『LOST LAND/ロストランド』 物語ではなく歴史

日本映画

脚本・監督・編集は『僕の帰る場所』藤元明緒

ヴェネチア国際映画祭オリゾンティ部門では、審査員特別賞を獲得した。

原題は「HARÀ WATAN」。これはロヒンギャ語では「失われた故郷」といった意味とのこと。

物語

難民キャンプで暮らす5歳のシャフィと9歳の姉ソミーラ。
二人は家族との再会を願い、叔母と共に遠く離れたマレーシアへ旅立つことに。
パスポートを持てない彼らは密航業者に導かれるままに漁船へと乗せられる。
自然の猛威や人身売買の危機に阻まれながらも、
姉弟は過酷な道のりを必死に乗り越えていく。

(公式サイトより抜粋)

ロヒンギャ問題とは?

国連はロヒンギャのことを「世界で最も迫害されている少数民族」としているのだとか。なぜそんなことが起きているのか。そのことに関しては本作では取り上げられることはないのだけれど、その迫害の実情に迫る作品になっている。出演している人の多くはロヒンギャの人で、まるでドキュメンタリーを見ているかのような気分にもなってくる。

公式サイトの「ロヒンギャとは」という解説には、こんなふうに書かれている。

映画に登場するのは、東南アジアの国ミャンマー出身の大半がイスラム教徒である少数民族のロヒンギャ。国籍の剥奪や大規模な虐殺など、長い歴史の中で迫害を受け続けてきた多くのロヒンギャたちは故郷を離れ、隣国バングラデシュに避難し、難民キャンプで生活している。しかし、正式に難民として受け入れられることはなく、新たな住処を求めて国境を越える危険な密航を余儀なくされる人々が今も後を絶たない。

冒頭、主人公であるシャフィとソミーラがいるのはバングラデシュの難民キャンプだ。『LOST LAND/ロストランド』はそこからスタートする。ロヒンギャはもともとミャンマー出身だったのに、生まれた国には居られずに隣国バングラデシュへ避難することを余儀なくされているのだ。

そこから二人は叔母さんと一緒にマレーシアを目指すことになる。バングラデシュから船でタイへと渡り、そこからジャングルの中を歩いてマレーシアへと向かうことになるのだ。

ただ、その行程は楽なものではない。本作はDAY1から始まって日々の経過がカウントされていくことになるのだが、タイへと渡る船で過ごす時間は10日間以上もかかっていたと思う。その間に船の上で亡くなってしまう人もいる。国境付近では警備隊に行く手を阻まれ、散り散りになって逃げ惑うことになる。シャフィとソミーラの旅の行程はそれほどに過酷なものになっているのだ。

©2025 E.x.N K.K.

「見て見ぬふり」はできない

『LOST LAND/ロストランド』はロヒンギャ問題を描いている。日本で暮らしているだけではあまり触れる機会がないロヒンギャ。しかし本作を撮っているのは日本人だし、中心的なスタッフもそうだ。だから本作をカテゴリー分けすれば、日本映画ということになるだろう(日本人はまったく出てこないにもかかわらず)。

そこが不思議だったのだが、藤元明緒監督はミャンマーとの関わりが深いらしい。『僕の帰る場所』という長編第1作は、日本に暮らすミャンマー人親子の話とのこと。それからプライベートではミャンマー人と結婚したということもあって、ロヒンギャが迫害されているという話を聞く機会も少なくなかったらしい。

しかしながらミャンマーではこの問題についてはタブーみたいになっているところがあるようだ。皆、ロヒンギャのことを知っているけれど、触れると面倒なことになるということなのだろう。藤元監督もそういうこともあって、ロヒンギャ問題については「見て見ぬふり」をしていたところがあったということらしい。そのあたりに関しては、公式サイトの「DIRECTOR’S STATEMENT」にも書かれている。

もちろん外部の人が外から見ただけでこうした問題に触れることは難しい。本作には共同プロデューサーとしてロヒンギャの人が関わっている。そうした当事者の人たちの話から本作が生まれたということなのだろう。

もしかすると当事者たちが製作するよりも、外部の人がやったほうが軋轢が少なかったりすることもあるのかもしれない。なぜ日本人がロヒンギャの問題を取り上げるのかという疑問に関しては、藤元監督が「見て見ぬふり」はできないと思ったからということなのだろう。

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親切なタイ人あるいは……

劇中にはそんな藤本監督の気持ちを代弁したかのような登場人物もいた。シャフィとソミーラはようやくタイの沿岸に到着するものの、沿岸警備隊に見つかって叔母さんとは離ればなれになってしまう。その後は同じ船に乗ってきた若者たちと一緒に逃げていたところを親切なタイ人に助けられることになる。

親切なタイ人はロヒンギャが迫害されるのを見つつも、それを助けることができなかったと語る。そのことがあって、今ではロヒンギャに対して親身になっているのだ。彼も「見て見ぬふり」をしていたことを恥じ、ロヒンギャたちに対してできることをしてやろうと考えたということなのだろう。

