場に足を運んだ。けれどもやはり、前評判を改めて確認してきただけだったというのが偽らざるところだ。

失敗するにも才能がいる。そんな言い方をすることもあるけれど、まさに『メガロポリス』こそ、その表現がピッタリなのかもしれない。コッポラはこの作品のために自分のワイナリーの一部を売り払って、巨額の製作資金を調達したらしい。つまりは壮大な自主製作映画ということになる。

その額は日本円にして約186億円だとか。普通の人ならそれだけの金を作るどころか、借りることはもちろんのこと、想像することすら難しい額だろう。コッポラはそれだけデカい失敗をする才能があるということだろう。普通の人はそんな失敗すら無理だからだ。

しかも製作したのはいいものの、買い手もつかなかったようで、配給するのにも一苦労だったようで、興行収入も伸びずに製作費のほとんどが回収できていないあり様だとか。

ところがコッポラとしてはそんな金のことなど気にならないのか、すでに次回作の構想を練っているのだとか。とにかく自分が長らく考え続けてきた作品を形にできたこと自体で満足ということなのかもしれない。それには興行収入だとか、観客の評判などあまり関係ないのかもしれない。もはや仕事というよりは道楽というべきか、狂気というべきなのか……。

©2024 CAESAR FILM LLCALL RIGHTS RESERVED

ニューローマという都市

時代としては21世紀の話なのだけれど、アメリカは“合衆国”ではなくて、“共和国”になっている。そして、かつてのローマと重ね合わせるように、ニューローマと呼ばれている都市が舞台となる。登場人物の名前にもローマ帝国時代の有名な人たちの名前が使われている。

主人公であるカエサル・カティリナ(アダム・ドライバー)は、「カティリナの陰謀」と言われる事件を起こした人物がいたのだそうで、その人物がモデルになっている。そして、その主人公と対立するのがフランクリン・キケロ(ジャンカルロ・エスポジート)市長だ。キケロというのはローマの有名な政治家であり哲学者だ。カティリナに対してキケロが行った弾劾演説が有名なのだそうで、前半でキケロ市長がカティリナをやりこめようと演説するのは、この有名な演説がもとになっているということなのだろう。

劇中のキケロ市長は現実的な政治家で、一方でカティリナは新しい街の建設というものにユートピアを見い出そうとしているらしい。「らしい」というのは、カティリナのやっていることが観ていてもさっぱり伝わってこないからだ。

カティリナはなぜか時を止める能力がある。しかしながら、それが何の役に立つのかはわからない。ただ、時を止めて、それだけで満足し、また時を進めるだけなのだ。時を止めた瞬間、ほかの人はすべて動きを止めてしまうため、何も起きていないように見える。ところが唯一の例外がいて、それがキケロ市長の娘のジュリア(ナタリー・エマニュエル)だった。

このジュリアはアホな富裕層を代表するような人物で、日々享楽的な生活を送っている。ところがそれは仮の姿だったのか、ジュリアはカティリナの時を止める能力のことを知ると、彼に興味を抱くようになっていく。

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メトロとメガロ

本作はタイトルからして、フリッツ・ラングの古典的名作『メトロポリス』を思わせる。階級社会を描いているという点でも共通しているだろう。しかしながら『メトロポリス』の場合は、労働者階級のエピソードが丁寧に描かれていたけれど、『メガロポリス』のほうは労働者階級はその他大勢として登場するだけであまり重要視されていない。だから最後に労働者階級が救われるユートピアが謳われてもピンと来ないのかもしれない。

上流階級であるキケロ市長たちと、これまた指導的立場にあり金持ちのカティリナ。対立する立場のどちらも富裕層で、そんな富裕層が労働者階級のことは放っておいてどんちゃん騒ぎを繰り広げているようにしか見えないのだ。

ジュリアたちアホな富裕層のどんちゃん騒ぎは、どこかで『バビロン』あたりを思わせなくもなかった。とはいえ『バビロン』はテンションの高さでそれをうまく乗り切った気がするけれど、『メガロポリス』の場合は妙に哲学を気取ったりして、どんちゃん騒ぎが空疎に響いている感じがした。

ラストはジュリアが仲立ちをする形で、キケロ市長とカティリナが手を結ぶ形になるのも『メトロポリス』の結末と同じも言える。そして、未来に対しての希望が謳われることになるのだが、そこが性急すぎて何だかよくわからなかった。

ソビエトの人工衛星が落ちるという悲劇があり、街は壊滅的な被害を受けたはずなのだが、そこから本作の悪役であるクローディオ(シャイア・ラブーフ)たちの陰謀があったりするものの、いつの間にかに大団円を迎えることになるのだ。

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愛がなければ

コッポラは脚本を300回も書き直したということらしいのだが、書き直す度に自分がやりたいことばかりが付け加わったのだろうか?

本作には『ベン・ハー』みたいなシーンもあったりするのだが、これらの派手な見世物がそれほど必要だったのかというと疑問だ。とにかく派手な騒ぎはあって、そこではプロレスがあったり、スターのショーがあったりして、ここはかなり金がかかっているのだろう。とはいえ、わざわざIMAXで観るほどのものだったようには思えなかった。

本作はIMAXでの鑑賞を推奨しているのか、通常の2D版よりもそちらのほうが目立つ気もする。私も初日に観ようと思ったら、IMAX版しか時間が合わなかったので、久しぶりに高い料金を払ってIMAXで鑑賞した。

カティリナが建設をしている街は一種のユートピアということで、その街の姿をIMAXのスクリーンで体験できるのかとも思っていたのだが、結局はCGで作ったどこかで観たような街の姿が出てきたような気はするけれど、IMAXでの上映が活きる映画になっているとは思えなかった

カティリナは天才という設定だ。メガロンというものを発明したノーベル賞受賞者なんだとか。ところがメガロンが一体何なのかはよくわからない。建築にも衣装にも使え、終盤でカティリナが暗殺されかけた時には、メガロンによってなぜか傷まで修復してしまったらしい。何でもありの物質らしい。

また、カティリナの時を止める力は、一度は失われるものの、ジュリアとの愛で復活することになる。「愛がなければ」ということなんだろうけれど、まったく説得力に欠ける巨匠の希望が能天気に描かれているようにしか見えなかった。

久しぶりにタリア・シャイアが元気なところが見られたのはよかったかも。『ロッキー5/最後のドラマ』『ゴッドファーザー PART III』も1990年代だったわけで本当に久しぶりだ。それからナタリー・エマニュエルも魅力的だったけれど、それだけが見どころというのはかなり寂しい気がする。

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