シャフィとソミーラはそんなタイ人のおかげでマレーシア行きのルートを紹介してもらうことになる。ところが二人が行きついた場所で見たのは、ジャングルの中で檻に入れられているロヒンギャたちだった。そこで行われていたのは身代金ビジネスみたいなことことだったのだ。

一緒にやってきた若者のひとりは暴力を受け瀕死の状態になってしまう。それを見たソミーラはシャフィを連れて檻から逃げ出すことになる。二人はタイのジャングルの中を必死に逃げ惑うことになるのだ。

そうなってくると、あの親切なタイ人を信じてしまっていた観客としては困惑することになる。あのタイ人はスマグラーたちの仲間ということだったのだろうか。スマグラーというのは、「違法に商品や物品を国境を越えて運ぶ人」のことだ(この言葉は上映後の舞台挨拶で知った)。劇中のそのタイ人の描写は、特に裏表もなさそうだっただけに、親切心からの行動だとばかり思っていたのだが……。

もしかするとこういうことかもしれない。違法に国境を越えたりする必要がある場合、当然ながらロヒンギャは正しいルートなど知るわけもないわけで、どうしてもスマグラーたちが付け入る隙ができることになる。後半に登場するマレーシア行きを手配してくれたロヒンギャ人は、真っ当なスマグラーだったのかもしれないけれど、悪徳スマグラーも存在するということなのだろう(もしかするとスマグラーという言葉からして、“真っ当な”スマグラーなんてものは存在しないのかもしれないけれど)。

先ほどの親切なタイ人は、親切心でロヒンギャを助けるために行動していた。それでもその先のことまでは彼は知らないのだろう。そんな親切心を悪用するようなスマグラーもいるわけで、その結果が本作で描かれているということだろうか。

そのあたりは私の勝手な解釈だが、どちらにしてもシャフィとソミーラが辿った旅の行程は、子どもたちだけで渡っていけるような道のりではないことは確かだろう。

※ 以下、ネタバレもあり!

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物語ではなく歴史

シャフィとソミーラは二人だけになってしまっても、サトウキビを食べてたりして飢えをしのぎつつ、何とか生きていく。ソミーラはシャフィをずっと抱っこできるほど身体は大きくないから、ある場所で台車を拝借してそれにシャフィを乗せて引っ張って歩くことになる。そんなソミーラの姿がけなげだっただけに、ラストは何とも言えない気持ちになる。

ソミーラはマレーシア国境付近での混乱の中で、銃弾に倒れることになるからだ。このシーンは暗いし酷く呆気ない。それでもだからこそリアリティのあるシーンになっていたのかもしれない。

冒頭で二人はかくれんぼをしていた。ラストでシャフィがその真似事をしているのは、そうしていれば消えてしまったソミーラがまた自分を見つけ出してくれると願ってのことだろう。いつも元気にはしゃぎまわっていたシャフィだけに、ラストの表情が何とも切ない

私が鑑賞した劇場では上映後に藤元監督以下スタッフによる舞台挨拶があった。ここでは藤元監督の挨拶から始まり、本作の共同プロデューサーでもあるスジャウディン・カリムディン氏の貴重な話を聞くことができた。彼はロヒンギャだ。

スジャウディン氏は自分のことを非常にラッキーなロヒンギャだと語っていた。彼自身も劇中のシャフィとソミーラと同様に船に乗って国外への脱出を企て、同じような過酷な道を渡ってきたのだ。

その途上では誰かにつかまって奴隷のような状態に陥ったこともあったらしい。それでも今現在は来日して上映後の劇場で舞台挨拶に登場している。けれどもその旅の行程で亡くなっていった人のほうが多かったというのがロヒンギャの現実ということらしい。

スジャウディン氏は藤元監督やプロデューサーの方(この方が当日の通訳をしていた)から映画の話を聞いた時に、「ロヒンギャの話を語りたい」と思ったそうだ。そうしたロヒンギャの人たちからの話から本作が生まれているというわけだ。

印象的だったのは、ロヒンギャにとっては本作は単なる物語ではなくて歴史でもあるというスジャウディン氏の言葉だ。本作はフィクションではあるけれど、描かれていることは多くのロヒンギャが体験してきたことだということなのだろう。

「見て見ぬふり」はできないというのが本作の出発点だった。とはいえ、自分にできることはごく限られているけれど、とりあえずは本作が観るべき価値のある作品だということは言っておきたいと思う。

本作のシャフィとソミーラの姿を見ていると、理不尽なものは誰でも感じるだろう。生まれる場所はもちろん民族も誰も選ぶことなどできない。それでもなぜかそれによって多くのことが決まってしまう。それでいいわけないはずだ。単純にそう感じざるを得ないわけだが、解決策というものはまだ見えてきてはいないようだ。

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